明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 7

342.『野分』のカレンダー(2)――描かれなかった山陽路


 前項冒頭で物語の期間は明治39年10月下旬~12月中旬の2ヶ月間と述べた。もう少し詳しく見てみると、白井道也が借りた百円について、物語の大詰で(名目上の)債権者が道也に返済を迫るシーンがある。

「どうあっても百円丈拵えて頂かなくっちゃならんので」
「今夜中にですか」
「ええ、まあ、そうですな。昨日が期限でしたね
「期限の切れたのは知ってるです。それを忘れる様な僕じゃない。だから色々奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです」
「ええ、御手紙は慥かに拝見しました。何か御著述があるそうで、夫を本屋の方へ御売渡しになる迄延期の御申込でした」
「左様」(『野分』第12章)

「俳句小説」とも言える『草枕』と打って変わって、俳味のないこと夥しい、あるいは殿様商売のような散文的やりとりである。それにしてもこの借金の言い訳はひどい。侍が町人から金を借りたときは、こんな感じになるのだろうか。夏目の家は武士ではないが、商人を「金さえ取れれば何でもする、素町人」(『猫』)と馬鹿にしていたのは事実である。漱石に金を貸すものではないと誰しも思うだろう。その道也の借銭百円の返済期限日は、前の章で12月15日と明記されていた。何とか安定した教師生活に道也を引き戻すべく、以前から細君は道也の兄に相談していたのであるが、その細君と道也の兄との秘密の会話。

「売れる所じゃ御座いません。どの本屋もみんな断わりますそうで」
「そう。それが売れなけりゃ反って結構だ」
「え?」
「売れない方がいいんですよ。――で、先達てわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう」
慥か此月の十五日だと思います
今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四日ですね」
「ええ」
「あの方を手厳しく催促させるのです。――実はあなただから、今打ち明けて御話しするが、あれは、わたしが印を押して居る体にはなっているが本当はわたしが融通したのです。――そうしないと当人が安心していけないから。――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工面の出来る所がありますか」
「いいえ、些とも御座いません」(同第10章)

 物語のハイライトにしてラストシーンの「百円原稿買取事件」は、明治39年12月16日(日曜日)の出来事であった。
 そして物語の実質的な始まりは、第2章の高柳君と中野君の日比谷公園散歩の場面である。冬服の季節だがそれを持たない高柳君はまだ夏服を着ている。その夏服の代金さえまだ一文も払っていないという。

 午に逼る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさえ朗かならしめたかの感がある。・・・(同第2章冒頭)

「じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね」
「遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕は未だに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない
「ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事無精だよ」
「無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。此夏服だって、未だ一文も払って居やしない」
「そうなのか」と中野君は気の毒な顔をした。
 午飯の客は皆去り尽して、二人が椅子を離れた頃は処々の卓布の上に麺麭屑が淋しく散らばって居た。公園の中は最前よりも一層賑かである。ロハ台は依然として、どこの何某か知らぬ男と知らぬ女で占領されている。秋の日は赫として夏服の背中を通す。(同第2章末尾)


 これらの書きぶりを見ると、11月初めの可能性もなくはないが、漱石は寒がりだったから、まあ10月後半であろう。10月でも前半であれば高柳君が夏服を着ていて格別変ではないし、中野君が冬服を着ている方が却っておかしい。
 物語の季節の範囲が秋から冬にかけてのことが多いのは、学生時代・教師時代の長かった漱石にとって、長い夏休みを終えた9月始業が、自然に身体に染み付いたリズムとなっていたからであろうか。あるいは身体にさわやかな秋の季節が一番好きなのだろうか。もちろん例外はあるにせよ、このことは『明暗』の結末が、(執筆は越年しても)年を越えないだろうという推測を後押しする。この2ヶ月ないし3ヶ月内外という物語のコアな期間が、漱石にとってリアルタイムに語るのに一番語りやすい期間であったと言えるだろう。もっと短い期間の物語は(『草枕』のように)、漱石本人に何かが足りないという気を起こさせるし、それを逸脱すると(『行人』のように)、小説として破綻しているような感じを、今度は読む方に抱かせてしまうことになる。

 ここでもう一度、(ほぼ確定したと思われる)道也の年表を見てみよう。

明治6年 東京生れ(1歳)
明治28年9月 帝大入学(23歳)
明治29年9月 帝大2年次
明治30年9月 帝大3年次
明治31年7月 帝大卒業 長岡中学赴任(26歳)
明治32年8月 結婚
明治33年4月 長岡⇒柳川
明治34年
明治35年
明治36年4月 柳川⇒山口
明治37年
明治38年4月 山口⇒東京へ舞戻る
明治39年10月後半~12月16日(日曜) 物語の今現在(34歳)

 この年表の柳川(福岡)から山口への移動時期であるが、ここでは新潟2年、福岡3年、山口2年となるよう設定している。福岡を長くしたのは勿論漱石が九州に4年半住んでいたからである(その熊本でも何度も転居した)。後に『門』で宗助が渡り歩いた西国は、京都・広島・福岡、推定だがそれぞれ2年ずつ、長くても3年を超えないのであった。漱石の徒弟時代を振り返ってみても同じことがいえる。これはたまたま学制に順っただけとは言い切れないものがある。同じ場所に数ヶ月、1年、2年、長くて3年、これ以上は生理的・精神的に受けつけなかったのかも知れない。引越癖・引越貧乏という言葉があるが、これもまた幼少時の特異な境遇がその一因となっていただろうか。(志賀直哉太宰治もそうだが)性分として尻が落ち着かないという人は居るのである。
 その意味で千駄木に4年住んで(漱石はもっと住むつもりだった)その後半に『猫』『坊っちゃん』『草枕』を書き、『野分』の脱稿後に引っ越した西片町の9ヶ月で『虞美人草』だけを書いて、明治40年9月から早稲田(南町)に転居したあと、そこを死ぬまで動かなかったのは、漱石としては(千駄木時代の後半から)「人が変わった」とも言えよう。――漱石は否定するだろうが、慥かに教師から小説家に変った。そして棲む家によって(結果として)なぜか作風も違ってきたのである。生家に近い早稲田で偉大な作品群が産み出されたのは何人も認める事実であるが、「仮住まい」たる千駄木で書かれた『猫』『坊っちゃん』『草枕』の方を好む人が多いのも、また厳然たる事実である。(千駄木の家には福猫たる斑猫が附いていた。いっぽう西片は単に方角が悪かったのだろう。漱石はあくまでも西へ西へ行かねばならなかったのである。千駄木から西片は西の方角にない。西片という町名を除けば。)

 ところで道也が新潟からはるばる九州へ落ちて行ったのはいいとして、そこからさらに動いたのを、漱石は「中国辺」と書いた。山口は海を隔てているとはいえ一応福岡県の隣県である。いくら物語の今現在が東京にあるとしても、新潟から(東京からでも)直接行くのが「中国辺」であって、起点が福岡ならまた別な書きようがあるのではないか、とつい思ってしまうが、その地が(ほとんで熊本に近い)柳川であれば、山口まではかなりの距離がある。「中国辺」という表現でさほど不都合はないことになる。

