明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 15

101.『門』泥棒事件の謎(1)――9つの謎


 冒頭で『門』を平和な小説であると述べたが、その数少ない事件の一つに奇妙な泥棒事件なるものがある。盗られたものは金時計一つで、それも後日送り返されたという、プロの仕業としては(アマチュアの犯行としても)理解に苦しむような珍事件である。
 この事件が小説のストーリー展開に果たした役割は測り知れないほど大きく、巻を閉じた読者は、結局この(何も盗らなかった)泥棒がいなければ、『門』という小説は成り立たなかったと、つい思ってしまうほどである。
 しかしこの愛すべき小事件にはいくつかの謎がある。

 前項で宗助が(物語で)始めて坂井の家を訪れたのが、盗まれた手文庫を届けに行ったときであった。玄関から行ったのだが、ベルが鳴らなかったので勝手口に廻ったと書かれる。
①なぜこのときだけベルは鳴らなかったのだろうか。
②なぜ清(あるいは御米)に持たせないで、出勤前の忙しい宗助自身が届けようとしたのであろうか。

 そもそも宗助がその手文庫を坂井の家から盗まれたものと断じた理由は、もちろん散乱した手紙の宛先が坂井になっていたからであるが(ただそれだけなら単なる落とし物・廃棄物である)、直接には崖を滑り落ちたらしい跡と泥棒の残した「御馳走」によるものであろう。御米が真夜中に聞いた大きな音も、夢を見ているのではなかった。
 坂井の家に行って、上記のように勝手口で、下女に手文庫を渡して帰ろうとしたが、
③なぜか主人が出てきて、早朝刑事が来たことを知る。
④賊は勝手口から入り、
⑤赤ん坊の泣き声に驚いたのか
⑥金時計ひとつだけ盗って逃げた。

 宗助は迷惑を感じながらも、座布団や茶・莨まで出されてつい長居をしてしまう。
 そのときの宗助の質問、「他にどんな物を盗まれたのか」というのは、世間話と解釈してもちょっとヘンではないか。泥棒が入って被害はほかに無かったかと聞くのは(刑事なら)自然でもあろうが、大して親しくもない他人が気に掛ける事柄ではないような気がする。聞くとすれば家人にケガは無かったかとか、世辞にせよ修繕を要する損壊の有無とか、今後の用心とかであろう。
⑦宗助はなぜこんなことを質問したのだろうか。

 そして
⑧飼っていた番犬(猟犬)が、そのときたまたま病気で4、5日前から獣医に預けてあったというのは、何か別の意味が隠されているのか、それとも単なる偶然か。

 先に泥棒は御馳走の始末を、手文庫の手紙か何かを揉んで丸めて果たしていたのであるが、宗助は几帳面にも手文庫をきちんと元通りに整えて、清が変な顔をするのも構わずそれを横に置いて、平然と朝飯の膳に着いている。少々キタナイようである。読者もまた、持ち出された文書の、あの汚れたあたりの部分がどう始末されたのか、不思議の念に堪えない。漱石の実体験では(三重吉の手紙を)丸ごと捨てれば済んだであろうが、この場合の宗助にはそれは出来ないことである。棄てることの出来ない手紙というものも、漱石には無かったかもしれないが、一般には存在する。
⑨宗助は坂井の(おそらく巻紙に書かれていたであろう)書簡の「使用済」の部分を、どう処理したか。どのようにして坂井の手文庫の蓋を閉めたのか。

 これらの疑問に答えることは、(小説を最後まで読んでも)難しい。①は、勝手口というキーワードをまず登場させたかったのであろうか。前述したが、宗助は坂井の家を勝手口から訪問したことが3回書かれる。玄関から訪れたときには「玄関」の文字は書かれない。もちろん書く必要がないから書かなかったのだが、であれば「勝手口」は書く必要があったから書いたと判定せざるを得ない。『門』は小六へのごちそうに始まり小六へのごちそうで終わる小説である、と以前書いたことがあるが、同じように『門』は勝手口に始まり勝手口に終わる小説であった、と言えなくもない。玄関のベルという散文的なシロモノはそのため(だけ)に使われたのであろう。二度と使われなかったのは壊れていたからではあるまい。

 なぜ自分で持参したのかという、漱石ファンなら誰もが抱く疑問②については、単に重くて大きいからとしか言いようがないが、ふだん何もしない宗助であるが、庭で大きな音がしたと(御米に)言われれば、ちゃんと見に行くくらいはするのである。御米が臥せっていれば自分で床を延べることもする。だいたい漱石の男は当時としては皆晩婚であるから、大抵のことはやれば出来るのである。とはいうものの宗助が自分でのこのこ出掛けて行ったことについては、やはり疑問は残る。

 坂井はおそらく長男であろうが尻は軽い。漱石は重いと一般には思われているが、夏目家の末っ子として尻の軽さもしばしば見せる。③の坂井は漱石のその一面を体現しているのであろう。
 泥棒もまた勝手口から侵入したという④は、先のモチーフの補強であろうか。他に隠された意図でもあるのか。⑤は漱石の実体験。⑥の金時計は単に漱石の好きなもの。漱石は時計とコンパスが好きだったが、まさかコンパスを盗られたと書くわけにもいくまい。

