明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 16

102.『門』泥棒事件の謎(2)――ホームズ登場


 ところでホームズならこの事件をどのように見るだろうか。
 限りなく怪しいのは、「第一発見者」宗助である。もちろん『門』の読者であれば宗助が犯人たりえないことは考えなくても分かる。しかし坂井の立場からするとどうだろうか(とホームズは考える)。(①~⑨の項番は前項の9項目を踏襲している。)

⑧犬がいなくなったのを知っているのは近所に住む者である。
⑤赤ん坊の泣き声に驚くのは子供のいない家に住む者である。
⑥古い金時計だけ盗って逃げたのは気の小さい証左である。しかし時計は好きなのであろう。衣類に一切手を付けなかったのであるから本職の泥棒ではない。
①玄関のベルは壊れていなかった。自分が昨夜泥棒に入った家の玄関のベルを、つい押すことが出来なかっただけかも知れない。胆力のない男であろう。
②犯人だからこそ犯行現場に戻りたかった。
④勝手口をこじ開けて侵入したので、その痕跡が残っていないか確認したかった。細かい所が気になる人物ではある。
⑦実は犯人はもう一つ何か盗んでいた。それが露見していないか、それとなく訊いてみた。
③主人が直接応対に出て来たのも、情報収集の一環であった。
⑨(書きたくないが)泥棒の御馳走を警察任せにせず自分で処理出来たのは、それが自分のものであったからではないか。

 9つの疑問すべてが、ある1点を指し示している。後日坂井が宗助の家を訪問したのも頷けよう。坂井は探りを入れに来たのである。あるいはそれをほのめかしに来たのである。ほんらい坂井はいくら尻が軽いといっても、店子の家などに2時間も上がり込むような男ではない。宗助と親しくなった後も、坂井は決して宗助宅を訪れようとはしていない。
 金時計を匿名で送り返して来たというのも、ふつうはまず考えられない話であろう。所番地を知っているということは、行きずりの犯行ではないということだ。そして犯人はいわゆる泥棒ではない。ごく目立たない、一般の市民である。

 そして、と探偵は言う。犯罪には必ず動機がある。事件が起きる前には必ずその兆候が現れる。そして万有の事象には必ずその結果が附着する。

 ここで泥棒事件(第7章)に至る前後の道程を簡単に振り返ってみよう。昔話はともかく、第4章までに起こったことは、小六の学資打切り事件(だけ)である。続いて、

・第5章 虫歯事件
・第6章 屏風事件(ここで宗助は靴に穴が開いて遣り切れないこと、外套も欲しいことが語られる)
・第7章 泥棒事件
・第8章 小六の同居
・第9章 坂井の来訪

 宗助に金が必要なことは子供でも分かる。

イ.小六の学資
ロ.総入れ歯の費用
ハ.靴と外套

 宗助と被害者坂井の関係はどうか。
 坂井は家作を持って遊んで暮らす男である。したがって必然的にケチである。御米の見立てによると髭のない男である。ということは実用一点張りで、実業家でなければ元実業家である。俳味の乏しい人である。何よりもまず大家と店子であるからには、宗助の金を搾取する側の人物である。泥棒事件の第7章だけでこれだけのことが分かる。

ニ.不労所得者(小金持ち)
ホ.ブランコを他人に使わせない
ヘ.髭のない地主大家

 泥棒事件の次の章(第8章)で、宗助の家に引っ越して来た小六は、なぜか「坂井は大学出か」と御米に尋ねる。宗助の増俸についても聞くが御米は答えられない。思うに小六は坂井と宗助の社会的不公平さについて気になっているのだろう。
 事件後宗助は靴も外套も新調しているようだ。この金の出所はどこか。小六の食費は誰のポケットから出るのか。
 それは屏風の売却代金であると主張しても、倫敦の名探偵は抱一の穢い屏風の価値など(御米同様)理解しまい。

 これはもちろん論者の与太話であるが、こんな話にもオチがある。被疑者にはアリバイがあるから、協力者がいるということになる。実行犯は別なところに住む弟であろう。嫂はそれと知って(災厄が拡散せぬよう)弟を引き取る提案をする。剣呑だから自らの監視下に置きたかったのだろう。家主も太っ腹である。実行犯かその家族かも知れない人物を書生に置いて、社会教育を施すことにした。

 論者は100%ふざけているわけでもない。こんなふうにでも考えないと、『猫』の有名な泥棒事件で、泥棒の顔が寒月に瓜二つであると書かれた理由の、説明が付かないからである。漱石はただ洒落のめしてあのくだりを書いたのではなかろう。論者が寺田寅彦なら、絶交しているところである。話を『門』に限定しても、坂井の無いと思っていた髭が、実はあったという経緯の説明が付かない。泥棒事件を境に坂井の人物が変わった理由の説明が付かない。
 漱石はなぜこんな書き方をしたのか。屏風の売買代金の「差額」を精算しようとしたわけでもあるまい。吝嗇(風雅でもいい)と思われていた高等遊民が、実際に交際してみるとそうでもなかった、などというのは、よくある話というより凡俗の詰らない、書く必要もない事柄である。しかし、だからといって髭の有無に収斂させる話でもなかろう。

 漱石は常に心の奥底に、何かそのようなものを、ひそませているのではないか。であれば漱石が(さして必要もないのに)あれほど探偵を毛嫌いするのも、なんとなく分かるような気がする。これは論者の正直な(真面目な)感想である。

 ところでホームズ先生の推理では、⑨の御馳走の決着はどう付けられたのであろうか。自分の専門外として、(専門家の)ワトソン博士に任せたであろうか。