 余談だが漱石は中国辺・四国辺とは言っても、九州辺とか東北辺とは言わない。これは漱石が(坊っちゃんが強調したように)源氏の末裔であることに拠るのだろう。中国辺・四国辺というのが瀬戸内海地方を指すとすれば、そのあたりは所謂平氏のテリトリィというわけである。坊っちゃんが始めて上陸した浜で見た船頭は真赤な褌を締めていた。そして仇役教頭は年中赤シャツを着ている(らしい)。一方坊っちゃんの腹の中は何もない、真っ白けなのであった。(でも毎日温泉に行くたびに坊っちゃんのタオルは赤く染まってゆく。坊っちゃんの渾名の1つは赤シャツならぬ赤手拭である。坊っちゃんが赴任した学期の終わらないうちに当地を去った真の理由も、何となく分かろうというもの。)
 しかしそう考えれば、『三四郎』の冒頭の上京のシーンや、『坊っちゃん』の東京松山往復の行程に、山陽道に関する言及が一切ないことも、一応(納得できないまでも)理由は付くのではないか。漱石は若い頃何度も往復した瀬戸内海航路や山陽線はおろか、帝大時代の夏休みに比較的長く過ごした岡山や(早逝した次兄栄之助の嫁小勝の実家と再嫁先がある町が岡山である。栄之助は転勤で岡山に住んでいた。かねて銀の懐中時計を金之助に遣ると言い言いして小勝もそう思い込んでいたが、時計は結局金之助の手に渡らなかった。漱石がそれを死ぬまで忘れなかったのは有名な話)、後年講演旅行で辿った神戸-明石の道中さえ、具体的に語ることは遂になかった。『坊っちゃん』『三四郎』だけでなく、ほとんどすべての作品に(紀行や随筆も含め)それらを語る機会は山ほどあったのである。京大阪までは(和歌山も含め)あれほど書きまくったのに、漱石は山陽路だけ書かなかった。思うに漱石の心のどこかに(先祖の霊とは言わないが)、語るのに何となく憚られるものがあったのではなかろうか。その意味で『野分』において「中国辺」でのエピソードが、(たとえ作り話であっても)10行でも20行でも具体的に語られたのは、漱石読者としては貴重な体験となった。

 最後にもう1つだけ、道也先生の明治6年生れというのは、本ブログ草枕篇(16)で述べた『草枕』の画工と同い年である。そして坊っちゃん日露戦争を、実は日清戦争のことを語っているのだと仮定すれば(つまり坊っちゃんが明治38年でなく漱石と同じ明治28年に松山に行っていたのだとすれば)、坊っちゃんはそのとき23歳だったのであるから、坊っちゃんの(オルタネイトの)生年とも一致することになる。
 漱石は明治39年に明治6年生まれの主人公を立て続けに書いた。教師を辞める決心が固まって、帝大に進んだ6年間を(小説家に学士号は必要ないのであるから)抹消しようとする気持ちが働いたものか。
 御改暦の年たる明治6年生まれの男は、明治39年では34歳である。あるいは39年マイナス6年で33年と言うこともできる。漱石が33歳~34歳のときと言えば、留学中で倫敦にいたときと一致する。『坊っちゃん』『草枕』『野分』の「怒れる明治39年3部作」は、まさにその失われた2年間の代償だったのか。
 それともそれらの2年間なり6年間なりを隠蔽しようとする何らかの力が作用して、それが暴発したものだったのだろうか。

漱石「最後の挨拶」野分篇 6

341.『野分』のカレンダー(1)――やはり1年ズレているかも知れない


 『野分』は明治39年12月に書かれ、『ホトトギス』明治40年1月号に一括掲載された。物語は概ねその明治39年の終わりの頃の話である。これは白井道也が演説会で「明治の四十年」( four decades )を連呼していることから、ほぼ間違いのないところ。物語の季節は秋~冬になっている。これについては後述したいが、まず10月下旬~12月中旬の2ヶ月くらいの期間と見ていい。

 では主人公の年齢は如何ほどか。『野分』では登場人物の年齢は一切書かれない。その代わり「いつ」卒業したか、学校に関することについては丁寧に書かれるので、かえって年齢は数えやすいのかも知れない。

 ①八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、②去年の春飄然と東京へ戻って来た。・・・
 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。・・・
 次に渡ったのは九州である。九州を中断して其北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭鉱の烟りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。・・・
 第三に出現したのは中国辺の田舎である。ここの気風は左程に猛烈な現金主義ではなかった。只土着のものが無暗に幅を利かして、他県のものを外国人と呼ぶ。・・・ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。此神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。・・・(『野分』第1章)

 越後のどこかが長岡であることは前述した。次の九州(福岡県)は、当時筑豊に中学はなかったようであるから、三井炭鉱の柳川中学だろうか。第3の中国辺の田舎というのは山口中学のことであろう。「外国人」「旧藩主」「殿様」「華族様」「神様」と書かれるからには長州以外にない。漱石は松山に行く前に山口中学の話もあった。『坊っちゃん』で「四国辺」と直される前の原稿に「中国辺」と書かれていたのは、全集の読者なら周知の事実である。

 始めて越後を去る時には妻君に一部始終を話した。其時妻君は御尤もで御座んすと云って、甲斐甲斐しく荷物の手拵を始めた。九州を去る時にも其顛末を云って聞かせた。今度は又ですかと云ったぎり何にも口を開かなかった。中国を出る時の妻君の言葉は、あなたの様に頑固では何処へ入らしっても落ち付けっこありませんわと云う訓戒的の挨拶に変化して居た。④七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君は次第と自分の傍を遠退く様になった。

 酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎へは行かぬと言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正するには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今迄はいずこの果で、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻の様に向うで折れべきものと心得て居た。盛名はわが望む所ではない。威望もわが欲する所ではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむる為め、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、⑤思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚まると早合点して、此年月を今度こそ、今度こそと、経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。世はわが思う程に高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。(以上同第1章)

 道也には妻がある。子供はいない。子供がいれば道也は苦沙弥になる。道也の細君は苦沙弥の細君になり、『道草』の御住にもなってしまう。まあそれは後の話として、これで道也と細君の来歴は分かる。

 いっぽう高柳君と中野君はもっとシンプルである。

 彼等は同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年の此夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈する程いる。然し此二人位親しいものはなかった。

「僕だって三年も大学に居て多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれ程悲観すべきものであるか位は知ってる積りだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろした様に云う。(以上同第2章)

 分かりやすい高柳君の年表から作ってみよう。(中野君は同い年、ただし東京の人間であろう。)

明治14年 新潟県生れ(1歳)
明治28年 長岡中学入学
明治29年 長岡中学2年次
明治30年 長岡中学3年次
明治31年 長岡中学4年次 (18歳)
明治32年 長岡中学5年次 (19歳)
明治33年 長岡中学卒業 一高入学 (20歳)
明治34年 一高2年次
明治35年 一高3年次
明治36年 帝大入学(23歳)
明治37年 帝大2年次
明治38年 帝大3年次
明治39年7月 帝大卒業(26歳)
明治39年10月~ 物語の今現在

 高柳君が越後の中学校で道也先生をいじめて追い出した年はいつか。
「追い出した」というからには高柳君たちはその後、最後の1年くらいは学校に残っていたと考えるのが自然かも知れない。ある程度の高学年でないと教師を追い出すような乱暴も出来ないとも言える。ABCのアンダラインで強調したのは、その可能性のある年次であるが、道也先生の退職月は概ね年度末であろうから、それはABC各年3月の頃になるだろう。

