明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 22

108.『門』人物一覧(4)――『門』目次第18章~第23章

 

第18章 山門(1)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・御米・――・同僚
2回 宗助・――・――・釈宜道
3回 宗助・――・――・釈宜道
4回 宗助・――・――・釈宜道・老師
5回 宗助・――・――
6回 宗助・――・――・釈宜道
7回 宗助・――・――・釈宜道・居士

第19章 山門(2)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道・僧たち
2回 宗助・――・――・老師

第20章 山門(3)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道
2回 宗助・――・――・釈宜道・老師・僧たち

第21章 山門(4)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道
2回 宗助・――・――・釈宜道・老師

第22章 帰宅
     明治43年1月末
1回 宗助・御米・小六
2回 宗助・――・――・坂井・坂井の子たち
3回 宗助・――・――・坂井

第23章 大団円
     明治43年2月~3月上旬
全1回 宗助・御米・小六

 鎌倉以降、『門』は急に詰まらなくなる。章分けの根拠もよく分からない。全部で12回の参禅であるが、漱石作品の中では異例の退屈な頁群または章群であろう。
 宗助当人の感想。「疲れた」
 留守を預かる御米の感想。「風呂へ行って髭を剃れ」
 同じく小六の感想。「1日幾らかかるのか」

 もちろん当事者の反応などというものは、いつでもこんなものであろうが、これでは読者は、宗助の参禅の意味を探ろうにも、手掛かりすら掴めないではないか。
 結論は最終章(第23章)の前に坂井によって象徴的に語られる(第22章)。宗助がいくら安井の影に怯えても、(弁慶橋の蛙のような)石で頭を割られる心配はないのである。生きておりさえすればいい。御米も小六も同意見であろう。御米は表現者ではないから、ただそう信じるだけである。

「格好は何うでも、食いさえすれば可いんだ」(15ノ1回)

 うんうん唸ってのし餅を截ったときの小六の感想もまた、3人の共通した結論であった。

後篇のまとめ

 全48回のうち、

・宗助・御米・小六の回  6回
・宗助・御米の回    17回
・宗助だけの回     25回 
・合計         48回

 やはり宗助だけでは『門』は支えきれないのではないか。女が登場しないと漱石は面白味が半減する。
 ここで前篇全56回を再録する。

・宗助・御米・小六の回 19回
・宗助・御米の回    22回
・宗助・小六の回     2回
・御米・小六の回     4回
・宗助だけの回      7回
・御米だけの回      2回
小六だけの回      0回 
・合計         56回

 合算すると、『門』全104回では、

・宗助・御米・小六の回 25回
・宗助・御米の回    39回
・宗助・小六の回     2回
・御米・小六の回     4回※
・宗助だけの回     32回
・御米だけの回      2回※
小六だけの回      0回 
・合計        104回

 宗助が不在の回はこの6回※。宗助が出ている回は残りの98回である。
 対する御米が登場する回は70回である。7掛け。芯は強いが控え目なところも御米の長所であった。

(『門』人物一覧 畢)

漱石「最後の挨拶」門篇 21

107.『門』人物一覧(3)――『門』目次第13章~第17章


第13章 贖罪
     明治42年12月30日(木)
1回 宗助・――・――・坂井・細君・長女・次女
2回 宗助・――・――・坂井・細君・織屋
3回 宗助・御米・――・坂井・細君・織屋
4回 宗助御米・――
5回 宗助・御米・――
   回想(明治37年・明治39年)
6回 宗助・御米・――
   回想(明治41年)
7回 宗助・御米・――
   回想(明治41年)
8回 宗助・御米・――・易者
   回想(明治41年)

 前半が甲府の織屋の滑稽譚、後半が御米の哀しい過去。

第14章 宗助と御米の過去
     明治42年12月30日(木)
1回 宗助・御米・――
2回 宗助・――・――・安井
   回想(明治35年)
3回 宗助・――・――・安井
   回想(明治36年)
4回 宗助・――・――・父
   回想(明治36年)
5回 宗助・――・――・安井
   回想(明治36年)
6回 宗助・御米・――・安井
   回想(明治36年)
7回 宗助・御米・――・安井
   回想(明治36年)
8回 宗助・御米・――・安井
   回想(明治36年)
9回 宗助・御米・――・安井
   回想(明治36年~明治37年)
10回 宗助・御米・――・安井
    回想(明治37年)

 この章の回想シーンが宗助と御米の大風事件である。若い男女の愉しい日々が、突然地獄の業火に焼き尽される。この程度のことでなぜ、と言っても始まらない。安井と御米は籍を入れていなかったと思われるから、(代助のときには吹いたとされる)業火だの大風だのが、果たして吹くだろうか、単なる三角関係ではないか、と言っても始まらない。
 まあ実際にはよくある、ボヤ程度の話であろうが、そんな話を書いてそれがなぜ百年の命脈を保つことが出来るのか。材料ではない。書き方(だけ)でもあるまい。悩み方(困り方)の問題であろうか。落語の世界では人物(主人物)が困れば困るほど客は喜ぶのであるが。

