明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 3

125. 誰でもおかしな文章を書く(3)――川端康成の場合(つづき)


 川端康成の代表作とも言える『山の音』の書き出しは次の通りである。

 尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口をあけて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるように見える
 息子の修一は気づいていたが、いつものことで気にはかけなかった
 息子には、父がなにか考えていると言うよりも、もっと正確にわかっていた。なにかを思い出そうとしているのだ。
 父は帽子を脱いで、右指につまんだまま膝においた。修一はだまってその帽子を取ると、電車の荷物棚にのせた。(川端康成『山の音』第1節冒頭)

 一見何の変哲もないふつうの叙述のように見える。作者は一応まあ通俗小説ふうに(西欧の小説ふうに)、信吾と修一親子を均等に描写しているようである。また主人公が信吾であることはすぐに判明するのであるから、作者はある程度の同情を以って信吾の立場から描写していると解することも可能である。『山の音』を読了して、感心してもう一度読み返してみてもなお、この冒頭の数行に何らヘンなところは感じられない――。
 でも本当にそうか。主格が曖昧になるという作者の癖を念頭に、このくだりをほじくってみると、また別の世界が開けて来ないだろうか。

 作者が信吾に同化して叙述していると考えると、「悲しんでいるように見た」の主語は作者・横須賀線の乗客・他人であり、「いつものことで気にかけなかった」のは信吾自身であると、読めなくもない。
 さらにもう一つ、強引な解釈かも知れないが、信吾でなく修一を主人公とする読み方が、少なくともこの第1節では可能である。
 その場合は「悲しんでいるように見た」も「いつものことで気にかけなかった」も、主語は正しく修一である。この小説は修一の物語なのか。繰り返すが第1節を読む限りでは、それはどちらとも言えない。

 第2節の書き出しは次の通りである。

 信吾の妻の保子は一つ年上の六十三である。
 一男一女がある。姉の房子には女の子が二人出来ている
 保子は割に若く見えた。年上の妻とは思われない。信吾がそう老けているわけではなく、一般の例にしたがって、妻が下と思われるまでだが、不自然でなくそう見えた。・・・(同第2節冒頭)

 第1節同様、このくだりを読む限りでは保子もまた信吾と修一の「主役争い」に割り込んで来たようにも見える。読み進めるとこの小説は信吾の物語であることは明白になるのであるが、とりあえずここまでの記述ではそれははっきりしない。
 上記引用部分では「姉の房子」とは修一の姉でなく保子の姉であるとも読める。そもそも子供を残して若くして死んでしまった保子の姉は、この小説で信吾と保子の夫婦にある翳を落としている。このくだりだけ読んで、「姉の房子」が修一の姉であるとすぐに理解出来る読者は稀なのではないか。それが出来る読者というのは、この小説が修一の物語であると「誤解」した読者に限られるのではないか。(もっとも作者は、一男一女がある、と改めて述べているので、前節で一男たる修一が既に登場しており、ここで紹介されるのは一女たる房子しかしない、と思ったのかも知れない。しかしとりわけ、「姉の」と何のこだわりもなく書き進めた作者の心情は、計り知れぬものを感じる。)

 ところでこの房子とは誰のことか。答えは(『山の音』の)第2話『蝉の羽』の1行目に書かれている。

 娘の房子が二人の子供をつれて来た。
 上の子は四つ、下の子は誕生を過ぎたばかり、その間隔でゆくと、後はまだ先きのはずだろうが、信吾はついなにげなく、
「後は出来ないのか。」と言った。
「また、お父さま、いやですわ。この前もおっしゃったじゃありませんか。」
 房子はさっそく下の子を仰向けにして、巻いたものを取りながら、
「こちらの菊子さんはまだですの?」
 これもなにげなく言っているのだが、菊子は赤ん坊をのぞきこむようにしている顔が、ふと固くなった。(『蝉の羽』第1節冒頭)

 房子もまた、小説の中では独立して活動しているから、並列されている「娘の房子・・・」「房子は(さっそく)・・・」という書き方は、正しい西欧風の「叙述」とも言えるし、日本の私小説まる出しの書き方とも言える。
 しかし西欧風の叙述とするなら、『山の音』第2節の書き出しはあまりにも言葉足らずであろうし、『山の音』全体が私小説というわけでもあるまい。
 人物を登場させるたびごとにいちいち戸籍を添付するのは不粋である。読んで行けばそれが誰なのかは自ずと分かる。最初から説明したのでは詩にならない。
 この文芸的な態度を佳しとすれば川端康成の(志賀直哉でも)業績は変わらず不滅のものとなろう。それを単に不親切と取れば、彼らの作品は早晩読まれなくなるだろう。

 本稿は川端康成研究が目的ではないからこれ以上論じないが、『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』の有名三部作にはもう一つ奇妙な共通点がある。

 物語の始めに「エロ」が挿入されるという作為ないしは不作為である。

 何でも探求し観察したがる川端康成は、女体もまた深く研究する。おおむねエロティクな雰囲気の充満しているのが川端作品であるが、この3作はそれが主題ではあるまい。それでいてなお覆い切れんばかりのエロの湧出は不思議なことと思われる。エロを以って世の中に刃向かうという王道的生き方は、決して否定されるものではないが。

・『伊豆の踊子旅芸人は需(もとめ)に応じていつでも客と寝るという茶店の婆の推測。主人公は思わず亢奮する。

・『雪国』左手の人差指にまつわる島村のとんでもない述懐。

・『山の音』菊子のからだつきと菊子の声についての信吾の露骨な見聞。

 どれも作品のほとんど冒頭に近い処に書かれる。そして再びは書かれない。どこに何を書こうが人にとやかく言われる筋合いはないのであるが、そこにエロがあろうがなかろうがどうでもいいのであるが(ポルノ小説じゃないのだから)山田風太郎に倣って言えば、これもまた有名税の一種であろうか。