 の明治31年3月の可能性はもちろんある。自分たちがこれから中学4年になろうとするとき、道也先生は学校を辞めた。するといじめはおもに3年生の時に行なわれたことになり、数えで17歳~18歳ということは、満で16歳~17歳である。
 後に明らかにされる「いじめ」の実例の1つは、『猫』の落雲館中学や『坊っちゃん』の(松山)中学の吶喊事件を思わせるが、年齢的にはちょうどこれくらいの程度(生意気盛り・幼稚さ加減)が相当であると言えそうである。
 そうはいえ、上級生たちもしっかり揃っていたはずであるから、代表して責任を感じるまでには至らないのではないか。「追い出した」のは上級生であり、高柳君たちはただその尻馬に乗ったに過ぎないとも言える。
 の明治32年3月はどうか。一番可能性が高いようにも思える。やりたい放題の4年生のときに先生をいじめる。3月に先生は去る。4月以降自分たちは最高学年である。道也先生は寂しく当地を引き払ったようである。どこへ行ったか誰も知らないが、そんなことはもうどうでもいい。もっと大事なことが待ち構えている。受験勉強もしなくてはならぬ。自分たちの人生はこれからである。
 の明治33年3月。卒業年であれば受験や引越し等で慌ただしくもあり、その前に道也先生をいじめている暇があるかという疑問も湧く。自分が晴れて東京へ出立するのであるから、このとき同時に道也が退職したとしても、共に新天地へ出立するとまでにはならないにせよ、「自分たちが追い出した」という実感は湧きにくいのではないか。自分たちもまたある意味では追い出されるのである。
 しかしこの場合は、高柳君が退職後の道也の消息をまったく知らなかったということの説明としては、一番理にかなっているかも知れない。
 いずれにせよ前途ある自分たちに引き較べ、辞めてしまった道也の惨めな境遇を対照的に眺めたという設定そのものに変わりはない。しかし五高教授になった漱石の例もあり、田舎の中学を辞めたことが挫折に直結するというのは短絡に過ぎるという気もする。

 ここで上記①②③④⑤及びABCを踏まえて道也先生の年表を考える。

明治6年 東京生れ(1歳)
明治28年9月 帝大入学(23歳)
明治29年9月 帝大2年次
明治30年9月 帝大3年次
明治31年7月 帝大卒業 長岡中学赴任(26歳)(①8年前)
明治32年 この頃結婚(④7年前)
明治33年4月 越後⇒福岡 
明治34年
明治35年
明治36年 この頃福岡⇒山口
明治37年
明治38年4月 山口⇒東京へ舞戻る(②)
明治39年10月~ 物語の今現在(34歳)

 ④の結婚して7年間ということは、道也先生の結婚したのは常識的に見て、明治32年6月頃から12月くらいまでの間であろう。その細君は③に書かれているように、新潟から九州への移動を経験しているのであるから、最初の追放の時期は結婚の前ではありえない。結婚後の出来事であるからには、あれこれ考えるまでもなく、道也先生の越後追放は明治33年春()であった。
 この場合、前述した高柳君の卒業時期と重なるという問題点を回避すべく、道也の追放をぎりぎり明治32年12月~明治33年1月頃に前倒しする調整案も可能であるが、中途半端な時期に辞職すれば次の口に影響しよう。②の「去年の春」に教師のキャリアを閉じていることからも、道也先生の漂泊は年度ごとと考える方が理屈に合っている。漱石は好き勝手しているように見えて、案外規則正しいのである。
 それに結婚時期と追放があまり接近すると、今度はまた別の問題が生起する。妻帯が職業替えのきっかけになるというのは、世間一般ではままあることである。細君が道也の退職に責任がないという設定にするのであれば、細君は新潟での(新婚)生活もしっかり消化しなければ不自然である。
 最初の追放を明治33年春として、彼らの結婚はズバリ明治32年8月であろうか。勤め始めて1年を経過して、経済的にも落ち着いたので東京から妻を迎えた。結婚式は課業に差し支えのない暑中休暇中を充てた。

 ちなみに⑤の、人と衝突して6年間余りというのは、越後の中学赴任の年の翌年にあたる明治32年1月頃から東京へ引揚げた去年明治38年3月までの「6年余」を指す。道也先生といえど(坊っちゃんと違って)最初の年は大人しくしていたのである。というより結婚(新婚)生活が道也の性格を1ミリも変えなかったところが漱石らしい。結婚や子供が出来ることによって人間が丸くなるというようなことと無縁なのが、漱石漱石の登場人物であろう。人はこれを誠実・清廉潔白と謂い、こんな身勝手はないとも謂う。

漱石「最後の挨拶」野分篇 5

340.『野分』式場益平からの手紙(4)――ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド


 本文改訂ということで言えばもう1つ、『坊っちゃん』の清のセリフ、

「もう御別れになるかも知れません。存分御機嫌よう」(『坊っちゃん』第1章)

 論者は先にこの「存分」を「随分」の書き間違いであると断じたが、同じ年に漱石はもう1度同じ書き間違いをしているようである。それは『野分』の白井道也のセリフにある。

「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にして入らっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢の灰を丁寧に掻きならす。中から二寸釘が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮の火箸で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛り出した。
 庭には何もない。芭蕉がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をして居る。地面は皮が剥けて、蓆を捲きかけた様に反っくり返っている。道也先生は庭の面を眺めながら
「①存分吹いてるな」と独語の様に云った。
「もう一遍足立さんに願って御覧になったら、どうでしょう」
「厭なものに頼んだって仕方がないさ」
「あなたは、夫だから困るのね。どうせ、あんな、豪い方になれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……」
「あんな豪い方って――足立がかい」
「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――然し向はとも角も大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう」
「そうか、夫じゃ仰に従って、もう一返頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、一寸社迄行って、校正をしてこなければならない。袴を出してくれ」
 道也先生は例の如く茶の千筋の嘉平治を木枯にぺらつかすべく一着して飄然と出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。(『野分』第10章)

 道也の出掛けた留守に道也の兄が来る。

 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
 道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関で脱いで座敷へ這入ってくる。
「②大分(だいぶ)吹きますね」と薄い更紗の上へ坐って抜け上がった額を逆に撫でる。
「お寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「今御帰り掛けですか」
「いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
 兄は糸織の小袖に鉄御納戸の博多の羽織を着ている。
「今日は――留守ですか」
「はあ、只(たった)今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御緩くり」と例の火鉢を出す。(『野分』第10章)