第15章 大晦日の風景
     明治42年12月31日(金)
1回 宗助・御米・小六・清・坂井
2回 宗助・御米・小六・清

第16章 冒険者
     明治43年1月1日(土)~1月7日(金)
1回 宗助・御米・小六・坂井の下女
   明治43年1月1日(土)~1月3日(月)
2回 宗助・――・――・坂井
   明治43年1月7日(金)
3回 宗助・――・――・坂井
   明治43年1月7日(金)
4回 宗助・――・――・坂井・坂井の弟
   明治43年1月7日(金)
5回 宗助・――・――・坂井・坂井の弟・安井
   明治43年1月7日(金)

 第15章が大晦日、第16章が正月の、平和な風景である。正月1日、2日、3日、7日、漱石は几帳面に日付を記している。そして7日の日にまた宗助が坂井に呼ばれたのはいいが、その夜坂井の口から思いもよらぬ安井の名が飛び出し、宗助は真っ蒼になる。

第17章 安井の幻影
     明治43年1月7日(金)~1月9日(日)
1回 宗助・御米・――・安井
   回想(明治36年~明治37年)
2回 宗助・御米・――
   明治43年1月7日(金)
3回 宗助・御米・――
   明治43年1月8日(土)
4回 宗助・御米・小六
   明治43年1月9日(日)
5回 宗助・――・――
   明治43年1月9日(日)
6回 宗助・御米・――
   明治43年1月9日(日)

 ①1月7日の夜、坂井の家から帰宅した宗助は、恐怖心からいっそのこと御米に、坂井から聞いた冒険者のことをすべて打ち明けようかとも思う。苦しみを分かち合うためである。硬くなって夜具を被った宗助は御米を呼ぶ。しかし、

「熱い湯を一杯貰おう」
 宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いて誤魔化した。(17ノ2回末尾)

 漱石は嘘の吐けない人であるが、漱石の主人公がここまで露骨に嘘吐き呼ばわりされることは稀有のことである。その中身は、世間的にはまあ嘘の範疇には入るまい。気が弱くて安井のことを言い出せず、つい湯を所望しただけである。しかし嘘の吐けない漱石にとって、欲しくもない飲み物を要求することは、あってはならぬことであった。
 ②翌日、役所を休んだらという御米を振り切って電車に乗るが、役所でも仕事が手に着かない。漸く時間が来て家へ帰った宗助は、御米を誘って寄席(娘義太夫)に行く。高座は人でいっぱいだった。

 翌日になっても宗助の心に落付が来なかった事は、略(ほぼ)前の日と同じであった。役所が退けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、何うしても、わざわざ其人と接近するために、こんな速力で、家へ帰って行くのが不合理に思われた。……
 坂井が④一昨日の晩、自分の弟を評して、一口に「冒険者(アドヴェンチュアラー)と云った、その音が今宗助の耳に高く響き渡った。(17ノ4回)

 ①1月7日(金)、②1月8日(土)と来れば、③は1月9日(日)である。④で念を押しているように、1月9日の一昨日は1月7日である。このくだりで漱石の叙述に飛躍や省略等があるわけではない。つまり宗助はまさしく日曜日に役所へ出たことになる。
 それが災いしたのか、宗助は帰り道に神田で降りて牛肉店で酒を(3本も)飲んでいる。盃二三杯がやっとの宗助(漱石)にしては、気が狂ったような飲みぶりである。まさか曜日を間違えて自棄を起こしたわけでもあるまい。

 作中のカレンダーについて、詳しく書けば書くほど齟齬が生じるのが漱石である、と前にも書いたが、漱石全集『三四郎』『それから』『門』で、そのいくつかある「日にちや曜日の書き誤り」を指摘したものはこれまでなかった(と思う)。ところが不思議なことに、没後百年を経た「定本漱石全集」に始めて、上記『門』の、明治43年1月9日(日)の箇所の矛盾が湧出したようである。定本漱石全集の『門』の注解に、この日曜出勤の指摘が(さらりとだが)ある。

 漱石は何と言うであろうか。『門』はフィクションであるから、物語の今現在が明治何年でも苦しくない。1月某日が何曜日でも構わない。己は日曜日のときには日曜日と書く。
 おっしゃる通りではある。読者もまた、漱石先生明治43年1月9日は日曜日でしたと言うだけである。そして論者はおせっかいにも、宗助がはっきりと(17ノ2回で)嘘を吐いたのであるから、漱石も負けずにそれに合わせて(17ノ4回で)嘘を吐き返したのであろう、と推測するだけである。

漱石「最後の挨拶」門篇 20

106.『門』人物一覧(2)――『門』目次第7章~第12章


第7章 手文庫事件
    明治42年11月25日(木)~11月26日(金)
1回 宗助御米・――
   明治42年11月25日(木)
2回 宗助・御米・――
   明治42年11月25日(木)
3回 宗助・御米・――
   明治42年11月26日(金)
4回 宗助・御米・――・清
   明治42年11月26日(金)
5回 宗助・御米・――・清・坂井の下女
   明治42年11月26日(金)
6回 宗助・御米・――・坂井
   明治42年11月26日(金)

