明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 12

134.『停留所』一日一回(4)――16回~23回


16回 敬太郎によって語られた浅草の追憶

 敬太郎の祖父は子供の頃には浅草にいた。敬太郎の父親は漱石の世代であるから、敬太郎の祖父なら所謂天保老人であろう。敬太郎はその祖父から往時の浅草の話を聞いていたという。しかしそれを素直に信じる読者はいまい。漱石は明らかに(敬太郎の祖父でなく)自分の幼時の浅草を描いている。
 叙述はやがて上京後、今現在の浅草に変わり、敬太郎は占いの店を探して歩く。敬太郎の趣味に合致したのは、(浅草でなく)蔵前の妙に派手な看板の家であった。

17回 文銭占い「占ないは私(わたくし)がやるのです」

 前著でも少し触れたが、漱石の人物がなぜ占いをするかというと、自分の決定に責任を持ちたくないからである。美禰子の言う「責任を取りたがらない人」である。これは俗にいう無責任とは少し意味合いが異なる。漱石は人並み以上に責任感は強いはずである。
 漱石は自分で正しいと確信しないと、何事もやり遂げることがない。自分が間違っていることを火のように懼れる漱石は、自分が間違っていないことが担保されない限り、1歩たりとも前に進めない。「あなたは腰が重い」と言われる所以である。
「己のどこが重い」「だって重いじゃありませんか」思わず笑ってしまうが、この性癖は当事者が傍から見るとよく分かるのである。
 それで動けなくなると、易者や占い師や御神籤の出番となる。小説のにぎやかしに使っているわけではあるまい。書物の中に正解を求めない漱石の場合は、それ以外に判断の依り代が無いのである。
 これはずるいというのではない。あまりに自分に正直であるがゆえに、間違った行動を自ら許容出来ないという(世渡りの上では)気の毒な性癖である。

18回 婆さんの御託宣(1)

 蔵前の文銭占いの婆さんの言う事は、敬太郎の心をそのまま言い当てている。つまり分からないことをそのまま分からないと告げているのである。占い師としては誠実な言い方かも知れない。

19回 婆さんの御託宣(2)

 婆さんの最後の言葉「自分のような他人のような」「長いような短いような」「出るような入るような」は占いではなく禅問答であろう。この問答の芋は物語の開始から埋められている。

20回 敬太郎の田口家訪問3回目

 思いがけず田口から下宿に直接電話を貰って、敬太郎は現金にも身体中に生気を漲らせて表に飛び出す。

 外には白い霜を一度に摧いた日が、木枯しにも吹き捲くられずに、穏やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎は其中を突切る電車の上で、光を割いて進むような感じがした。(『停留所』20回)

 森本の洋杖を引き継いでいるので、『停留所』も『風呂の後』を襲っていることは明白であるが、『停留所』のこの回にきて、季節も順調に引き継がれていることが確認される。
 そして敬太郎の、「光を割いて進むような感じがした」の言い回しは、三四郎や代助の頃にはなかった力強さが感じられよう。修善寺の大患後の読書傾向によるものか。漱石(の文章)に病後の衰えは見られない。

21回 田口からの依頼が速達便で届く

 田口に会って何でもやりますと言って笑われた敬太郎であるが、数日後希望に燃える敬太郎の許へ依頼の手紙が届く。内容はシャーロックホームズ譚を思わせる奇想天外なものであった。世の中一般に探偵的な興味を抱いても、個人の秘密を握ってどうかするのは下劣と考える敬太郎は、途方に暮れる。

 

22回 文銭占いの婆さんの家は浅草か蔵前か

 世の中はもう年末に近い。――ここで『彼岸過迄』の物語の始まりが、(11月末でなく)10月末の近辺であったことが確定する。森本は10月末日で職場を罷め、11月中旬にはドテラを着ていたのである。20回の霜も木枯しも、正しく12月後半の世の中を叙したものであった。
 敬太郎はあれこれ思い悩むうちに、占いの婆さんのご託宣を思い出す。そのときのことを「浅草で」と漱石は書くが、これは「蔵前」の書き間違いであろうか。それとも蔵前は広い意味で浅草の内なのであろうか。少なくとも神田橋・美土代町・小川町そして須田町と書くからには、蔵前は浅草とは区別されるべきとは思うが。
 それはともかく、敬太郎は1時間半も考えて、禅の公案じみた婆さんのご託宣から、森本の洋杖に辿り着く。

23回 洋杖に仕込まれた蛇頭の秘密

 敬太郎は文銭占いの婆の言葉から答えを得た。

①「自分のような他人のような」=玄関の洋杖。(森本の物でもあり、自分の物でもある)
②「長いような短いような」=その竹の洋杖に施された、蛇の頭の彫刻。(本来長いはずの蛇が、短く断ち切られて頭だけになっている)
③「出るような入るような」=その蛇に呑まれかかった形になっている、口の中の卵だか蛙の白い玉。(蛇の口の中で、入ろうとしているのか出ようとしているのか)

 しかしこれでは公案の解は、「洋杖」そのものでなく、蛇の口の中の「白い玉」(卵か蛙)になってしまう。後の26回で判るように、敬太郎は2つある小川町の停留所の、東か西を選ぶのに、たまたま人にぶつかって蹴倒された洋杖の、頭の方が向いた側(東)を選ぶのであるから、正解はやはり「洋杖」(でなければ「蛇の頭」)であろう。
 思うに敬太郎は①②③どれをとっても、答えは洋杖の1点を指し示していると言いたかったのであろう。

 ふつうに考えれば、この①②③は一種の連想ゲームであると言えよう。

①「自分のような他人のような」=自分の物でもあり他人の物でもあるような物。(持ち主を表す)
②「長いような短いような」=それは長いともいえるし短いともいえる。(外形を表す)
③「出るような入るような」=出るともいえるし入るともいえる。(場所・出入口を表わす)

 答えは明らかである。すなわち、所有者のはっきりしない、長いとも短いともいえる、出入口つまり下宿の玄関に置いてあるものと言えば、杖か傘しか無い。慥かに森本の洋杖は、筆や箸に比べれば長いし、竿や電信柱に比べれば短い。