 この道也の①「存分吹いてるな」が、初出(ホトトギス)、初版(『草合』)はじめ全ての出版物で「大分吹いてるな」となってしまった。「存分吹いている」などという言い方は普通はしない。編集者(か植字工)はそう思って勝手に「大分(だいぶ)」に直した。もちろん「大分吹いてるな」でもとくに問題はない。しかしどうせ直すのなら、ここは『坊っちゃん』同様、「随分吹いてるな」と直すのが正しいのではないか。根拠は『坊っちゃん』の先行例ともう1つ、そのあとの兄のセリフ「大分吹きますね」である。
 吹いているのは12月の木枯らしである。そして久しぶりに訪れた兄もまた、②「大分吹きますね」と挨拶している。弟が少し前に同じセリフを吐いていけないとは言わないが、漱石がそんな迂闊なことをするとも思えない。この小説においても兄弟で気脈を通じるものは何もないのである。漱石はわざわざ(大分でなく)「存分」と、2人の表現を変えて書いている。であればここは少なくとも「大分」ではなかろう。漱石は「随分」のつもりではなかったか。明治39年に漱石は2回も(3月と12月)同じ書き間違いをしたわけである。
 思うに漱石は、若い女のテヨダワ言葉に準ずる言い方、「随分だわ」「随分ね」を連発するが、若い女でない人物(清と道也)のセリフの先頭の語として「随分」と書くときに、無意識ながらペンの先にいくらか躊躇するものがあったのではないか。

「もう御別れになるかも知れません。随分御機嫌よう」(『坊っちゃん』第1章本文改訂案)
(これはあくまでも岩波の平成版全集に対する改訂案であって、他の版はおおむね従来から「随分御機嫌よう」になっている。ちなみに平成版の漱石全集は原稿に準拠しているとはいえ、漱石に書き間違いがあるとすれば、そこは糺すのが筋であろう。)

 ・・・道也先生は庭の面を眺めながら
「①随分吹いてるな」と独語の様に云った。(『野分』第10章本文改訂案)

 この部分の本文を「随分吹いてるな」とする版は、(当然だが)この世に存在しない。しかしそのために長くとった本項の引用部分だけでも読み返してほしい。「随分吹いてるな」がいちばん自然である。何より「おかしい」ところが無いだけでもマシではないか。

・「存分吹いてるな」(漱石の原稿)・・・文章としておかしい。
・「大分吹いてるな」(従来の本文)・・・後段との重複はおかしい。
・「随分吹いてるな」(本項改訂案)・・・おかしいところはない。

 もう一度改めて当該箇所の前後の文章を見てみよう。当該第10章の書出しは以下の通りである。

 道也先生長い顔を長くして煤竹で囲った丸火桶を擁している。外を木枯が吹いて行く
「あなた」と次の間から妻君が出てくる。紬の羽織の襟が折れていない
「何だ」とこっちを向く。机の前に居りながら、終日木枯に吹き曝されたかの如くに見える
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」(『野分』第10章冒頭)

 苦しい家計について道也と細君のやり取りが続く。

「でも夫じゃ、うちの方が困りますわ。此間御兄さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから」
「おれも其方を埋める積で居たんだが――売れないから仕方がない」
「馬鹿馬鹿しいのね。何の為めに骨を折ったんだか、分りゃしない」
 道也先生は火桶のなかの炭団を火箸の先で突付きながら「御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ」と云った。妻君はだまって仕舞う。ひゅうひゅうと木枯が吹く。玄関の障子の破れが紙鳶のうなりの様に鳴る
「あなた、何時迄こうして入らっしゃるの」と細君は術なげに聞いた。(『野分』第10章)

 それから上記の長い引用文前半の道也の呟き、

「①随分吹いてるな」・・・

 につながるのである。しばらくして道也は出掛ける。

 道也先生は例の如く茶の千筋の嘉平治を木枯にぺらつかすべく一着して飄然と出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。

 独りになった細君は変人元教師の妻であることに思い悩む。

 ・・・広い世界に自分一人がこんな思をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳には行かぬ。然し連れ添う夫がこんなでは、臨終迄本当の妻と云う心持ちが起らぬ。是はどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きて居る甲斐がない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくって居る。風が枯芭蕉を吹き倒す程鳴る。(以上『野分』第10章)

 これに続いて上記引用文の後半、留守中に兄がやってきて、

「②大分吹きますね」・・・

 と挨拶するのである。兄は細君の愚痴を聴いてやる。そして道也を真人間に戻す策を練る。

 第10章の締め括りの文章は次の詩的な一文である。

 初冬の日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。(『野分』第10章末尾)

 『野分』第10章は風(木枯らし)と共にある。そもそもなぜ野分というタイトルが付けられたのか。漱石は珍しく誰にも相談せず、確信的に『野分』という題名を即決している。題名ばかりでなく、漱石は文章にも充分に意を用いているのである。文章にも(絵画のように)タッチというものがある。あるいは(音楽のように)アクセントということがある。
「大分吹いてるな」(道也)
「大分吹きますね」(兄)
 小説のモチーフたる風を表現するのに、無神経に同じ言葉を重ねるわけがないのである。

 これも以前から述べていることであるが、漱石の生前に出た本に(誤植は別として)漱石の意にそぐわない表現があるはずがないという意見がある。少なくとも漱石は黙認していたのではないかとする意見である。論者はまったくそうは思わない。漱石に自分の本を読み返す趣味はない。漱石は自作を読み返さなかった。自作を読む(それもまた読書の範疇であろうか)ということにどんな意味があるのか。逆説的な言い方をすると、そんなことに貴重な時間を費消しているようでは、後世に残る作品は書けないということであろう。

 前に述べた「越後の高岡」は、間違いというよりは高岡という語の意味の取り違え。漱石はあまり深く考えずに高岡を架空かそれに近い地名と思ったようだ。三四郎の書いた宿帳の住所地と同じで、見たことも聞いたこともない場所なので、漱石にとってはどうでもいいのであった。
 いっぽう今回の「存分」は単なる書き間違いであろう。作家になりたての頃である。毎日何千と文字を書いていれば間違うこともある。間違いは普通は糺されるものだが、何かの「間違い」でそのまま残ってしまうこともある。ビートルズの初期のメガヒット曲 Please Please Me には、作者のジョンが歌詞を間違えてしまって(より正確には歌詞を間違えそうになってしまって)、少し笑いながら続きを歌っている有名な箇所がある。それもまた一興と見ることも出来るが、文学と音楽は違う。ファンゴッホのカンヴァスの隅っこには塗り残しの例がままあるが、補修しようと思う者はおるまい。しかし文学は絵画とも異なるのである。

漱石「最後の挨拶」野分篇 4

339.『野分』式場益平からの手紙(3)――漱石は誰の手紙も保存しない


 さて式場益平の話に戻って、漱石の葉書を再々掲する。

〇書簡No.811 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去る、、とはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(定本漱石全集第23巻「書簡中」)(再々掲)

 引き続き式場益平の疑問4つのうちの2番目の項目から。

 越後を去るときの道也の言葉「生きべき」は誤用ではないか。

「諸君、吾々は教師の為めに生きべきものではない。道の為めに生きべきものである。道は尊いものである。此理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。・・・」(『野分』第1章)

 この道也先生が生徒へ話した惜別の言葉の中の「生きべき」は、正しくは「生くべき」または「生きるべき」ではないか。
 漱石の回答は「ごもっとも」の一言であるが、江戸なまり・東京山の手なまりということがある。漱石に直すつもりはない。なぜなら訛りは「誤り」ではないからである。文法上はともかく、漱石は登場人物に「正しい」発音をさせただけである。
 それに文法といえども所詮人間が作ったものである以上、科学的真実に較べると絶対ではない。長い年月の間には変化することもある。公理定理に照らしての誤りなら匡しもしようが、たかが文法ではないか。苦沙弥先生も「間違いだらけの英文をかいたり」(『猫』第1篇)という自覚を有するのである。漱石としては、それがどうした、といったところであろう。