 第7章はいわゆる泥棒事件の章である。第2回、夫婦の就寝は10時半。第3回、異音に気付いて御米が起き出した。夫婦が再び床に就いたのが2時と書かれる。思うに坂井家の泥棒は深夜1時頃の出来事であろう。その第2回第3回、宗助は登場するものの心ここに非ず。まさか寝惚けているわけではないだろうが、魂が抜け出して隣家に忍び込んだと言いたげである。夫婦が何時に寝ようが大きなお世話だが、漱石がこの日に限り(ジャストタイムに)わざわざそれを書いているということは、宗助御米の夫婦にとって坂井家の泥棒が決して他人事でなかったことの証左になりはしないか。

 しつこいようだが論者は、漱石がわざと宗助に疑いがかからぬでもない書き方をしていると信じる。当日の朝、尻の重い宗助が自発的に、なぜか尋ねたこともない坂井の玄関へ向かう。

「是は此方のでしょう。今朝私の家の裏に落ちていましたから持って来ました」と云いながら、文庫を出した。
 下女は左様で御座いましたか、どうも、と簡単に礼を述べて、文庫を持った儘、板の間の仕切迄行って、仲働らしい女を呼び出した。其所で小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、一寸宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。入れ違に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、其妹らしい揃のリボンを懸けた子が一所に馳けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔を眺めながら、泥棒よと耳語(ささやき)やった。(7ノ5回)

 仲働きは下女より年長で格上である。仲働きは宗助を胡散臭く見ていると取れなくもない。そして坂井の女の子の無邪気な「泥棒よ」というのは、もちろん宗助を指して言ったのではないが、そう読めなくもないセリフである。漱石は意図的にこんな書き方をしたのだろうか。

第8章 障子貼替
    明治42年12月6日(月)
1回 ――・御米小六
2回 ――・御米小六
3回 ――・御米小六

 しばらく欠場していた小六が突然同居人として復帰する。先の項(カレンダーの謎)A案によると、小六の同居は12月1日(水)である。11月分の寄宿費は既に払っていたので、小六は11月30日(火)まで宿舎に暮らした後、翌朝引っ越して来たのだろう。11月30日の夕食までは食う権利がある。12月1日の朝食は(当然)食わずに発った(か、誰かの恩情で食べたか)。12月分の(数時間)はみ出した寮費については、まあ知らん顔する。漱石らしい律儀さ、あるいは身勝手さである。
 宗助たちのたび重なる引越さえ、具体的には何も描かなかったのであるから、小六の移動を省略したのは当然であるという意見もあろうが、小六の同居は御米(や宗助)の大きなストレスになると、小説では繰り返し述べられている。気が付いたら一緒に暮らしていたというのでは、御米たちは浮かばれまい。
 前述したが、漱石は引越や障子の貼替のときはたいてい蒙塵している。ずるいのである。泥棒事件の次の章、宗助はほとぼりをさますためでもなかろうが、全休である。身体まるごと、漱石による浄化(ロンダリング)が行われたと解釈出来なくもない。

第9章 坂井という男
    明治42年11月26日(金)~12月5日(日)
1回 宗助・御米・――・坂井
   明治42年11月26日(金)~12月2日(木)
2回 宗助・――・――・坂井・道具屋
   明治42年12月3日(金)
3回 宗助・御米・小六
   明治42年12月3日(金)
4回 宗助・御米・――・坂井の下女・坂井の子たち
   明治42年12月5日(日)
5回 宗助・――・――・坂井・坂井の子たち
   明治42年12月5日(日)
6回 宗助・――・――・坂井
   明治42年12月5日(日)

 第9章は後日談の章である。屏風事件(第6章)と手文庫事件(第7章)の余波が描かれる。この2つの事件のおかげで宗助と坂井は親しくなる。それが後半の布石となるわけだが、その前に障子の貼替(第8章)を片付けてしまったのは、漱石も芸が細かいと言わざるを得ない。
 ちなみに第9章のカンレンダーは、第103項『門』カレンダーの謎(1)
漱石「最後の挨拶」門篇 17 - 明石吟平の漱石ブログ
のA案に拠っている。
・A案 明治42年11月26日(金)~12月5日(日)
・B案 明治42年12月1日(水)~12月12日(日)

第10章 小六の話
     明治42年12月上旬~中旬
1回 宗助・御米・小六
2回 宗助・御米・小六
3回 宗助・御米・小六

 この章では宗助の影が薄い。そのせいか暦の特定もしにくいが、小六が(わずかな期間とはいえ)好き放題をしている様子が伺えるのは、小六のためにも喜ばしいことである。

第11章 御米の病気
     明治42年12月21日(火)または22日(水)
1回 宗助御米・小六
2回 宗助御米・小六・清
3回 宗助御米・小六
4回 宗助・御米・小六・清・往診の医者

第12章 御米の覚醒
     明治42年12月22日(水)または23日(木)
1回 宗助・御米・小六
2回 宗助・御米・小六・清・往診の医者

 御米の病気が2章に渡っているのは、初日と2日目という意味であろう。「20日過ぎ」という以外に暦の記述はないが、その記述に合致していて、2日とも平日である(宗助が勤めに出ている)のは上記の2通りしかない。適当に書かれているように見えて、実態は暦を特定しているにほぼ等しい。ぼかしているように見えて、実はそうでない。常の通りの漱石の手法である。

