明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 17

139.『報告』一日一回(2)――8回~14回


第2章 高等遊民(全4回)

8回 雨の降る日

 敬太郎は本郷の下宿を出て、小石川の台地から江戸川橋へ下り、そこから矢来の坂を上る。
 西片を背にして小石川の台地から牛込矢来への眺望は(美しい濠端を見ているのであるが)、荷風も『日和下駄』で絶賛しているが、後年『明暗』で津田と小林が思わず立ち止まった地点でもあった。
 敬太郎は分かりにくい松本の家をやっと探しあてる。門を潜ると子供が太鼓を鳴らしているのが聞えた。子供の声と混ざって太鼓の音が聞えたのだろうか。ピアノやヴァイオリンの(拙い)音が聞えたからといって、その音の出し手が子供であるか大人であるかは、ふつうは鑑別出来ない。その家に子供が(沢山)いることを、あらかじめ知る者だけが書ける文章ではないか。
 ところでこの回、雨が降っているという理由で一度面会を断られた敬太郎が、翌日(晴れたので)出直して面会を果たしている。尾行事件はすでに年末に近い日頃に行なわれていたから、この日はもっと押し迫っているはずである。次篇を先取りしては申し訳ないが、その原因たる松本家の事故から1ヶ月も経っていない。松本家にはもう幼児はいない。一番下で7歳である。夏目家にも2歳の幼児はいなくなったが、7歳の下に4歳と5歳の子がいた(純一と伸六である)。その配慮は『彼岸過迄』を読む限りではなされていないようである。

9回 松本恒三の人徳

 松本は敬太郎を前にして、紹介者田口の悪口ばかり言う。敬太郎はさして不愉快にも感じない。読者は敬太郎の(癇癪持ちではあるが)鷹揚な性格を知っているが、作者はそれが松本の人徳のであると言いたげである。好かれもせず嫌われもせず。高等遊民は世俗を超越している。

10回「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」

 敬太郎はここでも狂言回しの役を務め、松本の風采や家族が披露される。しかし高等遊民の効能までは紹介しきれない。松本の家族の話から先日の小川町の女の話題に持って行きたいが、それも敬太郎のキャリアでは難しい。敬太郎は座談における田口と松本の違いに感じ入る。ところが奇跡的に松本が男女の話を切り出した。高等遊民も女に関心があることでは凡俗に負けていないようだ。

11回 議論に行き詰ると女の話になる

 紳士が同伴する女が細君でも妾でも、周囲が気にしないのが露西亜風。情婦を許さないのが亜米利加風。日本は亜細亜であるから、(漱石の時代は)当然露西亜に近い。情婦でも構わないという伏線から、敬太郎は尾行事件を打ち明ける。
 松本は敬太郎の顔を忘れていなかった。江戸川橋の終点で一緒に下車したことまで覚えていた。

「貴方の下宿は牛込ですか、小石川ですか」「本郷です」

 正直な松本は事情が呑み込めない。敬太郎の告白に単純に驚く。理由が分からないので、ただただ不思議がるだけである。理由が分からないのは自分のせいではない。正直な松本は他の感情は湧いて来ない。なぜ?と思うだけである。それが敬太郎に余計なプレッシャーを与えない。敬太郎は却ってべらべらしゃべる気になる。
 漱石はこのような会話(対決)にも、両者の気持ちに理屈を付ける。これは漱石の昔からの癖とも言える。『明暗』ではそれが究極に近い形まで突き進む。
 それは先の話であるとしても、ここでは登場人物の会話(議論・対決)に必ず漱石の理屈がのさばって来ることだけは言っておきたい。Aがこう喋る。Bがこう受ける。正直な漱石はABともにその精神的な立場や発言の理由らしきものを付加する。漱石を嫌う人はそれを五月蠅がるのである。

 これは流石に分かりにくい議論かも知れない。くどいのを承知で分かりやすく言うと、松本は敬太郎が江戸川橋で降りた下宿生であることを知った。だから下宿は小石川区牛込区かと聞いたのである。この場合、小石川区とはせいぜい小日向から関口、目白台まで。牛込区とは漱石の棲み暮らした町々のことである。松本は敬太郎から雑司ヶ谷や戸塚まで帰ったと聞いても、さして驚かなかっただろう。それが(下宿生としてはありふれた答えであったにせよ)本郷である。俗人ならこの有り得ない状況に心を悩ます。あるいは猜疑心の塊まりとなる。それを以って敬太郎に対すると、当然敬太郎も構えてしまうだろう。ところが漱石のような人物は、本郷という返事を聞いて、それはおかしいと思っても、自分の責務に関係のない話だから、相手を追求しようという発想にならない。ただシンプルに、本郷なら乗る電車が違うのにと思うだけである。それが相手にへんなプレッシャーを与えない。警戒心を解いた相手は何でもしゃべる。高等遊民の、その喋り放題を書いたのが『猫』であろうが、ここではこれ以上言わない。

