明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 6

128.『風呂の後』一日一回(3)――11回~12回


11回 敬太郎雷獣に怒る

 正直な彼は主人の疳違を腹の中で怒った。けれども怒る前に先ず冷たい青大将でも握らせられた様な不気味さを覚えた。此妙に落付払って古風な烟草入から刻みを撮み出しては雁首へ詰める男の誤解は、正解と同じ様な不安を敬太郎に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術の如く巧みに烟管(キセル)を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく眺めていた。そうして只知らないというより外に、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。果して主人は容易に烟草入を腰へ納めなかった。烟管を筒へ入れて見たり出して見たりした。其度に例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎は仕舞に何うしても此音を退治て遣りたいような気がし出した。(『風呂の後』11回冒頭)

 敬太郎は怒った。短気だから怒ったのではない。正直だから怒ったのである。
 主人が最初から疑ってかかれば、むしろ敬太郎は余裕を持って、居所など知らないと突っぱねることが出来た。なぜなら主人の誤解は主人が悪いのであり、敬太郎の責任ではない。
 しかし主人が敬太郎を疑ってないとすれば、ただ質問しただけの主人サイドに、瑕疵はないことになる。
 敬太郎が凡俗の男であれば、雷獣が猜疑心の塊りであろうがなかろうが、知らん顔するところである。あるいは雷獣と一緒になって、森本の部屋で手紙か書付の類いを探そうとするかも知れない。自分の探偵趣味も手伝って。
 しかし正直な敬太郎は、この場合善意らしい主人に対して、自分の潔白を立証出来ないがゆえに不安になり、腹が立ったのである。森本の連絡先について知るすべを持たないと言う主人に対して、自分もまたしかりとだけ言いたくない。ツムジが曲がっているというよりは、自分が正しいということを証明できるかどうかの方に関心が行く。
 自分が正しいかどうかに最大の関心が行く。これが漱石のいう真の癇性であろう。凡俗は怒らない。怒ったからといって、いいことは一つもないからである。世間の人はこれで人間関係をまるく収めようとする。その方が自分にとって得になるからである。
 それは自分を偽ることである、と潔癖な漱石は考える。損得ではない。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る」という坊っちゃんのボヤキ乃至は矜持は、この自分の性向を説明しているのである。

 漱石が『猫』や『坊っちゃん』を書いて、やや気が晴れたように、敬太郎も雷獣を怒鳴りつけてスッキリした。

 室を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気色も見えなかったので、敬太郎は怒って遣って好(い)い事をしたと考えた。(同11回)

 よいことをした。
 これは前著でも述べたが、『彼岸過迄』『行人』『心』にのみ見られる、主人物の共通した自己肯定的述懐である。

・『彼岸過迄』市蔵に出生の秘密を喋った松本の述懐。
・『行人』女景清のエピソードでの父の述懐。
・『心』家屋敷を騙し取られた話を下宿の母娘に披露したときの先生の述懐。

 この中期三部作が、「短篇形式三部作」だけでなく「善行三部作」「自画自賛三部作」とも言えることについて、前著で項を割いたが、ややこしい話でもあるので、詳しくは次項でまた述べたいと思う。そのきっかけは早くも『風呂の後』に現われていたのである。

 そして留飲を下げた敬太郎が、あるとき電車で乗り合わせた女についての描写が、第2話以降につながるもう一つの伏線となるようだ。

 或る晩も其用で内幸町迄行って留守を食ったので已を得ず又電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈の袢天で赤ん坊を負った婦人が乗り合せているのに気が付いた。其女は眉毛の細くて濃い、首筋の美くしく出来た、何方かと云えば粋な部類に属する型だったが、何うしても袢天負(おんぶ)をするという柄ではなかった。と云って、背中の子は慥かに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。猶能く見ると前垂の下から格子縞か何かの御召が出ているので、敬太郎は益変に思った。外面は雨なので、五六人の乗客は皆傘をつぼめて杖にしていた。女のは黒蛇目であったが、冷たいものを手に持つのが厭だと見えて、彼女はそれを自分の側に立て掛けて置いた。其畳んだ蛇の目の先に赤い漆で加留多と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 此黒人だか素人だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉を心持八の字に寄せて俯目勝な白い顔と、御召の着物と、黒蛇の目に鮮かな加留多という文字とが互違に敬太郎の神経を刺戟した時、彼は不図森本と一所になって子迄生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「斯ういうと未練がある様で可笑しいが、顔質は悪い方じゃありませんでした。眉毛の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といった様な言葉をぽつぽつ頭の中で憶い起しながら、加留多と書いた傘の所有主を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼を何処に連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。(同11回末尾)

 女が(頁に)登場すると、漱石の文章はなぜこんなにも活き活きとした艶が出るのであろうか。漱石もまたエロティシズムを追求する作家なのであろうか。

12回 冒険者の手紙

 手紙もまた(風呂どころでない)、漱石作品の最重要アイテムである。漱石はまとまった日記は残さなかったが、手紙と小説は生涯書き続けた人であった。立派に家庭も持ち、仕事と交際も律儀にやり遂げた、と傍には見える。本人は何一つ充足を得られず、不満足に胃が爛れんばかりであった。本論考はその(漱石の)「爛」の謎を解こうとするものであるが、そもそもそれを外して作家を論ずる意味はない。
 手紙は西洋罫紙に書かれたものであった。森本は大連にいた。森本もまた『門』の坂井の弟や安井のような「冒険者」になった。しかし『門』の冒険者がその消息を絶ったように、『彼岸過迄』の冒険者もその後の発展はなかった。『明暗』で小林は朝鮮へ渡ろうとしている。『明暗』が完成したとしてなお、小林の(冒険者としての)発展譚は書かれないだろうと、論者は確信する。