明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 11

224.『心』先生さよなら――先生はなぜ死んだのか


 『心』の先生とK、2人の悲劇については前著でも考察した。もちろん教科書的には、Kの告白を聞いた先生が自分の気持ちを正直にKに打ち明けないで、Kを出し抜くような形でプロポーズして結婚を決めてしまう。この世で一番惨めな思いをしたKは、その前にすでに、女に恋心を抱くような、自身の勉学(道の探求)の邪魔になるような行為について、深く後悔しているところであった。進路や養家とのトラブル、生家からの義絶やそれらを苦にした神経衰弱もあって、若く清廉なKは自らの命を断ってしまう。Kに済まない気持ちでいっぱいの先生は、その後鬱々とした日々を送るが、生きていて何も愉しまず、Kの鎮魂以外に目的もないことに今さらながら気付かされ、最後に若い友人に遺書を書くという小さな仕事をなしとげたあと、卑怯であった(と自分が信じた)自分の人生を清算する。そのきっかけは、明治の終焉というような俗耳に入りやすい出来事というよりは、眼の前に死んだKと同じ、卒業を控えた同じ年齢の若い友人を見たことによるものでもあろう。

 しかし納得しようがしまいが、それで話が済むなら、『心』はこれほどに広く読まれはしないはずである。これは『心』に限ったことではないが、その探求のために論者はここまで様々書き連ねても来た。
 ここで前著(『明暗』に向かって)より引用する「58.先生さよなら(承前)―― 先生はなぜ死んだのか」は、先に本ブログ行人篇(第22項)
漱石「最後の挨拶」行人篇 22 - 明石吟平の漱石ブログ

でも引用した「57.先生さよなら」のつづきの部分に当たるものである。

58.先生さよなら(承前)―― 先生はなぜ死んだのか

 『心』の先生の遺書(『心/先生と遺書』全56回)は『坊っちゃん』と同じ長さの小説である。読者に強いインパクトを与えるのに漱石としてはいちばん適した、一気に読める(書ける)ボリュウムである。
 『坊っちゃん』以外は一気には書けなかったが、長さだけからいうと、『彼岸過迄/須永の話~松本の話』(合計47回)も、『行人/塵労』(全52回)も似た分量である。
「須永の話」「松本の話」は、敬太郎を主人公として語られてきた『彼岸過迄』が、敬太郎では持ち切れなくなったのか、目先を変えるためか、後半では市蔵と松本が「僕」として喋っている。ただしその内容は、市蔵と千代子の大喧嘩、そして市蔵の出生の秘密にまつわる驚愕の逸話である。
「塵労」の方は、『行人』の執筆中に漱石胃潰瘍で倒れ、半年後再開したときに、もう終結部分だけ書くはずだったのを、なぜか独立した一篇として書いてしまったという代物。『行人』の不統一さの元兇ともされるが、「塵労」の話者は前半まで二郎が継続して担当し、後半は同僚H教授の手紙という形式で、長野一郎の(漱石を思わせる)メランコリックな教師像が語られる。
(一郎はそれまで漱石の書いて来たなかで最も「変な男」である。そのためというわけでもあるまいが、一郎の周囲の友人知人はすべてアルファベットの頭文字で表記される。まるで彼らを一郎から隔離するかのように。)
 ついでに言えば「松本の話」も、最後の三回分は市蔵の手紙で占められている。内容はともかく、これらの書き方が直接に『心』の構成に受け継がれたのであろうか。

 『心』の先生はなぜ自殺したか。それは簡単である。同級生Kが自殺したからである。そして先生はその自殺を見習うことにした。一義的にはそれで尽きている。ではなぜKは死んだのか。Kの死に先生はどのような責任を感じたのか。あるいは心の奥底で賛同したのか。そのあとなぜ先生は十何年も生きてから自殺したのか。この継続的に残された疑問については、やはり答えられねばなるまい。そしてその中の初発の疑問こそが『心』の最大の謎であるから、前項に倣ってKの死の原因を探求すべく、小説の記述を追ってみる。

①先生は叔父に騙され、土地家屋を取られて郷里と訣別したあと、一人で素人下宿に入る。
②先生は郷里での金銭トラブルを打明け、奥さんお嬢さんの同情を得る。
③先生は奥さんお嬢さんと次第に親密になり、結婚も考えるようになる。
④しかし天邪鬼なところのある先生は、相手の思う壺に落ち込みたくない。
⑤先生の幼友達Kは、進路と学資をめぐって郷里(養家と生家)でトラブルを起こし、勘当となる。
⑥Kに同情した先生は、Kを援けるため奥さんの反対を押し切ってKを同宿させる。
⑦Kはすべての資質において先生に優っていたが、頑固で融通が利かず、このときは神経衰弱でもあった。
⑧先生はそんなKを、奥さんお嬢さんにわざと近しくなるよう仕向ける。
⑨Kはだんだん奥さんお嬢さんと親しくなっていくが、先生はかえって不安になる。
⑩房州旅行。先生はお嬢さんへの想いをKに打明けようと悩むが、Kの内心が分からないので切出せない。
⑪帰ってからも先生の煩悶はますます募る。雨の日の富坂すれちがい事件。お嬢さんはKを好きなのか。
⑫先生は猜疑心にさいなまれるが、お嬢さんの本心が分からないので、打明けることも出来ない。
⑬先生は突然Kからお嬢さんに対する恋心を告白される。驚いた先生は自分の気持ちを言いそびれてしまう。
⑭Kはその後ずっと迷っているようであるが、お嬢さんとの進展はない。先生は焦り続けるが何も出来ない。
⑮耐えられなくなった先生は、ついにKに策略的な攻撃を仕掛ける。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
⑯清廉なKは追い詰められる。「僕は馬鹿だ」「もう止めてくれ」「覚悟……覚悟ならない事もない」
⑰一週間後、お嬢さんへの想いを封印しつつあるKを出し抜いて、先生はついに奥さんに打明け承諾を得る。
⑱先生は話そう話そうとしながらもKに何も話さない。奥さんにもKとのいきさつについては黙っている。
⑲数日後奥さんはKに話す。Kは驚きを抑えたふうで淋しく祝意を告げる。二日経ってから、そのことを奥さんは先生に告げる。
⑳先生はさらに焦る。先生はKと話をすべきか迷う。しかしその晩Kは頸動脈を切ってしまう。

