明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 32

154.『須永の話』(10)――ファルスが書かれることもある


 まだ『須永の話』さえ終わっていない段階での年表の話は、混乱の元となるかも知れないが、前項の最後で触れたように、最終話『松本の話』では物語のカレンダーについて、また独自の展開も予想されるので、大きな混乱を避けるためにも、その前に一通りのまとめを行なったことをご了承願いたい。

 ここで改めて鎌倉の物語は、市蔵26歳、千代子20歳のときの出来事である。年表の項に入る前の「一日一回」は、「第3章避暑地の出来事(全7回)」の最終回「19回混雑する夜」であった。次章に進む前に、本筋とは関係ないが、この回の記述に1点気になるところがあるので、それから始めたい。

19回 混雑(ごたごた)する夜~「市さん何うだい、暑いじゃないか」(つづき)

 其晩は叔父と従弟を待ち合わした上に、僕ら母子が新たに食卓に加わったので、食事の時間が何時もより、大分後れた許でなく、私かに恐れた通り甚だしい混雑の中に箸と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑いながら、市さん丸で火事場の様だろう、然し会(たま)には斯んな騒ぎをして飯を食うのも面白いものだよと云って、間接の言訳をした。(『須永の話』19回冒頭)

 田口の家は夫婦と子供3人、当時としては最小のユニットであろう。千代子も百代子もおしとやかとは言えないが、それでも喧しく飯を食う人間を探すとすれば、中学生の吾一くらいのものだろう。田口家の食卓が毎日火事場のようであるとは、にわかに信じがたい。
 当日の客たる市蔵も市蔵の母も、静かな人間である。前日までの細君と女の子2人だけの静かな夕餉の膳に比べれば、3人が7人になったのであるから、それはそれで賑やかではあろうが、火事場というのは大袈裟過ぎないか。漱石は(遠藤周作と違って)法螺は吹かない。それに揚げ足を取るようで気が引けるが、夕食の時間が「いつもよりだいぶん遅れた」とは、誰が何について述べたことがらであろうか。市蔵たちはこの日から避暑地に加わったので、田口家のいつもの夕食時間は知らないはずである。
 漱石は自分が鎌倉へ行った時の記憶をそのまま書いているのではないか。あるいは田口の家と松本の子沢山な家族構成を混同しているのではないか。

 それはまあどうでもいいことかも知れないが、鎌倉の第一夜は何とかやり過ごして、引き続きの数回は、「田川の蛸狩」の落ちをつけたわけでもなかろうが、番外のような感じもする、鎌倉の海での蛸狩である。漱石作品では時折ファルスが挿入されることがある。前作『門』でも甲州の織屋が登場した。シェイクスピアの影響であろうか。
 茶番の後はまた本筋に戻る。戻るところが漱石らしい。本筋のテーマは嫉妬の研究である。

第4章 暗闘(全5回)

20回 雨の魚捕~「御前達も尻を捲るが好い」

 翌くる日は朝から雨であった。漁師に言ってあるので皆で出かけた。高木は来ない。吾一が迎えに行く。

21回 浜の方へ~西の者で南の方から養子に来た者

 静かな磯に浮かぶ真っ白に塗った空船。隠袋から白い手巾を出す高木。編笠を被って白の手甲と脚絆を着けた月琴弾の若い女

22回 船頭の家~この小旅行は千代子と高木のためにあるのか

 発達した高木の肩の筋肉。背の高い高木とすらりとした千代子。対するに市蔵のおそらく豊とはいえないであろう肉体。嫉妬の出る幕すらない。幻滅と憧れ。男体と女体、双つながらに憧憬し幻滅す。

23回 乗船~「何故?此所にいちゃ邪魔なの」

 高木は昨日より少しだけ控え目に見える。市蔵の嫉妬心が移ったのか。
 市蔵は激しい恋をしたとしても、その激しさと同じくらい激しい競争を強いられるのなら、始めからその恋をあきらめて、淋しくその女を眺めていたい。
 激しい競争を経て始めてどちらかに決める、という女は、煎じ詰めるとどちらへ行ってもいいという女である。そんな女は自分が命をかけて争うに値しない。
 市蔵のこの奇妙な理屈は、漱石の見合いをするなら断らない、というやけくそみたいな行き方に通ずるものがある。

24回 蛸狩り~蛸はもう沢山

 市蔵と千代子が並んで船板に着席して始まった蛸狩り。最後はなぜか高木と千代子が並んで終わった。高木の出番はこれでおしまい。14回に登場して24回まで。あとは何回か名前のみ参照される。短いというべきか長いというべきか。
 それにしても高木という人物の魅力なさは際立っている。漱石作品には珍しい常識人として、おそらく『猫』の鈴木藤十郎以来の登場と思われるが、鈴木藤十郎は苦沙弥たちの学友だけあって、話が分かる人間である。それに引き換え高木は言う事が少しも面白くない。漱石でもこんな人物を造型することがあるのか。ある意味では市蔵の嫉妬心に対する挑戦・欺瞞ではないか。あるいは嫉妬から逃避しようとしているのではないか。市蔵は高木なんぞに嫉妬している暇があったら、もっと他にやることがあったはず。千代子はそれを言いたかったのではないか。