明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 2

124. 誰でもおかしな文章を書く(2)――川端康成の場合


 そのノーベル賞を現実に受けてしまった川端康成は、ノーベル賞がその対象にするのと同じような意味合いで(作品に対する賞讃度合いで)、漱石より秋声を買っていたようであるが、川端康成もまたその文章は独特である。
 ぎりぎりで大正文壇に間に合った感のある『伊豆の踊子』末尾の問題シーンは作者本人の弁明もあって有名だが、

 はしけはひどく揺れた。踊子はやはり脣をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。(川端康成伊豆の踊子』実質的なラストシーン)

 この引用した文節の唯一の問題点は、下線部のボールドで示したように、主人公にどうして踊子の心の裡が分かったのかという一点に尽きる。踊子は何か言おうとして言わなかった。あるいは言えなかった。踊子は何を言いたかったのか。あるいは言いたくなかったのか。それが good bye か see you か come again か thank you か、それとも like you とか one and only の類いの感情を伝えようとしたのか、あるいは伝えようとしなかったのか、常識的には主人公は知りようがない。それともこの部分は主人公の希望的観測だったとでもいうのか。まあこれは後日川端康成自身も、このときだけ例外的に踊子の心情に立ち入ってしまったと言い訳しているから、これはこれでいいとして、『伊豆の踊子』から10年後の名作『雪国』を読んでみると、また別の疑問が湧いて来る。あの有名な国境を抜ける3時間前、列車の島村はおそらく同じ姿勢のまま、そのときは車窓に映る同乗の男女を見ていた。

 娘は胸をこころもち傾けて、前に横たわった男を一心に見下していた。肩に力が入っているところから、少しいかつい眼も瞬きさえしないほどの真剣さのしるしだと知れた。②男は窓の方を枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげていた。三等車である。③島村の真横ではなく、一つ前の向側の座席だったから、④横寝している男の顔は耳のあたりまでしか鏡に映らなかった
 ⑤娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
 ⑥鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆い、それからまた上になった頬を包んで、一種の頬かむりのような工合だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいら立って来るほど幾度もその同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の裾が時々開いて垂れ下る。それも娘は直ぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿にように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。(川端康成『雪国』四百字詰原稿紙7枚目~8枚目あたり)

 空いている上越線の3等車。座席は背凭れの低い、硬い木の向かい合せ4人掛ボックス席で、通路を挟んで島村は1人、女は男と2人連れ。島村は窓に映る彼らを眺めている。見事な文章であることは置いといて、さてこのときの登場人物の配置を、正しく説明することが可能であろうか。
 背凭れの低い座席であるから、女の顔はどこに坐っていてもまあ見える。しかし男は窓側を頭にして横になっているのだから、女の顔と同時に男の顔が(一部でも)見えるというからには、島村のボックスと女たちのボックスは、通路を挟んで「真横」にあらねばならない。
 しかし③と⑤(のボールドの部分)を素直に信じると、男女のボックスは島村の真横でなく、一つずれているという。どちら側にずれるにせよ、女の顔が見える以上、寝ている男の顔は背凭れの陰になって見えない筈である。
 しかも②④⑥の記述から、男の顔は「耳まで」つまり表情の判定しうる顔の「上半分」が見えている、(ご丁寧にも)下半分はマフラーで隠されている、と書かれている。

 このような配置になるのはただ一つ、通路を挟んだ真横のボックスで、男と島村は同じ向き(進行方向向き)、女はその対面で島村とははす向かい。この場合しかない。
 男の顔が窓ガラスにぺたりと付き、そのガラスに映った顔をさらに島村が自分のガラス窓に見ているという、込み入った推理も、①で最初から書かれているように、男は女の前に「横たわって」いるのであるから、3等車の構造上それはあり得ない。
 すると引用文③「島村の真横ではなく、一つ前の向側の座席だったから」の主語は、なんと(男でなく)であったことが分かる。
 いくら主語の省略が国文の伝統であるといっても、これでは読者に無用の誤解を与えよう。先に掲げた『伊豆の踊子』の該当部分も、さよならを言おうとしたのが娘なのか私なのか、うなずいて見せたのが娘なのか私なのかという、(作者にとって意外で無意味な)議論がなされたようであるが、『雪国』の列車のケースを見ると、これはケアレスミスではなくて、川端の(作文の)癖ではないかとも思えてくる。
 そこでもう1つ、今度は『雪国』からさらに10年以上たった戦後の名作『山の音』を見てみよう。