 失恋が理由でないことだけは確かである。Kは先生に打ち明けたあと、深く後悔して落ち込んでいる。(ふつうはしゃべったことで気持ちが軽くなるものだが。)第三者に先に開示したことを後悔したのなら、話は簡単である。すぐ奥さんに告知すればよい。むしろ急いでそうすべきである。(先に先生の口から相手方に伝わると、Kは口が軽い男と思われてしまう。)
 一方的な話を聞かされた先生の、心的負担を気遣っていたとも思えない。Kは気配りの人ではない。Kは先生の感情に関心がない。Kがもしかしたら先生もまた、とは一瞬たりとも考えていなかったことは確実である。だからこそKは先生にまず相談するのでなく、いきなり告白したのである。しかし狭い世界に女一人男二人がいるのである。普通ならまず、先生がお嬢さんに意がないことを確認するのが先決だろう。先生の了解を得たら、あとは行動に移そうが移すまいが、それはKの勝手である。
 Kが奥さんに先に告白したとしても、同じである。奥さんに対してどういう言い方をしようが、奥さんの返事は、諾否もしくは「Nさん(仮に先生の名)はご存知ですか」である。先生が了承なら諾、知らないなら要再確認となるはずだから、結局Kは先生の気持ちを確認せざるを得ない。(この場合は奥さんお嬢さんに対して、後戻りはもう出来ないが。)しかしKはこういった俗な手順にも関心がなかった。Kは手続きの問題で悩んでいたのではないということだ。

 Kは何を悩んでいたのだろうか。何に対して罪悪感を抱いていたのだろうか。西洋人なら宗教的戒律(禁欲や仏教の女犯等)を言うかも知れないが、K(や漱石)が真にそれらを信じていたとはとても思えない。Kが禁欲生活にあこがれていたという記述があるといっても、それだけのことである。若い男によくある話である。死ぬようなことではない。(彼らの信仰の対象が「男色」でない限り。)
 女に恋情を抱くような軟弱な自己を恥じたのなら、もちろんこれが一番ありそうなことと信じられているのであるが、それが妨げになっている(と自己の考える)、本来の目標物(学問なり瞑想なり)に向かって邁進するはずである。Kはそのストイックさを持ち合わせている。前述のようにKは(現実のお嬢さんや先生の存在や行動に関係なく)、告白したこと自体を明らかに後悔しているのである。そのことをのみ恥じているのであれば、先生とお嬢さんが結婚することは、青天の霹靂ではなく、むしろ自己の安寧につながる、干天に慈雨の展開ではないか。

 少なくともKは、お嬢さんサイドには何も言っていないのであるから、ふつうの男女関係における気まずさというのは、幸いにも感じなくて済む。凡俗の男ならむしろ「(女に)言わなくて本当によかった」と、しみじみ旨を撫で下ろすところではなかろうか。確かに先生に対しては大恥をかいたわけだが、相手が親友である以上、死ぬるほどの屈辱ではあるまい。やられた、であきらめるほどさばけた男でないにしても、当てつけに死ぬような性格では絶対ない。その前に、女が自分でなく先生を選んだとか、それは女の好みの問題であるとか、あの葡萄は酸っぱい、女を友に譲る、等々のありふれた言い訳さえ、清廉なKには一切必要ないのである。
 Kは何を恥じたのであろうか。常日ごろ人の生きる道(目的)について、高邁な哲学を説く者が若い女を愛した。難しい事を口にしても、やろうとしていることは、さかりのついた猫と変わらない。Kはこれを恥じて、侍のように切腹したのであろうか。そして先生は、それを焚きつけたことで責任を感じたのであろうか。
 漱石は恋愛は罪深いものではあるが、同時に尊いものであると、いたる所で言っている。恋愛は(動物には実行不能の)人間の特権であるということだ。カラマゾフの次兄が仮にカテリーナを心から愛していたからといって、それでイワンを馬鹿にする者が一人でもいるだろうか。であればKは、人を好きになることで恥じ入る必要はまったくないことになる。

(この項つづく)