前篇のまとめ

 全56回のうち、
・宗助・御米・小六の回 19回
・宗助・御米の回    22回
・宗助・小六の回     2回
・御米・小六の回     4回※
・宗助だけの回      7回
・御米だけの回      2回※
小六だけの回      0回 
・合計         56回

 宗助が不在の回はこの6回※。宗助が出ている回は残りの50回である。

漱石「最後の挨拶」門篇 19

105.『門』人物一覧(1)――『門』目次第1章~第6章


 さて最後は例によって目次の作成である。『門』全104回は23の章に分かたれている。前2作に比べ章分けがやや細かくなっているのはどういう理由によるものか。
 それもあって今回はまず最初に、登場人物のみ掲げてみる。『門』では叙述の主体は基本的には宗助であるが、御米、小六と遷ることもあり、そもそも宗助がまったく登場しない章もある。それが物語の進行にどんな影響を与えているのか、漱石は何のために主格を変更しているのか、もちろんそれが自然であると漱石は主張するに決まっているが、そのまま受け取っていては何事も解明されない。
 それで主格になりうる宗助・御米・小六については、連載回ごとに登場の有無を必ず明記することとし、主格の人物は太字で示すことにする。複数になるかも知れないし、該当がないかも知れない。またカレンダーを付記しておく。先の論考を引いて、回想の京大入学は明治35年、手文庫事件は仮に11月26日としておく。

第1章 宗助手紙を書く
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助御米・――
2回 宗助・御米・――
3回 ――・御米小六

 第1章は『門』(の叙述法)を象徴する章である。叙述は夫婦から宗助、御米に移り、そして最後は御米に小六が加わる。
 平和な日常を写すだけの、平穏な記述のはずであるが、漱石は早くも主役の3人を、それぞれに寄り添いつつ描き分けるという、手の込んだ登場をさせている。

 漱石は『三四郎』『それから』と書いてきて、体調のこともあり、明らかに新聞連載の1回分を想定して、その枠組みの下に『門』を書き進めている。この回は宗助のいない回である、とも漱石は分かって書いているのだろう。
 本になった(初版本の)『門』を、おそらく漱石は詳しくは読んでいまいが、ざっと目を通しても、章分けだけでは不足であると感じたのであろう。
 そのため『彼岸過迄』からの3部作では、「短編形式」にして主格の混在の問題を回避し(少なくとも漱石本人のつもりでは)、同時に新聞の掲載回をはっきり活かすことにした。
 そして『道草』『明暗』では掲載回の表示のみという最後のルールに(やっと)到達した。『明暗』での主役の交代はまた別の問題であるが、漱石としては『門』を(章分けせずに)のべつに書いたという意識で、『明暗』を書いたのだろう。『門』で宗助と御米を描いた、その同じ描き方で、津田とお延を描いたつもりだったのだろう。

第2章 宗助散歩をする
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助・――・――
2回 宗助・――・――・風船ダルマの男
3回 宗助・御米・小六・清

 第2章で改めてこの小説が宗助の物語であることが分かる。漱石は宗助の主観に基づいて叙述の筆を進めている。

第3章 ごちそう
    明治42年10月31日(日)
1回 宗助御米小六
2回 宗助御米小六
3回 宗助御米小六・清

 ところが第3章では漱石の筆はふたたび御米や小六に降りて来る。3人はほぼ公平に描き分けられる。厳密に言うと中心はやはり宗助であるが、外観は区別しづらい。

第4章 宗助の過去
    明治42年11月2日(火)~11月4日(木)
1回 宗助・御米・――
   明治42年11月2日(火)
2回 宗助・御米・小六
   明治42年11月4日(木)
3回 宗助・――・小六・父・佐伯
   回想(明治35年~37年)
4回 宗助・御米・――・佐伯
   回想(明治38年~39年)
5回 宗助・御米・――・杉原
   回想(明治39年~40年)
6回 宗助・御米・小六・佐伯・叔母
   回想(明治40年)
7回 宗助・御米・――・佐伯・叔母
   回想(明治40年~42年)
8回 宗助・――・小六・叔母
   明治42年8月・9月
9回 宗助・御米・――・叔母
   明治42年9月
10回 宗助・――・――・叔母・安之助
    明治42年9月
11回 宗助・御米・――・叔母
    明治42年9月
12回 宗助・御米・小六
    明治42年9月
13回 宗助・御米・小六・安之助
    明治42年9月
14回 宗助御米・小六
    明治42年10月~11月2日

 第4章は(第14章と並んで)昔話が挿入されるので最長となったが、前半が前フリから宗助の過去。後半が物語の発端たる小六の学資打切り事件の前後の経緯である。物語のカレンダーは末尾で章の先頭に戻って来る。この長い章を分割しなかった所以である。ではなぜ、秋のとある日曜日の平凡な風景に過ぎない、冒頭の3章が統合されていないのか。漱石が書きながら(その先の展開を)考えるタイプなのは疑いないが、読者として合理的な解釈はしづらい。漱石は悩みながら書き始めたのか。ただ体調がすぐれなかったのか。
 まあふつうに考えれば、舞台の場景が変わったので章分けをしたのだろうと想像されるが、この原則は小説では記憶されることはなかった。

