明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 37

159.『松本の話』(1)――市蔵はいつ知ったか


 いよいよ最終話『松本の話』である。まず最初に外形的な問題から考えてみたい。松本が須永に出生の秘密を打ち明けたのはいつのことか。須永はいつそれを知ったかという問題である。

 その前に、この小話で松本が話している相手が敬太郎であることは疑いようがない。松本(僕)は随所で敬太郎を「君」と呼びながら親しく語りかけている。昨年末に奇妙な尾行事件をきっかけに知り合った市蔵の友人。まだ知り合って2、3ヶ月くらいしか経っていない。それなのにこんな内輪の秘密を他人に喋ってよいのかという疑問については、ここでは取り上げない。もちろん松本は喋って構わないと小説の中ではっきり断っているが(5回)、それが書かれなかったとしても、これは小説の結構の話であり、他がとやかく言う話でない。
 その松本が敬太郎相手におしゃべりしているのはいつか、については、前話『須永の話』に引き続きと見ていいだろう。明治45年2月頃と見ていい。もちろん3月でも問題ないようである。お彼岸過ぎには物語は終わるのであるから、ぎりぎり延びてもまあその辺であろうか。

 僕が此過失に気が付いたのは今から二三年前である。然し気が付いた時はもう遅かった。

 今から慥一年位前の話だと思う。何しろ市蔵がまだ学校を出ない時の話だが、ある日偶然遣って来て、一寸挨拶をしたぎり直何処かへ見えなくなった事がある。(以上『松本の話』2回)

 松本の言う「過失」とは、市蔵の内向的な性格に気付かないまま、自分の高等遊民的生き方を押しつけてしまったという悔恨である。苦沙弥も迷亭も寒月でさえ、自分の趣味人生観に疑問など抱かない。市蔵は猜疑心の塊まりである。高等遊民になりようがない。
 2、3年前というのは、明治42、43年、市蔵が大学2年から3年にかけての頃である。4年になる前の夏休みが例の鎌倉事件であるから、ぎりぎりそれも含まれるかも知れないが、ふつうに考えるとその前の、母が千代子との結婚話を持ち出して、市蔵が鬱屈し始めた頃を指すのだろう。(本ブログ28「須永の話(6)――市蔵のカレンダー」参照)
 1年前というのは、「年表」の項で市蔵と御仙の接触を調べるために引用した、雑誌口絵の美人画事件のことである。
 松本はまさしく物語の今現在を活きて、敬太郎に一族の秘密をべらべら喋っているのである。

 そして本題の、市蔵がいつ知ったかであるが、これはこの小話全体が市蔵の卒業の頃の事件として語られるから、これは間違いなく明治44年のことである。

 市蔵の卒業する二三ヶ月前、たしか去年の四月頃だったろうと思う。僕は彼の母から彼の結婚に関して、今迄にない長時間の相談を受けた。姉の意思は固より田口の姉娘を彼の嫁として迎えたいという単純にしてかつ頑固なものであった。(同3回冒頭)

 ・・・それで、今親類中に、市蔵の尊敬しているものは僕より外にないのだから、兎も角も一遍呼び寄せて篤と話して見て呉れぬかという彼女の請を快く引受けた。
 僕が此目的を果すために市蔵と此座敷で会見を遂げたのは、夫から四日目の日曜の朝だと記憶している。彼は卒業試験間近の多忙を眼の前に控えながら座に着いて、何試験なんか何うなったって構やしませんがと苦笑した。(同3回)

 今から1年前の明治44年4月の日曜日。まさにこの同じ座敷で、松本は市蔵に話したのである。

 若葉の時節が過ぎて、湯上りの単衣の胸に、団扇の風を入れたく思う或日、市蔵が又ふらりと遣って来た。僕が彼の顔を見るや否や第一に掛けた言葉は、試験は何うだったいという一語であった。彼は昨日漸く済んだと答えた。そうして明日から一寸旅行して来る積だから暇乞に来たと告げた。(同8回冒頭)

 6月の終わり、市蔵の京都・須磨明石の旅行で、物語はめでたく幕を閉じる。ことによると市蔵は広島辺まで足を延ばしたかも知れないが、山陽道のことを書かないのは漱石の主義のようであるから、それは以前にも書いたように『暗夜行路』で偲ぶしかない。

 いずれにせよここで『彼岸過迄』の年表も確定を見たわけである。物語の見かけのカレンダーは次のようになる。物語は暦通り進行していた。

①『風呂の後』 明治44年11月
②『停留所』  明治44年12月
③『報告』   明治44年12月
④『雨の降る日』明治45年2月
⑤『須永の話』 明治45年2月
⑥『松本の話』 明治45年2月(または3月)

 語られる中身の方であるが、実際に起きた事件のカレンダーは次の通りである。括弧内は市蔵の年次である。市蔵が出生の秘密を知ったのは前述のように明治44年4月である。

⑤『須永の話』前半 明治42年4月~10月頃(25歳。大学2年から3年にかけて)
⑤『須永の話』後半 明治43年7月または8月(26歳。大学4年になる夏休み=鎌倉事件)
⑥『松本の話』   明治44年4月~6月(27歳。大学4年/卒業前)
①『風呂の後』   明治44年11月(27歳。卒業後)
④『雨の降る日』  明治44年11月~12月(27歳。卒業後)
②『停留所』    明治44年12月(27歳。卒業後)
③『報告』     明治44年12月(27歳。卒業後)

 これによると市蔵が出生の秘密を知った後の(市蔵の)出来事は、6月の「卒業旅行」は別として、『雨の降る日』の鍵置き忘れ事件のみということになる。『風呂の後』『停留所』『報告』では市蔵はほとんど登場しない。見事に収められた構成というべきであろうか。
 しかし何度も繰り返すが、上記『松本の話』の明治44年(4月)は、市蔵が秘密を知った年である。そして市蔵が葛飾柴又で敬太郎に、自分の生い立ちや千代子とのいきさつ(前半・川甚)、鎌倉における千代子とのいさかい(後半・茶店)を語ったのは明治45年2月であるから、このときはすでに市蔵は松本から聞いていたのである。もちろん敬太郎がこのあと同じ話を松本から聞くのは、市蔵の知ったことでないから、このとき市蔵は敬太郎に自分の秘事まで喋る必要はない。市蔵が母の子でないと、敬太郎に打ち明けないことは何の問題もない。しかし市蔵はそのことを知ってしまっているのだから、父や母の過去の言動についての「疑念」を、誰かに表明する理由がないこともまた真理である。

 ・・・僕は何心なく従妹は血属だから厭だと答えた。母は千代子の生れた時呉れろと頼んで置いたのだから貰ったら可いだろうと云って僕を驚ろかした。何故そんな事を頼んだのかと聞くと、何故でも私の好きな子で、御前も嫌う筈がないからだと、赤ん坊には応用の利かない様な挨拶をして僕を弱らせた。段々其所を押して見ると、仕舞に涙ぐんで、実は御前の為ではない、全く私の為に頼むのだと云う。しかも何うして夫が母の為になるのか、其理由は幾何聞いても語らない。最後に何でも蚊でも千代子は厭かと聞かれた。僕は厭でも何でもないと答えた。(『須永の話』6回)

 このような例は『須永の話』全体に散らばっている。ではその意味で『須永の話』は無価値なのか。そうではあるまい。市蔵は後に得た情報はすべて棄却して、その当時の母(父・叔父叔母)と自己の言動のみ、読者に忠実に伝えようとしたのであろう。しかしこれを故意の隠蔽と見れば、『彼岸過迄』の物語はすでに破綻していると言われても仕方がない。