明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 40

162.『松本の話』(4)――功徳を施すとは何ぞ


7回 善行三部作もしくは不思議三部作

 此会見は僕にとって美くしい経験の一つであった。双方で腹蔵なく凡てを打ち明け合う事が出来たという点に於て、いまだに僕の貧しい過去を飾っている。相手の市蔵から見ても、或は生れて始めての慰藉ではなかったかと思う。兎に角彼が帰ったあとの僕の頭には、善い功徳を施こしたという愉快な感じが残ったのである。(『松本の話』7回)

 松本の飛躍した論理はまだ終わらなかった。この松本の自己満足に同感する読者はそうはいまい。似たような話が『行人』『心』で語られる。漱石の倫理観は独創的なものではない。まず時代を超えて誰にも分かりやすいものと言える。しかしこの善行3部作・自画自讃3部作と論者の呼ぶ3作に綴られる奇妙な自己満足感だけは、受け容れる人は少ないと思われる。

 本ブログ(彼岸過迄篇7)でも述べたことがあるが、その『行人』の所謂女景清事件について、ここで改めてその概要を紹介したいと思う。
 前著でも何度か触れた『行人』の女景清のエピソードは、主人公(長野一郎・二郎)の父の知人の昔話という体裁を取っているが、漱石にとって妙に身につまされるような挿話になっており、そこでは若い男がついものの弾みで同い年の召使いと結婚の約束をしたあと、若すぎるという周囲の忠告をあっさり容れて結婚話を解消する。そして20何年か後に演芸場で偶然再会して、よせばいいのに男はあれこれ気を廻して大恥をかくというような話である。(『行人/帰ってから』13回~19回)

 前著(『明暗』に向かって)41.女景清「ごめんよ」事件 から引用する。

 男は20歳、高等学校に入った頃。まず漱石本人と見て差し支えない。坊っちゃんであるという。女は同い年、同じ家の召使いのような立場。

「其男と其女の関係は、夏の夜の夢のように果敢ないものであった。然し契りを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。」(『行人/帰ってから』14回)

 というのが事件の発端。次に男がすぐ後悔して正直にもまともに破約を申し込む。女は黙って去って、それから20何年間何事もなく打ち過ぎた。
 これが男の「ごめんよ事件」とされる。男女とも生きていれば40代。『行人』の頃の漱石は47歳(長女筆子15歳)であったから、まあ彼らも45歳くらいか。男の方の長子も12、3歳とある。

 男は女を去るとき「僕は少し学問する積だから三十五六にならなければ妻帯しない」と「余計な事を其女に饒舌っている」(同15回)が、大学を出るとすぐ結婚している。(といってもこの場合は30歳くらいか。)
 それはいいとして、2人はその20何年後有楽座(邦楽名人会)で偶然再会する。女は気の毒にも盲目になっていた。それから男はその女の所在をつきとめ、二郎の父を通してその女に金品を贈ろうとして拒絶される、というのがこの小悲喜劇のオチである。

 女は当時から男に対し何の含むところも持たない。家を出るとすぐに嫁ぎ、夫君には先立たれたが、(20何年経っているわけだから)子供も2人立派に成人しているようである。男の現在ある地位を確認したあと、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったで御座いましょうね」と父に聞く。

「ええ最う子供が四人(よつたり)あります」
「一番お上のは幾何にお成りで」
「左様さもう十二三にも成りましょうか。可愛らしい女の子ですよ」
 女は黙ったなり頻りに指を折って何か勘定し始めた。其指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しが付かないと思った。
 女は少後間を置いて、ただ「結構で御座います」と一口云って後は淋しく笑った。然し其笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。(『行人/帰ってから』17回)

 20歳のとき35、6まで結婚しないと宣言した男が、それから20何年経って今12、3の子を持つ。ちょっと早いといってもたかだか3、4年かせいぜい5、6年である。指を折らなくても自分の子(成人)と12、3の子の年差を考えただけでも男が10年ほどは頑張っていたことが分かる。取り返しがつかないほどの大失態ではなかろう。(だいたい指を折るという仕草自体、折った指を見ることが出来ない以上、健常者の発想であろう。と言えば漱石から叱られようが。)
 しかしたとえ15年と言った男が10年で結婚したとしても、ふつうの女が、まして自分はすでに家庭に納まった女がそこまで男の言った事にこだわるだろうか。こだわるとすれば嘘を吐くことの出来ない漱石の方であろう。それとも女が結構だと言ったのは、大きく違約しないのは感心であるという意味なのか。すると父がこんなに困惑する理由が不明である。二郎の父もまた漱石のように数年の齟齬に人生の基盤をゆすぶられる思いがしたのであろうか。

 それならばもっと気にするべきなのは、もうひとつの女の質問、あのとき男が女に破約を申し入れたのは、(単に若すぎたゆえの「ごめん」だったのではなく、)女の中に何か嫌気がさすような欠陥(癖・仕草・物言い)を発見したのではないかという、むしろこの方が何十年たっても消えることのない切実な疑問であろうから、これに対しては本人に探索を入れるべく、もう一度出直して後日改めて返答するというのが筋ではなかったか。
 ところが父は、本人の心の内は20何年前のことでもよく承知しているとばかり、適当にごまかしつけて何とか女を納得させたと自慢気に言って、あとで一郎を憤慨させている。そして父の軽薄さを引き継いでいる者として、そのとばっちりが二郎にまで来たことを思えば、この女景清の話の後半の真意は、父の人間性への攻撃であったろうか。男(漱石自身)の不始末の尻が身内の年長者(父・叔父等)へ持って行かれたわけである。

( 41.女景清「ごめんよ」事件 引用畢 )

 そしてここが肝要だが、長野の父が女を無理矢理得心させたことについて、「(い)い功徳をなすった」と客人のひとりに(皮肉でなく)言わせている。父のいい加減な話が、それでも女を安堵させた(と父は信じている)という点を、一方ならず評価している。(『行人/帰ってから』19回)

 それはないだろう、といくら漱石ファンであってもつい思ってしまう。
 上辺を繕うことなく本音で遣り取りすることを美しいと思う。これはいい。松本と市蔵の会見に変なわだかまりは皆無である。『行人』の、昔の女との(代理人による)会見にも駆け引きはない。漱石好みの自然な会見であった。ただし贈ろうとした金は結果として不要になった。まさか漱石はこのことを以って美しいと感じたわけではあるまい。『道草』(の金にこだわる養父母)を念頭に置いて、女の態度を褒めちぎったわけではないだろう。それでもなお漱石が「好い功徳」と書く真意をはかることは難しい。あるいはこちらの方が(漱石の)最大の謎かも知れない。修善寺の後遺症がこんなところに残っていたのか。