第5章 歯医者
    明治42年11月6日(土)
1回 ――・御米・――・叔母
2回 宗助・御米・――・歯医者
3回 宗助・――・――・歯医者
4回 宗助・御米・――

 第5章は土曜日の出来事である。末尾で御米は「勉強?もう御休みなさらなくって」と誘う。宗助は「うん、もう寝よう」と素直に肯う。『門』では宗助は御米の言うことには逆らわないが、漱石作品では稀有の例であるとは先に述べたところ。

第6章 屏風事件
    明治42年11月後半の1週間
1回 宗助・御米・――
2回 宗助・御米・――
3回 宗助御米・――
4回 ――・御米・――・道具屋
5回 宗助・御米・――・道具屋

 第6章の頭で何も知らない宗助は「御米、御前子供が出来たんじゃないか」とはしゃぐ。これは前章末尾の夫婦の会話を直接受けたものではないにせよ、御米の涙につながる哀しい誤解であった。そのためかどうか分からないが、この章の(1週間以上に亘る)カレンダーの書きぶりには少しヘンなところがある。

①「翌日宗助が眼を覚ますと」外は雨である。宗助は穴の開いた靴で出勤する。
②「午過に帰って来て見ると」御米が6畳の雨漏りの手当をしている。
③「明る日も亦同じ様に雨が降った。夫婦も亦同じ様に同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって……
④「幸に其日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和になった。宗助が帰った時、御米は例(いつも)より冴えざえしい顔色をして」抱一の屏風を売る提案をする。(以上6ノ3回)

 ②で読者はその日が土曜であると当然思う。しかし③の記述を信じると、日曜日はどこかへ行ってしまっているようである。失踪癖は宗助や小六だけでなかった。この「失われた休日」は後篇でも(まるで強迫観念のように)登場する。

漱石「最後の挨拶」門篇 18

104.『門』カレンダーの謎(2)――小六の家を出た日はいつか


 それから約三十分程したら御米の眼がひとりでに覚めた。(12ノ2回末尾)

 不思議な文章ではある。語り手漱石による叙述にせよ、宗助の視点から見た叙述にせよ、本来なら「御米の目が開いた」というような言い方になるところだろう。しかしこのときの御米は、漱石なり宗助の観察にかかる御米ではない。漱石の筆はこのときにはすでに、御米に降臨している。御米は確かに(「目が開いた」のではなく)「目が覚めた」のである。
 話が分かりにくいと思われるので、もう一度該当箇所を引用してみよう。

 医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、先刻掛けて置いた鉄瓶がちんちん沸っていた。清を呼んで、膳を出せと命ずると、清は困った顔付をして、まだ何の用意も出来ていないと答えた。成程晩食には少し間があった。宗助は楽々と火鉢の傍に胡坐を掻いて、大根の香の物を噛みながら湯漬を四杯ほどつづけ様に掻き込んだ。それから約三十分程したら御米の眼がひとりでに覚めた。(12ノ2回末尾)

 本当に分かりにくい話で恐縮だが、引用文を宗助の「日記(手記)」と仮定すれば、最後の一文(太字で示した)だけ、「御米の日記(手記)」になっている。
 そもそも誰かの眼が「ひとりでに覚めた」かどうかは、傍からは決して分かりようのない事象である。言ってみればそれは御米しか知らない「秘密の暴露」であろう。
 もちろんそれを叙述している作者漱石にとって、小説の作者を(その小説世界での)全能の神と見れば、御米の秘密は秘密でも何でもない。
 しかし『門』を書いている漱石は決してそのような神として小説世界に君臨しているのではない。宗助と一体化して、宗助と行動を共にしているのであるから、基本的には御米の心は宗助が推測する程度にしか推測されないのである。

 漱石がこのような書き方をした理由は、それこそ推測するしかないのであるが、思うに漱石は一種の巧まざるユーモアとして、例の小さん風の「オチ」として、こんな結び方をしたのではないか。同じ回にその(落語的な)前フリが書かれる。

①医者のセリフ「少し薬が利き過ぎましたね」
②同じ医者の、用さえなければ別に起す必要もあるまい、という言い方。

 問題の最後の一文は、この3番目の「オチ」として語られたのではないか。漱石はオチのために、その直前に宗助から御米に乗り移った。

 それはともかく、御米の目覚めは、象徴的な意味での「覚醒」を示唆したかったのではなくて、彼女が丸一日寝ていた(物語の舞台を欠場していた)という、それまでの宗助・小六の「失踪」に、単にバツを合わせただけであろう。
 それは後半のハイライトたる宗助の参禅という「長期欠席」の、露払いとなるべきエピソードであった。漱石がこんな奇妙なバランスの取り方をするのは(辻褄の合わせ方をするのは)、明らかに体調不良の所為としか思えないが、そのこととは別に『門』後篇における漱石は、喜劇と悲劇を交互に描くという進行方法で、一進一退を続ける胃の痛みと闘っているように見える。