 「去る」の記述に、文脈上意味の取りづらい箇所があるというのが、質問者の指摘であると思われるが、漱石はそれがどの部分のことを言っているのか分からないようである。

「・・・不平な妻を気の毒と思わぬ程の道也ではない。只妻の歓心を得る為に吾が行く道を曲げぬ丈が普通の夫と違うのである。世は単に人と呼ぶ。娶れば夫である。交われば友である。手を引けば兄、引かるれば弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。去るを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足る程の世間なら単純である。妻君は常に此単純な世界に住んで居る。妻君の世界には夫としての道也の外には学者としての道也もない、志士としての道也もない。道を守り俗に抗する道也は猶更ない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到る所に職を辞するのは、自から求むる酔興に外ならんと迄考えている。」(『野分』第1章)

 質問者はおそらくこのくだりのことを言っているのだろう。「去るを」はこの場合、漢字を宛てるなら、「然(さ)るを」の方が分かりやすかったかも知れない。道をめざす者、正しい道を行く白井道也は選ばれし人である。「それを単に人と呼ぶ」「それなのに単に人と呼ぶ」「然(しか)るに単に人と呼ぶ」というほどの意味である。その他『野分』の中に「去る」についてのややこしい用例はない。すべて leave ( go away ) の意味で使われており、疑義はない。
 小説の冒頭から白井道也が3つの中学を「去った」ことが繰り返し書かれ、「去る」「去った」の表記は第1章だけでも10ヶ所を超える。そこへ「去るを単に人と呼ぶ」であるから、読者によっては混乱する。「単に人と呼ぶ」「人と呼ぶ」という簡素な表現自体が、「去るを」という冠を付けることにより、かえって分かりにくくなったようだ。

 世間は個々人の真の個性は見ない。見る習慣がないと言うべきか。首から下げられた看板だけを見ていると言うべきか。その意味で細君が夫を真に理解することはないという主張も尤もであるが、妻にとっては夫は常に、学者でも天才でも英雄でもない、芸術家でも詐欺師でも泥棒でもない、ただの夫(男・man )である。ただの人。パーソナリティとは関係ない、妻を養ってくれる存在としてだけのただの人。そういう意味で漱石は「人」という言葉を使ったのであろうが、厄介なことに漱石は金(稼ぎ)を念頭にそれらを述べているので、この場合の「人」という語の裏側には、人格ではなくて金という価値が貼り付いているのである。
 後段(第11章)で語られる道也の演説『現代の青年に告ぐ』には、10頁足らずの間に「金( money )」という言葉が50回以上出て来る。『野分』のテーマの1つは、『坊っちゃん』や『草枕』同様、「意地」であるが、『野分』では「意地」という言葉の裏側に、(「怒り」という字だけでなく)「金」という字も書いてあったのである。

 「下女の足袋」というのは、第3章で道也先生が中野君の談話を取りに中野邸を訪れたときの下女の描写、「下女は何とも云わずに御辞儀をして立って行く。白足袋の裏丈が目立ってよごれて見える。」とあるのに対し、質問者が何らかの感想なり批評を述べたのであろう。漱石は肯じなかった。(あなたの)意見には服さないと、珍しくはっきり言い切っている。漱石は下女については一家言ある。あるいは含むところがある。下宿屋の下女とは違うと言いたかったのかも知れない。

(オマケ) 漱石は見知らぬ人への返信であっても、つい余計な一言を書く。本人の書いた「益」の字が(達筆過ぎて)漱石には読めなかったのかも知れない。現存している葉書の宛名を見ると(写真版だが)、漱石は慥かに「益」という字を書いているように見えるが、別の(不明な)字のように見えなくもない。いらぬことを言うのは漱石の生来の癖でもあり、漱石の律儀なところでもある。あるいは「マスヘイ」は所謂重箱読みであるから、漢詩漱石としてはつい「エキヘイ」「マスヒラ」という読み方が頭をよぎったのか。いったん気になると人はなかなかそこから脱け出せない。

 震災や空襲の中を無事に生き延びた(らしい)式場益平宛漱石の葉書は、今どこにあるのだろうか。(新潟の)会津八一記念館にあるのか。惜しいことに消印が(薄くて)読み取れないようである。葉書がいつ書かれたかについては、読者の気になるところである。「怒涛の明治39年」の幕を閉じた頃で、野上弥生子の習作『明暗』に長い感想文を書いたのもこの頃である。漱石としては大学を辞めて新聞へ行こうかという、区切りを迎える時期でもあった。葉書の内容(漱石の記憶が鮮明である)からは、雑誌が出てすぐ(1月中)であったと推測されるが、当時漱石はまだ出講していたのであるから、どのようなタイミングでこの親切でぶっきらぼうな返信がなされたのか、消印に時刻が押印されてあれば(当時は1時間2時間刻みの集配スタンプになっていたはずである)、帰宅して夜書いたのか、日曜の昼間に書いたのか、より細かいことまで分かったのにと悔やまれる。消えたように見える消印の全体を「科学」の力で何とか復元できないものだろうか。

 いずれにしても本項まで、重ねて引用した式場益平宛葉書は、大正昭和版全集の、そして平成版全集の『野分』の本文が覆る内容であるからには、漱石の書簡集の中で最も価値のある書簡の1つであると言わねばなるまい。
 にもかかわらず前述の通り漱石の存命中は、「越後の高岡」は生き続けた。このことが大した問題にもならなかったのは、『坑夫』と『野分』の合本では、『草合』の販売部数も知れたものだったからであろう。
 一方岩波の全集で『野分』を読む新しい漱石の読者にとって、小説のラストが「越後の高田」となっておれば、誰も疑うものはない。高田は石油の町ではありませんよと、わざわざ天国の漱石にご注進に及ぶファンもおるまい。唯一それを発信出来る者があるとすれば、それは「あれは長岡のつもりだった」と直接漱石から打ち明けられた、二松学舎後輩にして新潟県人の式場益平だけであろう。

 その式場益平がそもそも漱石にどのような質問を投げ掛けたかについては、本当に想像するしかないのだろうか。故人は日記をつけていたようだが、明治40年の頃のものは残っていないのだろうか。漱石の葉書を保存している以上、漱石に手紙を出して返事を貰ったことを隠すような人ではなかったと思われるが、生前そんな話を聞いた家族や友人教え子などはいなかったのだろうか。
 これについては会津八一がエッセイを残しているのだが、話が混み入るので後の項に譲りたい。

漱石「最後の挨拶」野分篇 3

338.『野分』式場益平からの手紙(2)――115年目の本文改訂『野分』篇


「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/大正6年12月漱石全集刊行会版漱石全集第2巻――以降20世紀の漱石全集すべて)(再掲)

 いったいどこからこの「高田」という町は湧いて来たのだろう。高田は石油の町か。中学があって「高」という字が付けばどこでもよかったのか。一体いつ誰がこんな突飛な思いつきをしたのだろうか。まさか漱石自身が生前に指示していたわけではあるまい。
「越後の高田」はその後も永く『野分』の本文であり続けた。今でも多くの『野分』の版ではそうなっているはずである。

