明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 22

144.『雨の降る日』(2)――事故のてんまつ


 千代子によって語られる、宵子の悲しい事故は、漱石の筆でリライトされた。この章の主人公は(敬太郎でなく)千代子であるとも言えるが、『明暗』のお延ほどではない。千代子が敬太郎に語っているという設定は、すぐ忘れてよい。
 モデルとなったのは11月末から12月初めにかけての実際の出来事である。『雨の降る日』では時期はどう書かれるか。

 夫は珍しく秋の日の曇った十一月のある午過であった。(『雨の降る日』2回)

 其うちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主になった梧桐をしたたか濡らし始めた。松本も千代子も申し合せた様に、硝子越の雨の色を眺めて、手焙りに手を翳した。(同3回)

 そこへ紹介状を持った客が来る。――勿論敬太郎ではない。敬太郎はそのあと(11月でなく)迷惑にも年の瀬の迫るころになって松本家を訪れている。

 車が駆け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅が白茶けた幹を路の左右に並べて、彼等を送り迎える如くに細い枝を揺り動かした。(同8回)

 葬儀は漱石の実体験通り、12月に入っているようでもある。だいいち時期をずらす理由がない。では『停留所』事件は、葬儀の月、まだ三七忌くらいの頃の出来事だったのか。その日千代子は夕刻まで須田町の須永の家にいた。松本は(田口の策略で)小川町で千代子と会食するのはいいとして、須永の母子も誘うのが筋ではないか。須永は骨上げにも行っているのである。それはまあ作家の勝手として、レストランで敬太郎が漏れ聞いた会話の断片から、幼子の埋葬の気配は感じられない。そもそも田口が不幸があったばかりの松本に、そんないたずらを仕掛けるのはありえないのではないか。それともすべてこの掌篇に昇華させるために、他の諸篇と完全に独立させたかったのか。

 それにしても前項でも引用した『雨の降る日』1回末尾の、

「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきり能く御客を断わった事があってよ。今でも左うかしら」(同1回、再掲)

 という千代子の台詞には改めて驚かされる。松本の末子宵子は千代子のお気に入りである。理由は一番小さいからである。適齢期になろうとする千代子にとって、赤ん坊にちかい存在は神の捧げものであったろう。その児が千代子に一匙ずつ養わせている最中に突然倒れたのである。(正確にはスプーンを自分で持ったときに。)千代子は自分に責任があるようにわっと泣き伏した。それがわずか12月、1月、2月になったばかりで、このような他人事みたいな話し方になるだろうか。漱石が『雨の降る日』を書いたのは3月2日から3月7日までの6日間であるが、その第1回はまさしく3月2日に書かれている。千代子の呟きが2月でなく3月であったにせよ、余りにも過去を忘却した言い方ではないか。
 漱石は雛子の記念のためと釈明するが、ここではついでのように松本(漱石)の家族が全員紹介される。

・第1子 咲子 13歳 ・・・ 筆子 13歳
・第2子 ―― 11歳 ・・・ 恒子 11歳
・第3子 重子  9歳 ・・・ 栄子  9歳
・第4子 嘉吉  7歳 ・・・ 愛子  7歳
・第5子 宵子  2歳 ・・・ 純一  5歳
・第6子 ・・・・・・・・・・ 伸六  4歳
・第7子 ・・・・・・・・・・ 雛子  2歳

 松本家の第2子(長男)のみ名前がない。創作メモにもない。相続する者の名を意図的に隠しているのではないか。夏目家の男子は2人とも抹消された。男の子にされてしまった夏目家の二女と四女も気の毒だが、長女筆子はまあ『猫』のときから馴れっこだから(有名税として)我慢するとして、三女栄子だけが無事に済んだようである。その三女だけが漱石に似て長寿を保てなかった。漱石の子らにとってはとんだ記念というべきであった。

 もうひとつ、骨上げに行ったのは、御仙、千代子、市蔵、清の4名とされるが、なぜ(雛子のときのように)家族全員で行かなかったのだろうか。それは小説用の脚色だとすれば傍からとやかく言う話ではないが、御仙(松本恒三の細君)と同行するなら、下女などより松本の姉たちの方が適任ではないか。灰になった吾子を見て泣き崩れるであろう御仙の力になれるのは、(松本でなければ)同年輩の2人の義姉しかいない。市蔵と千代子は小説の後半のために外せないのだろうが、『彼岸過迄』が市蔵と千代子の物語であることは、この段階ではまだ明確にはなっていないのである。そして千代子はともかく、市蔵が故人と血が繋がっていないことを松本は知っている。4人の内2人が血が繋がっていない。この人選の真因は何であろうか。
 松本は宵子が一番大事で他の子と替わったらよかったと呟いて、長女(第1子)と次女(第3子)の顰蹙を買うが、長男(第2子)の反応を書かなかったことといい、漱石がいかに自分の子供に無関心であったかが伺われる。逝った女児に対する哀惜の念としては、あまりに突飛すぎるからである。それとも明治の男とはこんなものだったのか。
 思うに源氏の末裔漱石としては、火葬を忌み嫌うような気持ちが残っていたに相違ない。あれは素町人・実業家のやることで、高等遊民の決してよくする技にあらず。火葬・水葬するのは平氏で、源氏は土葬・風葬である、と思っていたわけでもなかろうが、実際と乖離の目立つ骨上げの記述を見ていると、何となくそんなふうにも感じられる。

 現実との乖離といえば、松本の細君御仙は当初原稿では御多代と書かれていた。(柏木の停車場も代々木の停車場と書かれていた。)創作メモでは(ちゃんと)御仙になっている。漱石は『雨の降る日』をなるべく突き放して書きたかったのだろう。一件の日があまりにも近いので、日記みたいになることを恐れた。それで書いているときは鏡子とイメジのまったく重ならない多代にしてしまったが、後日思い直して松本の妻らしい御仙という名に戻したのだろう。(松本という造型が漱石丸出しなのだから、小細工を弄しても所詮仕方ないのである。)漱石は嘘は吐けない。正直に書いた方が漱石らしい。小論で引用に使用する(原稿準拠の)漱石全集では御多代であるが、ここでは漱石の意を汲んで御仙としておく。