・第13章 甲斐の織屋(喜劇)⇒ 御米の流産(悲劇)
・第14章 宗助・御米・安井の蜜月(喜劇)⇒ 宗助・御米の大風事件(悲劇)
・第15章 大晦日の風景(喜劇)
・第16章 正月の風景(喜劇)坂井との交際(喜劇)⇒ 冒険者(悲劇)
・第17章 安井の幻影(悲劇)宗助の苦悩(悲劇)⇒ 宗助の嘘(喜劇)娘義太夫(喜劇)牛肉店(喜劇)
・第18章~第21章 参禅
・第22章 帰宅(喜劇)坂井の洞窟(喜劇)⇒ 弁慶橋の蛙(悲劇)
・第23章 大団円

 最終章(漱石作品唯一の大団円)では珍しく好いこと尽くめで、それはそれで目出度いのであるが、この喜劇と悲劇の遷移は、小説の結びの一句にも使われた。
 ようやくのこと春になって本当によかった、と言う御米に対して、宗助は、しかしまたじきに冬が来ると答える。当然乍ら御米は時候のことだけを言っているのではない。にもかかわらず宗助は、御米の言葉を額面通りにしか受け取らない。そしてここで始めて、小説の最後の最後になって、細君の意見に異を唱える。漱石もつい手綱を緩めたのだろうか。

 異例の大団円は時間の経過も特別であった。この最終回だけで月が2回も変わっている。カレンダーの1月は、2月から3月の声を聞くまで遷り行き、ウグイスの鳴き声もまた春らしくなってくる。
 10月31日の小説のスタートから、11月、12月、1月、2月。実質約4ヶ月間という物語の期間は『三四郎』『それから』を忠実になぞっており、新聞連載期間とも一致する。
 話は飛ぶが漱石の執筆の呼吸を感じるという観点からも、論者はこの3部作について、とくに連載回の表記を復活させるべきであると、重ねて主張したい。

 ところでカレンダーの謎については、後篇ではやはり先に述べたように、小六の書生に出た時期がどうしても腑に落ちない。宗助は御米を気遣って生活していると、『門』ではさんざん書かれる。では御米と小六の気詰まりな10日間は、宗助にとってさらなるストレスの素にならないか。なぜ宗助は小六を坂井へ出したあとに鎌倉へ行かなかったのか。宗助は鎌倉で独り何を悩んでいたのか。

 漱石の解答は明白である。坂井の書生になった小六は、いつの日か必ず安井に会うだろう。無心の小六は宗助を呼びに来るだろうか。あるいはすべてが明るみに出ることによって、却って静謐が保たれるであろうか。いずれにせよ安井の影に怯える宗助に、安息の日の訪れることはない。漱石はその手前で筆を置いたのである。
 それは漱石の決めることであるが、『門』は整合性を犠牲にしても一時的な平安を択ったということだろう。それとも宗助は暖かくなったら引っ越すつもりでいたのだろうか。

漱石「最後の挨拶」門篇 17

103.『門』カレンダーの謎(1)――小六の引越はいつか


 さて「手文庫事件」(泥棒事件の言い換え――文面の浄化のため)のあと、『門』はようやく小説らしくなってくる。小六の同居(障子貼りの情景)、坂井との交際(屏風事件の顛末)。そしてこれらの出来事はすべて、前半のハイライトたる年末の御米の病気へのプロムナードとなっている。
 暦は概ね11月末から12月前半にかけてのことであるが、『門』の暦は前2作に較べて、やや行きつ戻りつしているようである。
 その中でとくに、小六が寄宿を引き払って宗助の家に来た日の、具体的記述が一切ないことが気にかかる。(前述したが、小六が坂井へ書生に出た日の叙述もまた、小説では省略されている。)
 もちろんそれは小説の構成上の話・文章(描写)の話であるから、どのように扱われようが一向差し支えないわけであるが、漱石の筆致がなぜかその前後、異様に細かくなっている分、余計気になる。日数や曜日の記述が細かくなって、却って辻褄の合わない箇所が出現したことは、すでに『三四郎』(天長節と菊人形の日曜)で経験済みである。

 宗助が文庫を届けて出勤した日の午後、刑事と坂井がやって来て、御米は坂井の顔に髭があることに気付く。2日ばかりして下女が菓子折を持って来る。宗助は晩にそれを食う。それからまた2日おいて、3日目の暮れ方、坂井が突然来訪して2時間喋って帰る。金時計は返ってきたと言う。実被害は無かったわけである。(9ノ1回)

 次の日役所帰りの宗助は道具屋の前で坂井と遭う。その日は寒く(体調の悪い)御米はこの冬始めて座敷に炬燵をこしらえていた。座敷の真ん中にと訝る宗助に、御米は6畳は小六がいて塞がっているからと言う。宗助は家に小六がいることに始めて気が付いた。(9ノ2回~9ノ3回)

 上記の、「文庫を届けて出勤した日」と、「役所帰りに坂井と遭った日」は、同じ曜日である。ちょうど1週間経っている。その中のどこかに日曜日が挟まっているが、それは推測するしかない。

 その前の第8章で、「小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子の張替を手伝わなければならない事となった。」(8ノ1回)

座敷の張易が済んだときにはもう三時過になった。そう斯うしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度も始めなくってはならない」(8ノ3回)