 原稿が「越後の高岡」であることは既に述べた。しかし原稿はおろか「ホトトギス」も『草合』も、大正期の全集本さえ知らない現代の読者にとって、「越後の高田」の突飛さに気付くのは容易でない。
 集英社版全集第4巻(昭和58年)の『野分』校異表、

・初出「越中の高岡」
初版「越後の高岡」
集英社版本文「越後の高田」

 が、おそらく一般の目に触れた最初であろうか。「越中の高岡」も「越後の高岡」もそれぞれにおかしいのであるから、荒正人(たち)も従来の漱石全集を踏襲ぜざるを得なかったのだろう。読者もそれに倣うしかない。
 原稿準拠の前出平成版漱石全集第3巻(平成6年2月)でも、なぜか『野分』のこの部分だけは、そのまま取り残されてしまった。何の注釈もなくただ従前通りの「越後の高田」である。巻末の校異表には載っているから、原稿が「越後の高岡」であることは、製作者側では変らず認識されているのである。前述のようにこのときの書簡集(平成8年9月刊漱石全集第23巻)には式場益平宛葉書が新規に追加されているが(書簡No.781として)、そんなことはどこ吹く風といった按配である。

書簡No.781 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十 ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去るとはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(平成8年9月刊漱石全集第23巻「書簡中」)(再掲)

 平成8年(1996年)9月以降、書簡No.781の式場益平宛葉書に仰天した読者で、本文の「越後の高田」に悩まなかった者はおるまい。注解頁にはまだ何の注釈も書かれない。「長岡をわざと高岡」にした理由が何かあるのだろうとは察しられるが、明治39年旧友坂牧善辰が長岡中学校校長時代に転任の仲介を漱石に問い合わせて来たことなど、ほとんどの読者にとって関心や知識の外にある話である。


 ところが2017年の定本漱石全集になって、突如漱石の原稿は復活した。「越後の高田」という怪物の代わりに、「越後の高岡」という、かつて死に絶えたかに見えた妖怪が、百年の時を経てゾンビのように蘇ったのである。それも漱石の書いたままという錦の御旗の下に。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/定本漱石全集第3巻平成29年2月岩波書店版――初版本『草合』明治41年9月春陽堂版に同じ

《「高岡」「高田」2大怪物変遷史》
・「越後の高岡」(原稿)明治39(1906)年12月
・「越中の高岡」(ホトトギス)明治40(1907)年1月~
・「越後の高岡」(『草合』初版)明治41(1908)年9月~
・「越後の高田」(第1次漱石全集)大正6(1917)年12月~
・「越後の高田」(以後各次の漱石全集すべて)
・「越後の高田」(原稿準拠漱石全集)平成6(1994)年2月~
・「越後の高岡」(定本漱石全集)平成29(2017)年2月~(ただし注解付)
・「越後の長岡」(本ブログ改訂案)令和4(2022)年10月~
(※追記:平成28年11月改版の岩波文庫二百十日・野分』については後述する。)

 漱石はラストシーンで高柳君の告白を書く際に、中学校の所在地をそのまま語るのが自然であると考えた。慥かに小説の大尾まで来て、告白相手に対して自分たちだけが共有する中学の名(町の名)をぼかす理由はない。告白相手たる恩師は、自分が恩師であることさえ気づいていないのである。高柳君は静かに亢奮している。道也先生に自分の立場を正確に伝えるのが最大の責務である。曖昧な表現は厳に慎まねばならぬ。しかるにやっかいなことに作者は長岡中学の名は出したくない――。
 岩波の定本漱石全集の方の注解は、漱石が長岡中学に奉職している友人(先に触れた坂牧善辰)の手前を慮ったのだろうと書くが、読者は漱石の意図は諒解しても、それで「越後の高岡」を承認するわけではない。

 ここでの最適改訂案は、ズバリ「長岡」を正直に書くことである。21世紀にもなって、もう誰かに気を置く必要はないのである。
 漱石が長岡の名を隠したがったという事実を、どうしても本文に残したいのであれば、不本意ではあるが伏せ字にするという手もある。しかしこれも今の時代にはそぐわないだろう(次善案)。
 どちらにしても真相はすでに明らかになっているのであるから、泉下の漱石を満足させるためにも、『野分』の本文は、まず言葉として「正しく」あるべきである。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の長岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です」(『野分』第12章本文改訂案)

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の〇〇で先生をいじめて追い出した弟子の一人です」(次善案)

 まあ変人の白井道也を追い出したからといって、それほど長岡市の不名誉になることでもあるまい。坊っちゃん松山市は反対に大変な経済効果を生んだ。気の毒なのは根拠なく漱石サイドに庇い損ねられた高田市の方である。住民から抗議は来なかったのだろうか。その(かつて漱石が訪れて講演したこともある)高田も、平成の大合併で市の名称としての高田は今はもうないが。

 今にして論者はさらに余計な想像をする。漱石山房でのある日。ホトトギスの「越中の高岡」のことはもう過ぎた話としても、単行本として(大した量でないにせよ)市中に出回っている「越後の高岡」については、流石に周囲も気になっている。校正を担当する弟子の誰かが言う。
「先生、高岡は越中だから、こうなってしまったんですよ」
「そうかも知れないね。でもタカオカでもカタオカでも何でもいいじゃないか」
「高岡の場合そうは行きません。越後なら高岡じゃなくて高田ではありませんか」
「ふむ、高田かい。しかし……」
「高田なら中学もありますしお城もあります。有名ですよ」
「そうか」
「ここは越後でなけりゃならんのです」
「だから越後ならどこでもいいのだろう」
「そうです。だから高岡では困るのです。高田にしますか」
「どっちでもいいよ」
「では高田に直しておきましょう」
「でも『草合』は今は刷らないんだろう?」
「分かりませんよ。本屋にはもうないそうですから」
「出しても売れないよ、あんなもの」
「廉価本という手があるのです」
「何でも考えるものだな。まあこっちは構わないから、やりたいようにやるがいい」

 漱石は長岡の名をよう出さなかった。長岡を石油の町として書いたことを忘れていたのかも知れない。もともと漱石は自分の旧作に興味はないのであるが、もしこのような会話すらなく、弟子たちが漱石の死後勝手に、あるいは編輯会議のようなところで官僚的妥協案としての「越後の高田」が採用されたのなら、その罪は万死に値しよう。
 またまた繰り返しになるが、(理論上)1億人くらいの日本人が『野分』の舞台が「高田中学」であると信じ込んだままあの世に行ってしまった。そして今いる1億人のうち、このことを知る人が何人いるだろうか。

 しかし百年を支配した「越後の高田」の罪以前に、先にも挙げた明治41年9月から大正6年12月までの9年間、ほぼ漱石山房とともに生き通した「越後の高岡」の方が、罪としては重いようである。罪という前に一層不思議である。高岡は越中であって越後ではない。漱石が国民的大作家になるのはいいが、正行居士の文豪と「越後の高岡」は似合わない。高岡市民からクレームは来なかったのだろうか。漱石の書いたものに「備後の岡山」とあれば、岡山市民(県民)なら即座に文句を言うところであるが。