第3章 告白(全3回)

12回 高等淫売

 敬太郎の尾行が田口の指示と聞いて、松本は呆れる。田口も敬太郎も馬鹿であると言う。

「じゃ田口へ行ってね。此間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云って呉れ玉え」(『報告』12回)

 そう言われれば漱石の女は全員高等淫売のようにも思えてくる。前著(『明暗』に向かって)で、論者は漱石のヒロインはほぼ全員姦淫すると書いたが(Ⅳ.珍野家の猫/52.汝姦淫する勿れ)、その数少ない例外たる『明暗』のお延・清子にしても、姦淫者ではないかも知れないが、高等淫売であることは間違いない。
 高等淫売は姦淫しない。しかし姦淫する女が高等淫売であることは可能である。すなわち漱石の女は全員高等淫売である。と言えば誤解もされようが、こんなところで漱石本人が宣言しているのである。読者は笑って読み飛ばすかも知れないが、漱石とて無意味な1行を書いたわけでもなかろう。

13回 田口と松本は義理の兄弟

 田口は箆棒であると、松本は憤慨する。その怒りは代助のように頭の中だけで遣る怒りである。「君は人を笑っても、自分を笑っても、両方共頭の中で遣る人だから」(『それから』6ノ6回)傍から見ると怒っているのか呆れているのか分からない。前の回の「高等淫売」も松本の頭の中だけから出て来る言葉であろう。だから千代子に対する侮辱にはならない(と漱石は考える)。
 その同じ前回の末尾で、松本は敬太郎に「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞く。それに対する敬太郎の「まだ何も知りません」には本当に驚かされる。修善寺の大患とはこういうことだったのか。それとも漱石は何か別の魂胆でもあるのだろうか。
 須永の母は『停留所』10回から12回まで、延々と自分の妹婿(内幸町)と弟(矢来)について敬太郎にレクチュアしているのである。敬太郎は上の空で聞いていたわけではない。敬太郎はその田口に娘が2人いることまで聞き出している。そのうちの1人が須永に嫁すような話があるのかとまで質問して、須永の母を半分困惑させている。
 須永の母の話は何だったのか。『停留所』と『報告』とは別の短篇であるというのは答弁になるまい。前項でも述べたが、この疑問はすでに『停留所』のときから発生していた。敬太郎が田口に始めて面会したとき、あるいは郵送で奇妙な依頼を受けたとき、敬太郎は須永の母から聞かされていた田口の話を、一切思い出そうとしなかった。
 次の14回(最後の回)を先回りして読んでみても、この読者の疑問に対する記述は何も無い。箆棒なのは漱石の方ではないか。

14回「妙な洋杖を持っていますね。一寸拝見」

 敬太郎は松本から田口に毒はないと種明かしされても、やはり田口の方を気詰まりに感ずる事実は解消しない。
(そり)ゃ向こうでも君に気を許さないからさ」13回末尾の松本のセリフに納得する。
 松本は調子づいて続ける。田口のような男は一生他人を疑って過ごすしかない。人も金も自分にとって役に立つか安心出来るかどうか、それしか考えない。「女に惚れられても、是(こり)ゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか」と疑い続けずにいられない。
 ところが敬太郎はその松本の批評を聞いて、松本の方こそ活きた人間の気がしないと思う。レストランで千代子に世間話をしていた松本の方がまだ人間らしかった。講義をする人間に現実味も有難味も感じない。
 これが漱石が教師生活を忌避した真の理由であろう。漱石は講義をして半生を暮らしたが、嫌悪感に苛まれた年月だったのであろう。小説家になって本当によかったと、本人も読者も思わずにいられない。

 といって須永の母が敬太郎に講義した内容が、その後の進行で無視された理由が分かるわけでもない。漱石は失念したのだろうか。1句とか1行ではない。連載3回分、まるごと失念することなど有り得ないではないか。