 そして小六は障子の貼替が済んだ後、文庫を届けた礼に坂井から貰った菓子を、御米から出してもらって食べている。(8ノ3回)

 障子を貼り替えた日はウィークデイである。当時の勤め人は4時終業であるから4時半には宗助は帰って来る。そして小六が引っ越して来た日も日曜ではあるまい。宗助は小六が来たことをつい忘れていたというからには、その日宗助は出勤中であったに違いない。

 するとこれら一連の暦はどのようになるのであろうか。試しに曜日をセットして、それを明治42年のカレンダーに当て嵌めてみると、

A案
①11月26日(金)
 手文庫事件の朝(出社日)
②11月27日(土)
③11月28日(日)
④11月29日(月)
 坂井から菓子折 晩に食う
⑤11月30日(火)
⑥12月1日(水)
 (小六引越)
⑦12月2日(木)
 暮れ方坂井が来訪
⑧12月3日(金)
 勤め帰り道具屋で坂井に遭遇(出社日)
 次の土日に坂井へ行って屏風を見ようか
 帰宅したら座敷に始めて炬燵が拵えてあった
 小六が引っ越して来ていたのを失念していた
⑨12月4日(土)
⑩12月5日(日)坂井を訪問して屏風を見る
⑪12月6日(月)
 (障子貼替/小六が坂井の饅頭を食う)

B案
①12月1日(水)
 手文庫事件の朝(出社日)
②12月2日(木)
③12月3日(金)
④12月4日(土)
 坂井から菓子折 晩に食う
⑤12月5日(日)
⑥12月6日(月)
 (小六引越)
⑦12月7日(火)
 暮れ方坂井が来訪
⑧12月8日(水)
 勤め帰り道具屋で坂井に遭遇(出社日)
 次の土日に坂井へ行って屏風を見ようか
 帰宅したら座敷に始めて炬燵が拵えてあった
 小六が引っ越して来ていたのを失念していた
⑨12月9日(木)
⑩12月10日(金)
 (障子貼替/小六が坂井の饅頭を食う)
⑪12月11日(土)
⑫12月12日(日)
 坂井を訪問して屏風を見る

 A案が無難であろう。すべての行事がウィークデイに収まり、小六の寄宿舎引揚も月替わりですっきりする。宗助が小六どころでないのも、週の後半で神経が消耗していると見れば、理屈はつく。
 B案も可能である。スタートを11月でなく12月とするのも、第7章冒頭で「また冬が来た」と書かれるのに合致しているし、「そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たら可いだろうと云う様な事を(御米と)話し合った。」(9ノ3回末尾)と「次の日曜になると、宗助は・・・」(9ノ4回冒頭)という記述の、「(坂井を訪問する)次の日曜」が、A案では僅か中1日であるのに対し、B案では中3日と充分な間隔であることも、強味であると言えば言われよう。ただし「次の日曜」の一句にそこまでの責任を求めるのは、行き過ぎかも知れない。そして漱石は寒がりで、例年11月の終わりにはストーブだの炬燵だのの出番にはなる。この案では到来物の唐饅頭を1日早く食えることが最大の利点か。小六でなくても、7日前の饅頭より6日前の饅頭の方がいいに決まっている。

 それはともかく、これらのカレンダーで分かるように、小六が引っ越して来たあと、坂井が訪れて2時間滞在したり、(たった2日間といえど)小六が宗助たちと夕食を共にしなかった(と思わざるを得ない)ことの方が理解しにくい。宗助が度忘れしていたと書かれる以上、それはそう判断するしかないのであるが、これは前項で述べたように、

・小六の同居を察知して、坂井が様子を見に来た。
・宗助はとりあえず小六を(坂井の眼に触れないよう)隠した。

 と見れば、小六の不自然な行動は説明が付く。
 引越から障子張替までの小六の「失踪」は、坂井の手文庫事件と何か関係があるのではないか。パラレルな別の次元(異世界)では、また別の行動が用意されていたのではないか。
 こんな突飛な想像をしてしまうのも、そうでもしないと小六が同居した直後に坂井が暮れ方にやって来て、用もないのに2時間も長居したときに宗助も御米も(漱石も)、小六の在不在をまったく気にするそぶりを見せないことの、説明が付かないからである。漱石は小六の尻が落ち着かないことを繰り返し述べるが、そのことと宗助たちの無関心は、話が別であろう。

 いずれにせよ、第5章(宗助の虫歯)、第6章(抱一の屏風)、第7章(手文庫事件)、第8章(障子貼替)、第9章(坂井の来訪)、第10章(小六の報告)がすべて第11章(御米の病気)に向かって突き進み、また収斂して、短いエピローグのような第12章末尾の「それから約三十分程したら御米の眼がひとりでに覚めた」というオチで、『門』の前篇は閉じられるのである。

漱石「最後の挨拶」門篇 16

102.『門』泥棒事件の謎(2)――ホームズ登場


 ところでホームズならこの事件をどのように見るだろうか。
 限りなく怪しいのは、「第一発見者」宗助である。もちろん『門』の読者であれば宗助が犯人たりえないことは考えなくても分かる。しかし坂井の立場からするとどうだろうか(とホームズは考える)。(①~⑨の項番は前項の9項目を踏襲している。)