 ところでこの不可思議な話の発起点は、やはり「ホトトギス」の「越中の高岡」であろう。話を蒸し返すようで申し訳ないが、当時待ち兼ねて雑誌を読んだ志賀直哉の眼にはどう映ったであろうか。新聞や雑誌に誤植は付き物であるから、別に気にしなかったとも思われるが、越中の高岡が新潟県でないことくらいは、さすがに志賀直哉は気づいていたはずであるから、「越中の高岡」と書かれた頁を、どんな顔で見ていただろうか。

漱石「最後の挨拶」野分篇 2

337.『野分』式場益平からの手紙(1)――驚愕の高岡市と高田市


 例によって漱石作品本文の引用(青色文字)は、原則として岩波書店の平成版『漱石全集』『定本漱石全集』に拠る。ただし現代仮名遣いに改めた。論者(筆者・引用者)による強調はアンダラインで、省略部分は(あれば)・・・で示す。その他は特記なき限り原文のまま。

 その『野分』が出た頃の漱石の書簡(葉書)にこんなのがある。

〇書簡No.811 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十 ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去るとはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(定本漱石全集第23巻「書簡中」傍点は原文のママ)

 これは平成版漱石全集になって始めて世に現われたものである、とまず断っておいた方がフェアであろう。(1996年漱石全集第23巻。但し書簡No.は781、内容は同一。)
 同書簡集の人名索引には、

〇式場益平(1882-1932)新潟県の生れ. 明治35年新潟中学校卒. 上京して二松学舎に学んだ. のち大阪女子師範教授.

 とある。麻青式場益平は越後五泉の人。明治15年生れということは志賀直哉(明治16年生)の世代と言ってよい。会津八一(明治14年生)と近しい歌人であり、生前歌集(『摩星樓歌帖抄』)を残している。没後半世紀を経て昭和56年私家本『剪燈残筆』なる遺歌集が遺族によってまとめられた。このくだりの記述も多く同書に依るが、思うに漱石の葉書もこの前後に発見されたものであろうか。
 式場益平は病を得て漱石と同じくらいの年数しか生きなかったが、句誌「ホトトギス」を愛読し、また良寛を研究していたことによっても、漱石との(嗜好的な)つながりを感じさせる。創藝社版(近代文庫)『ゴッホの手紙』の訳者として有名な精神科医式場隆三郎は可愛い甥にあたる。

 さて式場益平はこのとき二松学舎を卒業した頃で、自分と同じ年代の主人公(高柳周作)が活躍する『野分』を「ホトトギス」で読んで、早速疑問点を問いただす手紙を書いたものと思われる。論点は少なくとも4つ。以下項目として順に検討してみたい。

 小説では常に越後・新潟県であったはずの、白井道也の最初の赴任地にして高柳周作の出身地が、末尾で突然「越中の高岡」になってしまったのは驚ろきである。

「先生私はあなたの、弟子です。――越中の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。・・・」(『野分』第12章末尾/初出「ホトトギス」明治40年1月)

 漱石は原稿に「越後の高岡」と書いた。これは漱石の返書によると、長岡と書くのを憚ってわざと高岡としたというのであるが、高岡は富山県の有名な都市の名でもあり、厄介なことに長岡中学も高岡中学も実在する、しかも名門校である。ホトトギスの編集者か植字工が誤りを匡したつもりで却って事態をややこしくした。漱石は長岡でも高岡でも、どちらでもいいと思ったのであろう。読者の質問に対しては単純に越中は間違いであると答えたにとどまった。
 この「越中の高岡」問題であるが、物語の始まりが越後であることは明白である。

 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。会社の役員は金のある点に於て紳士である。中学の教師は貧乏な所が下等に見える。此下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明かである。(『野分』第1章)

 新潟県の地理に詳しい者はこの地が長岡市であることが分かる。だがそれは作品にとっては、取り敢えずはどうでもいい話である。『坊っちゃん』の舞台が「松山市」であるとは小説には一言も書かれない。
 越後の中学校で生徒だった高柳君の仲間が、大人たちにそそのかされて若い道也先生を追い出してしまうのが話の発端である。高柳君の心の中にいつまでも引っかかる「いじめ事件」は、小説では早くから友人中野君にも打ち明けられる。中野君はひょんなことで白井道也との接点さえ持つ。

 小説の真ん中辺に、その中野君と婚約者が変物の友人高柳君のことを噂するくだりがある。

「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。矢っ張り御百姓なの」
「農、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。此間あなたが御出のとき行き違に出て行った男があるでしょう」(『野分』第7章)

 それがフィナーレで突然、高柳君の告白として、「越中の高岡」と書かれたら誰でもびっくりするだろう。物語の最後の幕でシャーロックホームズが(エルキュールポワロでも)自信満々に紹介した犯人の名前を、別の人物の名前と言い間違えたようなものである。読者は一瞬余所の小説の頁が紛れ込んだのかと思ってしまう。

 そのためというわけでもないだろうが、『野分』の初版はずいぶん遅れて、『三四郎』の連載が始まった明治41年9月、『坑夫』とカップリングした『草合』を俟つこととなった。3ヶ月だけ先行して掲載された『草枕』は、『野分』発表の頃(明治40年1月)には既に上梓されていた(『坊っちゃん』『二百十日』と合わせた『鶉籠』)。それどころか朝日入社後の『虞美人草』(明治40年6月~10月連載、同12月初版)にまで後れを取ったことになる。実態は単行本にするための頁数を満たす仲間の作品が見つからなかっただけのことであろうが、おかげで「越中の高岡」は新潟ゆかりの小説『野分』の末尾を1年9ヶ月の間飾ることになった。

 ところがやっと出た単行本『野分』(『草合』)の該当箇所は、漱石の原稿通りに戻されたにとどまった。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/初版本『草合』明治41年9月春陽堂版)

 とりあえず問題箇所は1年9ヶ月ぶりに漱石の原稿の状態には戻った。しかし「越中の高岡」も「越後の高岡」も問題という点では五十歩百歩である。
越中の高岡」は字面としては正しいが、『野分』という小説の中で見れば意味が通らない。無茶苦茶である。いっぽう「越後の高岡」は、表現自体がおかしい。読者はやはり何かの誤植ではないかと思ってしまう。
 たとえ創作物であっても、原稿に「備前の福山」と書けば読者は(その前に編集者は)、「備前山」か「備の福山」か、どちらかの書き間違いであると思うだろう。

 初版の本文もまた、いずれ改められなければならない。幸か不幸か『草合』はあまり売れず、正式に版が改まったのは何と漱石没後すぐに出た始めての全集においてであった。
 ところが更に驚ろくべきことに、この全集本の『野分』本文は、次のように「校正」されていた。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/大正6年12月漱石全集刊行会版漱石全集第2巻――以降20世紀の漱石全集すべて)

 つまり驚ろきの「越後の高岡」という不適切表現は、明治41年9月初版の『草合』が出て以来、(漱石の原稿をそのままなぞったものとはいえ、)文豪漱石の全キャリアを覆い尽くしていたのである。そして全集で『野分』を再読した古くからの読者は、「越後の高田」によって3度目の驚ろきを驚ろくことになる。

(この項つづく)

