明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 7

129.『風呂の後』補遺――自画自讃三部作


漱石「最後の挨拶」番外篇]

 『風呂の後』が終ったところで、前項で述べた自画自讃三部作について、前著(『明暗』に向かって)の当該箇所を引用することにより、補足としたい。

『明暗』に向かって――59.お秀はいつ知ったか――より引用

59.お秀はいつ知ったか

 前項(58.先生さよなら(承前)――先生はなぜ死んだのか)でくどくど述べたにもかかわらず、Kが自殺する理由が今ひとつ分かりにくいのと同様、先生の死の理由もやはり読者にとっては分かりにくい。そしてその先生がなぜ長い遺書を書いたかについても、読者は納得のいく説明を受けていないようである。
 究極の推理は、先生が人生の晩年にあたって、『遺書』という『坊っちゃん』と同じ長さの小説を書いて、年の若い友人に読ませたというものである。同じ推理は『猫』にもあてはまる。主人公の斑猫(黒猫ではない)は、ビールを飲んで甕に落下し念仏を唱えたが、死んだとまでは書いてない。酒の呑めない漱石はそう考えたかも知れないが、だいたい人や猫はビールくらいで死ぬものではない。
 まあこれは漱石によって明確に否定されているが、しかし漱石は理詰めに否定したのではなく、『猫』の続篇を書け書けという要請をうるさがって、単行本の巻末に、死んだものが生き返るかと啖呵を切っただけであるから、本当はどうなのかは本人しか知らないところであろう。
 それはさておき、先生は「私」にいつか自分の過去を話すと約束し、そしてその約束を履行するためにのみ遺書を書くと言っているが、先生は必ずしも誰かに自分の思いを打ち明けたがって困っていたのではないようだ。誰でもいい、自分の経験は読む値打ちがある、聞く価値があるというのではないようだ。
 書き終えたときはその出来栄えに、自分にも他の人にも有効かも知れないと思い直しているが、筆が滑ったのであろう。妻に読ませられないものに何で一般的な価値があるだろうか。

 下宿した先生は、お嬢さんに対する恋心が芽生え始めたころ、騙されて故郷を捨てた過去を奥さんお嬢さんに話して、大変感動・同情された。そのとき先生は彼らの反応を見て、「話して好い事をした」と思う。奥さんお嬢さんにとって好い事をした、という書き方である。(『心/先生と遺書』15回)

 これはまた別の意味で分かりにくい話である。自分の(ろくでもない)過去の話が人に感動を与えるとして、それがいい事か悪い事かというのはなかなか凡人の発想ではない。なぜこんな打明け話が「いいこと」なのだろうか。相手が満足なら好いというだろうか。正邪が相手次第というのは漱石には本来無い発想である。

 前作『行人』の女景清(何度も持ち出して恐縮だが)では、長野の父が女を無理矢理得心させたことについて、「好い功徳をなすった」と客人のひとりに(皮肉でなく)言わせている。父のいい加減な話が、それでも女を安堵させた(と父は信じている)という点を、一方ならず評価している。(『行人/帰ってから』19回)

 その前の『彼岸過迄』でも、市蔵に出生の秘密を明かした松本は、「善い功徳を施した」と自画自讃している。自分の生みの母親が別人だったという、驚愕の内実を聞かされた甥の市蔵が、そのことで慰藉されたと思い、それに対して話した本人は愉快を感じていると、何の迷いもなく書いているのである。(『彼岸過迄/松本の話』7回)

 人は真実を知れば必ず安堵する、というのは漱石らしい価値観である。『硝子戸の中』29回で、下女から祖父母が実の両親であると教えられて、漱石はその事実より下女の親切が嬉しかったと見栄を張っているが、どう考えても漱石は真実を知ったことを喜んでいる。それでもここに挙げた『彼岸過迄』『行人』『心』のような、こんな自画自讃は漱石の他の作品には見当たらない。(その意味でこの三作は「善行三部作」ともいえるし「自画自讃三部作」ともいえる。)

 要するに先生は、それが学生の「私」に対して好い事・「私」との約束を遵守する正しい事という動機だけで、遺書の執筆にとりかかったように見える。
 先生は自分の生きて来た経緯(悩み)について、書く価値があると思ったから書いたのではない。先生の遺書は(書生の)「私」にのみその価値(存在理由)がある。
 先生の遺書は、擱筆したときの楽観的なモノローグにもかかわらず、やはり読者一般でなく、年下の一友人に向けて書かれている。これが『心』が読者に異様な感銘を与え、いつまでも読み継がれる要因であろうか。反語的な言い方になってしまうが。

 前述した、先生の遺書の中で、「私(わたくし)」でなく「私(わたし)」と読むべきであるという、小論の根拠らしきものも、ここにある。原稿にルビはない。新聞には一般的なルビたる「わたし」が振られたが、初版時は「わたくし」と改められた。文法的には「わたくし」であろう。それが正しい以上漱石は苦情を言うことはしない。
 しかし漱石は女でなければ改まったときだけ・目上の人に対するときにだけ、「わたくし」と言うようである。遺書はあらたまった文書と言えるかもしれないが、この場合はそうでない。先生の遺書は妻に読ませてはいけない、謂わばプライベートな手紙である。若い学生に宛てて書く漱石の中では、「私」は「わたし」だったのではないか、余談ではあるが。(以下略)

漱石「最後の挨拶」番外篇 畢]