明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 2

337.『野分』式場益平からの手紙(1)――驚愕の高岡市と高田市


 例によって漱石作品本文の引用(青色文字)は、原則として岩波書店の平成版『漱石全集』『定本漱石全集』に拠る。ただし現代仮名遣いに改めた。論者(筆者・引用者)による強調はアンダラインで、省略部分は(あれば)・・・で示す。その他は特記なき限り原文のまま。

 その『野分』が出た頃の漱石の書簡(葉書)にこんなのがある。

〇書簡No.811 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十 ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去るとはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(定本漱石全集第23巻「書簡中」傍点は原文のママ)

 これは平成版漱石全集になって始めて世に現われたものである、とまず断っておいた方がフェアであろう。(1996年漱石全集第23巻。但し書簡No.は781、内容は同一。)
 同書簡集の人名索引には、

〇式場益平(1882-1932)新潟県の生れ. 明治35年新潟中学校卒. 上京して二松学舎に学んだ. のち大阪女子師範教授.

 とある。麻青式場益平は越後五泉の人。明治15年生れということは志賀直哉(明治16年生)の世代と言ってよい。会津八一(明治14年生)と近しい歌人であり、生前歌集(『摩星樓歌帖抄』)を残している。没後半世紀を経て昭和56年私家本『剪燈残筆』なる遺歌集が遺族によってまとめられた。このくだりの記述も多く同書に依るが、思うに漱石の葉書もこの前後に発見されたものであろうか。
 式場益平は病を得て漱石と同じくらいの年数しか生きなかったが、句誌「ホトトギス」を愛読し、また良寛を研究していたことによっても、漱石との(嗜好的な)つながりを感じさせる。創藝社版(近代文庫)『ゴッホの手紙』の訳者として有名な精神科医式場隆三郎は可愛い甥にあたる。

 さて式場益平はこのとき二松学舎を卒業した頃で、自分と同じ年代の主人公(高柳周作)が活躍する『野分』を「ホトトギス」で読んで、早速疑問点を問いただす手紙を書いたものと思われる。論点は少なくとも4つ。以下項目として順に検討してみたい。

 小説では常に越後・新潟県であったはずの、白井道也の最初の赴任地にして高柳周作の出身地が、末尾で突然「越中の高岡」になってしまったのは驚ろきである。

「先生私はあなたの、弟子です。――越中の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。・・・」(『野分』第12章末尾/初出「ホトトギス」明治40年1月)

 漱石は原稿に「越後の高岡」と書いた。これは漱石の返書によると、長岡と書くのを憚ってわざと高岡としたというのであるが、高岡は富山県の有名な都市の名でもあり、厄介なことに長岡中学も高岡中学も実在する、しかも名門校である。ホトトギスの編集者か植字工が誤りを匡したつもりで却って事態をややこしくした。漱石は長岡でも高岡でも、どちらでもいいと思ったのであろう。読者の質問に対しては単純に越中は間違いであると答えたにとどまった。
 この「越中の高岡」問題であるが、物語の始まりが越後であることは明白である。

 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。会社の役員は金のある点に於て紳士である。中学の教師は貧乏な所が下等に見える。此下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明かである。(『野分』第1章)

 新潟県の地理に詳しい者はこの地が長岡市であることが分かる。だがそれは作品にとっては、取り敢えずはどうでもいい話である。『坊っちゃん』の舞台が「松山市」であるとは小説には一言も書かれない。
 越後の中学校で生徒だった高柳君の仲間が、大人たちにそそのかされて若い道也先生を追い出してしまうのが話の発端である。高柳君の心の中にいつまでも引っかかる「いじめ事件」は、小説では早くから友人中野君にも打ち明けられる。中野君はひょんなことで白井道也との接点さえ持つ。

 小説の真ん中辺に、その中野君と婚約者が変物の友人高柳君のことを噂するくだりがある。

「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。矢っ張り御百姓なの」
「農、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。此間あなたが御出のとき行き違に出て行った男があるでしょう」(『野分』第7章)

 それがフィナーレで突然、高柳君の告白として、「越中の高岡」と書かれたら誰でもびっくりするだろう。物語の最後の幕でシャーロックホームズが(エルキュールポワロでも)自信満々に紹介した犯人の名前を、別の人物の名前と言い間違えたようなものである。読者は一瞬余所の小説の頁が紛れ込んだのかと思ってしまう。

 そのためというわけでもないだろうが、『野分』の初版はずいぶん遅れて、『三四郎』の連載が始まった明治41年9月、『坑夫』とカップリングした『草合』を俟つこととなった。3ヶ月だけ先行して掲載された『草枕』は、『野分』発表の頃(明治40年1月)には既に上梓されていた(『坊っちゃん』『二百十日』と合わせた『鶉籠』)。それどころか朝日入社後の『虞美人草』(明治40年6月~10月連載、同12月初版)にまで後れを取ったことになる。実態は単行本にするための頁数を満たす仲間の作品が見つからなかっただけのことであろうが、おかげで「越中の高岡」は新潟ゆかりの小説『野分』の末尾を1年9ヶ月の間飾ることになった。

 ところがやっと出た単行本『野分』(『草合』)の該当箇所は、漱石の原稿通りに戻されたにとどまった。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/初版本『草合』明治41年9月春陽堂版)

 とりあえず問題箇所は1年9ヶ月ぶりに漱石の原稿の状態には戻った。しかし「越中の高岡」も「越後の高岡」も問題という点では五十歩百歩である。
越中の高岡」は字面としては正しいが、『野分』という小説の中で見れば意味が通らない。無茶苦茶である。いっぽう「越後の高岡」は、表現自体がおかしい。読者はやはり何かの誤植ではないかと思ってしまう。
 たとえ創作物であっても、原稿に「備前の福山」と書けば読者は(その前に編集者は)、「備前山」か「備の福山」か、どちらかの書き間違いであると思うだろう。

 初版の本文もまた、いずれ改められなければならない。幸か不幸か『草合』はあまり売れず、正式に版が改まったのは何と漱石没後すぐに出た始めての全集においてであった。
 ところが更に驚ろくべきことに、この全集本の『野分』本文は、次のように「校正」されていた。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/大正6年12月漱石全集刊行会版漱石全集第2巻――以降20世紀の漱石全集すべて)

 つまり驚ろきの「越後の高岡」という不適切表現は、明治41年9月初版の『草合』が出て以来、(漱石の原稿をそのままなぞったものとはいえ、)文豪漱石の全キャリアを覆い尽くしていたのである。そして全集で『野分』を再読した古くからの読者は、「越後の高田」によって3度目の驚ろきを驚ろくことになる。

(この項つづく)