漱石「最後の挨拶」野分篇 1

336.『野分』はじめに――小説の神様が愛読した小説


 本ブログは『三四郎』『それから』『門』の初期(青春)3部作、『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作のあと、『道草』に入る前に、『坊っちゃん』『草枕』と寄り道したが、本ブログ草枕篇(28)で述べたように、漱石の「明治39年版怒れる小説」として『坊っちゃん』『草枕』『野分』の3作の名を掲げたからには、ここで(明治39年12月に書かれた)『野分』も取り上げざるを得ない。これを以って本ブログも「明治39年怒りの3部作」の完成となるだろうか。

 本ブログ心篇(4)でも触れたことがあるが、志賀直哉のエッセイにこんな記述がある。(引用は昭和49年岩波書店版『志賀直哉全集』第7巻「随筆」による。)

 夏目漱石は最も愛読した作家で、「猫」でも、「坊っちゃん」でも、「野分」でも、「草枕」でも、みんな繰返して読んだ。人間の行為心情に対する漱石の趣味、或いは好悪と云ってもいいかも知れないが、それに同感した。漱石の初期のものにはユーモアとそういうものとが気持よく溶け合っている。ユーモアだけでなく、そういう一種の道念というようなものが一緒になっている点で、少しも下品にならず、何か鋭いものを持っていた。
 雑誌の出るのを待ち兼ね、むさぼり読んだ。年末に、正月の特別号が出るのを待つ気持は実に楽しかった。今の若い人達が今の雑誌をあれ程に待つかしらと思う。(志賀直哉『愛読書回顧』/「向日葵」昭和22年創刊号)

 漱石の愛読者は多いといっても、『野分』を繰り返し読んだのは志賀直哉だけではないか。昭和22年といえば太宰治自裁の前年、志賀直哉は既に「老大家」であったから、発表誌「向日葵」が(容易に想像されるように)武者小路実篤の主宰であることを考えても(あるいは考えなくても)、この発言は志賀直哉の本心からのものであったろう。上記引用文の、年末から楽しみにしていた「正月の特別号」というのは、『野分』の載った「ホトトギス」明治40年1月号のことを指すと考えて、まず間違いない。

・明治39年1月号 『猫』第7篇・第8篇(ホトトギス
・明治39年1月号 『趣味の遺伝』(帝国文学)
 ―― 以下明治39年に執筆 ――
・明治39年3月号 『猫』第9篇(ホトトギス
・明治39年4月号 『坊っちゃん』(ホトトギス
・明治39年4月号 『猫』第10篇(ホトトギス
・明治39年8月号 『猫』第11篇完結(ホトトギス
・明治39年9月号 『草枕』(新小説)
・明治39年10月号 『二百十日』(中央公論
・明治40年1月号 『野分』ホトトギス

 明治39年は1906年であるが、その57年後の1963年、前の年にレコードデビューしたばかりのビートルズは、ミリオンヒット(シングル盤)を連発しながら並行して、”Please Please Me” と ”With the Beatles” という LP を続けざまにリリースした。このときの英国の若者も同じ気分を味わったのだろう。(どうでもいいことだが極東の中学生だった論者も、後日少しだけ味わった。)
 明治39年の著作年表を見ていると、若き志賀直哉が「雑誌の出るのを待ち兼ね、むさぼり読んだ」というのも納得できる。『猫』『坊っちゃん』『草枕』と続けざまに発表されて、二十代半ばとはいえまだ帝大英文科へ入学したばかりの志賀直哉は、真の才能を持つアイドルに対する崇敬の念で(漱石はまだそこで最後の教鞭を執っていた)、正月に特別号の「ホトトギス」を待ち望んだのであろう。ところで更にどうでもいいことであるが、そのまた57年後、2020年に(始めての出版と共に)本ブログはスタートした。人生は長いというべきか、短いというべきか。

 冒頭にも述べたが『野分』は怒りの小説である。志賀の内面に立ち入るつもりはないが、彼もまた「怒り」の感情で生涯を通した人であったとは言える。
 ちなみに志賀直哉は上記引用文で、(『猫』『坊っちゃん』に続いて、)『野分』、『草枕』の順に作品名を掲げているが、おそらくその順に書かれたと勘違いしたのであろう。事実は上記の表のように、『草枕』のすぐ後に(短篇『二百十日』を挟んで)『野分』が書かれたのである。しかし『野分』の方が『草枕』に比べて(『坊っちゃん』に比べても)、稚い感じ、習作という感じがする。
 思うに『野分』は漱石が始めて小説らしい(かっちりした構成の)小説を書こうとして、何人かの登場人物に各々立場や性格の異なる主人物的な要素を与えたのはいいが、その分作品の印象が散漫になってしまうようだ。それは朝日入社後の第1作『虞美人草』で改善・洗練されたようにも見え、また同じ轍を踏んだようにも見えた。つまり相変らず通俗小説になってしまったということであるが、その議論はさておき、新年号を読んだ志賀直哉も日記でこんなことを言っている。

 ・・・午前は夏目さんの野分を見る、野分は二つの見方を一時にするを要す。部分々々の論旨大いに味深く此議論が集まって又一つの小説とも議論とも成って居るのだ。(昭和48年岩波書店志賀直哉全集第10巻「日記一」明治40年1月3日より)

 この「2つの見方」というのは、『野分』の主人公たる白井道也と高柳周作の性格・物の考え方や境遇の違いという意味であろう。同時に高柳周作と中野輝一、白井道也とその細君御政の世界観の違いをも指すのだろう。それぞれの2人の主張を統合して読むところに『野分』の佳さが燻蒸されるという、漱石贔屓らしい感想である。それは『二百十日』で圭さんと碌さんという2人の主人公の対照として実験済であるから、その見方からすると、『野分』は『二百十日』を進化させたものである。
 『野分』の主人公については後述したいが、このときの志賀直哉は、(講談等でおなじみの)主人公が複数登場することについては、とくに違和感を感じなかったのであろう。(志賀直哉が時任謙作を書こうとして、主人公に対する作者の態度・人生観に悩んで書けなくなったのは、それからさらに10年後のことである。)

 それより『野分』に対する日記での意見の表明は、志賀直哉としては大変珍しい部類に属することと言える。志賀直哉は日記に読んだ本の感動を書くタイプの青年ではなかった。作家や作品のタイトルが(名称だけでも)書き込まれることは本当に少ない。つまり小説家志望の頃からすでに、根っからのプロフェショナルであった。彼の日記の中に『野分』の前の、『猫』『坊っちゃん』『草枕』に関する言及は一切ない。(普通なら『野分』にコメントするくらいなら、『猫』『坊っちゃん』『草枕』の感想は山ほどあっていいはずである。)それが却ってこの偉大な3作品に対する志賀直哉のリスペクトを表わしていると見ることも可能であるが、その後の作品についても同様である。日記の存在しない年次も多くあるので断定的なことは言えないが、唯一残っているのは、『行人』の長い中断の後に連載の再開された『塵労』について、

「行人」の続きを読んで見た。夏目さんのものとしてはいい物と思う。漾(ただよ)っている或気分に合わぬものがあるが、筆つきのリッチな点は迚も及ばぬ。(同大正2年9月27日より)

 これだけである。本ブログ心篇(2~4)で述べたように、志賀直哉は『道草』の始めの方まではリアルタイムに漱石を読んできたことが確実である。それでいてなお、『野分』についての僅か1行か2行ばかりの指摘は、稀有であると同時に今に至るまで貴重であると言って差し支えない。