⑧犬がいなくなったのを知っているのは近所に住む者である。
⑤赤ん坊の泣き声に驚くのは子供のいない家に住む者である。
⑥古い金時計だけ盗って逃げたのは気の小さい証左である。しかし時計は好きなのであろう。衣類に一切手を付けなかったのであるから本職の泥棒ではない。
①玄関のベルは壊れていなかった。自分が昨夜泥棒に入った家の玄関のベルを、つい押すことが出来なかっただけかも知れない。胆力のない男であろう。
②犯人だからこそ犯行現場に戻りたかった。
④勝手口をこじ開けて侵入したので、その痕跡が残っていないか確認したかった。細かい所が気になる人物ではある。
⑦実は犯人はもう一つ何か盗んでいた。それが露見していないか、それとなく訊いてみた。
③主人が直接応対に出て来たのも、情報収集の一環であった。
⑨(書きたくないが)泥棒の御馳走を警察任せにせず自分で処理出来たのは、それが自分のものであったからではないか。

 9つの疑問すべてが、ある1点を指し示している。後日坂井が宗助の家を訪問したのも頷けよう。坂井は探りを入れに来たのである。あるいはそれをほのめかしに来たのである。ほんらい坂井はいくら尻が軽いといっても、店子の家などに2時間も上がり込むような男ではない。宗助と親しくなった後も、坂井は決して宗助宅を訪れようとはしていない。
 金時計を匿名で送り返して来たというのも、ふつうはまず考えられない話であろう。所番地を知っているということは、行きずりの犯行ではないということだ。そして犯人はいわゆる泥棒ではない。ごく目立たない、一般の市民である。

 そして、と探偵は言う。犯罪には必ず動機がある。事件が起きる前には必ずその兆候が現れる。そして万有の事象には必ずその結果が附着する。

 ここで泥棒事件(第7章)に至る前後の道程を簡単に振り返ってみよう。昔話はともかく、第4章までに起こったことは、小六の学資打切り事件(だけ)である。続いて、

・第5章 虫歯事件
・第6章 屏風事件(ここで宗助は靴に穴が開いて遣り切れないこと、外套も欲しいことが語られる)
・第7章 泥棒事件
・第8章 小六の同居
・第9章 坂井の来訪

 宗助に金が必要なことは子供でも分かる。

イ.小六の学資
ロ.総入れ歯の費用
ハ.靴と外套

 宗助と被害者坂井の関係はどうか。
 坂井は家作を持って遊んで暮らす男である。したがって必然的にケチである。御米の見立てによると髭のない男である。ということは実用一点張りで、実業家でなければ元実業家である。俳味の乏しい人である。何よりもまず大家と店子であるからには、宗助の金を搾取する側の人物である。泥棒事件の第7章だけでこれだけのことが分かる。

ニ.不労所得者(小金持ち)
ホ.ブランコを他人に使わせない
ヘ.髭のない地主大家

 泥棒事件の次の章(第8章)で、宗助の家に引っ越して来た小六は、なぜか「坂井は大学出か」と御米に尋ねる。宗助の増俸についても聞くが御米は答えられない。思うに小六は坂井と宗助の社会的不公平さについて気になっているのだろう。
 事件後宗助は靴も外套も新調しているようだ。この金の出所はどこか。小六の食費は誰のポケットから出るのか。
 それは屏風の売却代金であると主張しても、倫敦の名探偵は抱一の穢い屏風の価値など(御米同様)理解しまい。

 これはもちろん論者の与太話であるが、こんな話にもオチがある。被疑者にはアリバイがあるから、協力者がいるということになる。実行犯は別なところに住む弟であろう。嫂はそれと知って(災厄が拡散せぬよう)弟を引き取る提案をする。剣呑だから自らの監視下に置きたかったのだろう。家主も太っ腹である。実行犯かその家族かも知れない人物を書生に置いて、社会教育を施すことにした。

 論者は100%ふざけているわけでもない。こんなふうにでも考えないと、『猫』の有名な泥棒事件で、泥棒の顔が寒月に瓜二つであると書かれた理由の、説明が付かないからである。漱石はただ洒落のめしてあのくだりを書いたのではなかろう。論者が寺田寅彦なら、絶交しているところである。話を『門』に限定しても、坂井の無いと思っていた髭が、実はあったという経緯の説明が付かない。泥棒事件を境に坂井の人物が変わった理由の説明が付かない。
 漱石はなぜこんな書き方をしたのか。屏風の売買代金の「差額」を精算しようとしたわけでもあるまい。吝嗇(風雅でもいい)と思われていた高等遊民が、実際に交際してみるとそうでもなかった、などというのは、よくある話というより凡俗の詰らない、書く必要もない事柄である。しかし、だからといって髭の有無に収斂させる話でもなかろう。

 漱石は常に心の奥底に、何かそのようなものを、ひそませているのではないか。であれば漱石が(さして必要もないのに)あれほど探偵を毛嫌いするのも、なんとなく分かるような気がする。これは論者の正直な(真面目な)感想である。

 ところでホームズ先生の推理では、⑨の御馳走の決着はどう付けられたのであろうか。自分の専門外として、(専門家の)ワトソン博士に任せたであろうか。