明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 13

99.『門』コントのあとは主役の失踪(2)――肝心な時にはいつもいない


 昔話の第4章では、最後に御米の「夫よりか、あの六畳を空けて、あすこへ来ちゃ不可なくって」(4ノ14回)という提言で、物語はやっと動く気配を見せ始める。宗助は御米に遠慮があって言い出せなかったと言い訳するが、自分では何一つよう決められない宗助のことであるから、素直に信じる読者はおるまい。

 小六を引き取ることにより学資問題の解決を図ろうという進展は小六を喜ばせたが、腰の重い宗助はようやくのことで手紙だけは出した。ここで物語はやっとスタート地点に戻ることになる。その第5章はまた、宗助の留守中に佐伯の叔母がやって来るという設定で始まる。描写の主体は御米であるが、叙述は佐伯の叔母の話に終始する。宗助はどこに消えたのか。

 宗助は11月6日(土)午後、その週の日曜日に出した手紙を受けて、佐伯の叔母が折角やって来たのを知らないまま、勤め帰りに歯医者に寄ったのである。

 其時向こうの戸が開いて、紙片を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。(5ノ2回)

 向こうというのは漱石(時代)の常用語であるが、この場合は宗助が実際に見ている側(正面――背後側でない正面を向いている)という意味である。漱石はこの歯医者の待合室に宗助と共にいる。漱石は宗助を描写しているのではない。宗助と一体化して同じ景色を見、同じ思いを思っているのである。
 これを西洋のふつうの小説と同じに考えてはいけない。漱石自身は宗助・御米・小六を、西洋の小説のようにそれぞれ描写・叙述していると信じているが、実際には『門』は、というより『門』もまた、言ってしまえば宗助の日記または手記である。漱石は自分の小説も(叙述方法においては)アンナカレーニナと変わらないと主張するが、このロシアの偉大な小説はアンナの手記ではない。トルストイの日記でも勿論ない。

 それはさておいて、このときの歯医者でのやりとりは、漱石の実体験に近いものと思われるが、後年の『明暗』における津田の、痔疾のときの体験同様、医者の言ったことをそのまま記事にしているだけであろう。自分の病気が何であれ、その疾病が根の深いものであろうが、一過性のものであろうが、それを小説の展開に利用できると考えるほど、漱石はウブでもなければスレッカラシでもない。このときの宗助も同じである。自分の歯が助からなければ、総入れ歯にするだけである。金や時間を取られるのは苦痛であるが、それで小説の筋が変わるわけではないだろう。そんなことを暗示したり明示したりするほど漱石はヒマでない。

 第5章の第1回を「欠場」した宗助であるが、留守中の出来事は御米から聞いて、物語の進行に影響はない。では何のための欠場か。結局それは宗助の責任回避のために仕組まれたことではなかったか。歯医者に行ったのは宗助の歯が病んでいたためであるが、それは宗助のせいではない。歯が痛くて歯医者に行くこと自体は過ちとは言えない。天罰というが、それは天が与えたことである。自分のせいではない。(これを則天去私という。)
 そのおかげで宗助は佐伯の叔母との直接対決を回避した。漱石は宗助の財産を叔父が横領したように書くが、作者の漱石自身がそれをどこまで信じていたかは疑問である。宗助は「いずれ面会の折に」という叔父の言葉になぜか素直に従って、手紙で問い糾すことをしない。一般にはこういう直接には話しづらいことは、手紙に書くのが(後に証拠も残って)一番なのである。京大の文科に入って座敷の書棚に赤い表紙の洋書を置くくらいであるから、宗助もまた文の人であろう。漢詩に興味はないととぼけながらも、「風吹碧落浮雲尽 月上東山玉一団」の禅味も分かるのである。
 宗助はなぜ(横領)事件の発端たる広島時代に、まず手紙で佐伯の叔父に確認しなかったのか。大事なことだからこそ直接でなく文章で具体的に依頼すべきであろう。

①家屋敷はどんな人にいかほどで譲渡したか。
②諸経費税金を差し引いて、手許にいくら残るか。
③叔父上に立替てもらった金額の総額はいかほどか。
④その差額を小六と折半したい。
⑤宗助の分は為替で送ってくれ。
⑥小六の分は小六の学資生活費に充ててほしい。
⑦もし小六の学資生活費が尽きたらそのときは連絡してほしい。
⑧この手紙は小六にも見せて、清算の概略は小六にも分かるようにしてほしい。
⑨叔父上の手間賃必要経費は当然差し引いてもらって結構である。

 まあ実際にはそうしなかったのであるから、言っても詮ないことであるが。

 宗助は第6章の途中にも姿を消している。御米は宗助の出勤中に道具屋へ抱一の屏風を売りに行ったのである。道具屋は御米に7円と告げて帰った。宗助と御米は相談して、1回目15円、2回目不明、3回目35円の交渉で売却を決めた。2回目の先方の提示はおそらく25円であろう。そのまま書くとバカみたいだし、あるいは漱石は金額のリフレインを、1回目7円、2回目15円、3回目35円の3回に納めたかったのかも知れない。いずれも「2倍と少し」になっていることがミソ。ついでに言えば坂井の購入価格も「2倍と少し」の80円になっている。

 ちなみに屏風の売却代金(35円)の実際の使途については、小説では直接触れられないが、外套を買っているのは清の証言があるとして、読者としては穴のあいた靴の方が気になるが、靴は当然買ったのだろう。正月に雪が降ったとき、宗助は泥汚れは気にするが、雪が侵入して困るとは書かれない。買ったのだが小六に気兼ねして書けなかったのだろう。小六は金については(漱石に似て)細かく気にする性格のようだ。であればなおさら宗助は家屋敷については、(独り占めしたという)誤解を受けないよう、オープンにする必要があったのではないか。横領するのは横領する者が悪いのではあるが、横領される側にも責任はありはしないか。漱石の論理ではそのへんは限りなく曖昧である。宗助は自分に責任はないと考えている。小六の意見はその反対である。一緒に住まなければ、小六は宗助こそ財産の横領者と見做したろう。

 第8章の障子貼替えで宗助がいなくなるのは仕方ないとして(漱石は引越や大掃除では役に立たない)、第10章の安之助の事業の話では宗助の影は薄い。いくら実業に興味がないといっても、小説の話である。宗助は精一杯参加しようとはするが、正直な漱石の手にかかっては宗助は半分寝ているようなものである。その流れを受けて『門』前半のハイライト御米の病気の第11章では、宗助は皆勤してはいるが、宗助の(御米の看病のために)したことは、御米の肩を力一杯「押さえた」ことと、御米の額の氷嚢を小六と二人で「卸ろした」こと、このふたつだけである。いてもいなくても、まあ関係ない。漱石の前では病気するものではない、と鏡子夫人は分かっていたであろう。いるだけで心強い、と漱石なら言うかも知れないが。