「他に盗られたものは」という⑦の刑事みたいな質問も謎であるが、探偵嫌いにしてその実探偵まる出しという漱石の地が出たのか。
 しかしこれには伏線がある。

 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆坂井の名宛が書いてあった。御米は吃驚して立膝の儘、
坂井さんじゃ外に何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことに因ると、また何か遣られたね」と答えた。(7ノ4回末尾)

 ここでも宗助は御米の代行者(使者)となっているのである。宗助は預言者御米の意を体して行動している。

 ⑧の番犬については何とも言いようがない話である。坂井はヨタを飛ばしたのか。この話が事実なら、シャーロックホームズの出番であろう。⑨についても、(バッチイので)ここではこれ以上触れないことにする。所詮これらの謎は解けようがないのである。

漱石「最後の挨拶」門篇 14

100.『門』コントのあとは主役の失踪(3)――小六の変身


 宗助も御米も小さな問題は探せば見つかるようであるが、小六もまた漱石ふうの大雑把なようで細かい性格は別として、一回だけ失踪事件を起こしている。
 11月いっぱいで寄宿舎を引き払い、宗助夫婦の家で同居を始めた小六であるが、行き先も告げずに出かけてしまうという漱石丸出しの我儘を見せることもあった。たいていは学友か佐伯の従兄弟の処へ行くのであるが、それも休学によって家にいることが増えたようである。そのため(と思わざるを得ない)御米の体調は悪化する。その御米の病気を描く第11章で、御米は小六の昼飯の世話も出来ず寝込んでしまった。

 小六は六畳から出て来て、一寸襖を開けて、御米の姿を覗き込んだが、御米が半ば床の間の方を向いて、眼を塞いでいたので、寝付いたとでも思ったものか、一言の口も利かずに、又そっと襖を閉めた。そうして、たった一人大きな食卓を専領して、始めからさらさらと茶漬を掻き込む音をさせた。(11ノ2回再掲)

 そのあと御米は何とか持ちこたえて、夜9時を過ぎてから大騒ぎになるのだが、小六は行方不明である。部屋にいるともいないとも、出かけたともどこへ行ったとも、何も書かれない。前の章でちょくちょく夕餉の時間を外してとか酒気を帯びるとか書かれるから、読者は一応安之助のところへでも行ったのだろうと想像はする。しかし暮れの20日過ぎである。休学して金もない小六が今日もまた午後から外出したのであれば、それは読者が苦情を言う話ではないが、帰宅した宗助が一応小六の在否を確かめてもバチは当たらない。

 清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分で御座います」と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を探している所へ、旨い具合に外から小六が帰って来た。例の通り兄には挨拶もしないで、自分の部屋へ這入ろうとするのを、宗助はおい小六と烈しく呼び止めた。小六は茶の間で少し躊躇していたが、兄から又二声程続けざまに大きな声を掛けられたので、已を得ず低い返事をして、襖から顔を出した。其顔は酒気のまだ醒めない赤い色を眼の縁に帯びていた。部屋の中を覗き込んで、始めて吃驚した様子で、
「何うかなすったんですか」と酔が一時に去った様な表情をした。(11ノ3回再掲)

 小六がうまい具合に帰宅したのは事実であろうが、宗助が小六の存在を意に介していなかったこともまた事実である。一人二役がいかに難しいか、というような話でもないから、結局漱石は小六の出処進退に関心がないということだろう。
 小六は後日、「晦日の夜の景色を見て来る」(15ノ2回)と断って出掛けているし、宗助が鎌倉から帰って来たときには「図書館に行って留守だった」(22ノ1回)と書かれるから、もう黙って出掛けることをしなくなったようにも読める。小六の変身の理由は何か。
 坂井の書生にという話が持ち上がったのは正月であるし、実際に坂井へ出たのは宗助が鎌倉から帰った後である。たぶん1月末から2月前半までのどこかであろう。それが恐らく3月初め、宗助の増給が決まって御馳走に呼ばれたとき、ごく自然に「勝手から」入って来たのは、坂井の教育の賜物であると読者は思いがちであるが、その前に小六が変身していたとすれば、それは御米の病気が原因していたと考えられないだろうか。宗助は小六を傍観しているだけであったが、御米は結果として小六の教育にも一定の役割を果たしていたのである。

 ところで宗助は小六の書生話の件でも自分からは動かなかったようだ。それが典型的に表れているのが、宗助が帰京したときの次のセリフである。

「坂井さんからは其後何とも云って来ないかい」
「いいえ何とも」
「小六の事も」
「いいえ」
 其小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭と石鹸を持って外へ出た。(22ノ1回)

 安井のことで奥歯に物の挟まったような言い方になるのは仕様がないにしても、小六を書生に出すのは宗助の方から頭を下げて頼み込むのが筋であろう。小六にとっては一生の一大事でもある。漱石はわざと書いているのか。つまり頼るに値しない男として、わざと宗助を描いているのか。それともごくふつうの会話として上の数行は書かれているのか。つまり漱石の地の出た数行であろうか。

 それはともかく、物語末尾、大団円のキーワードたる「勝手口」であるが、宗助は坂井宅を何度となく訪れているが、そのうち3度勝手口から入ったと、なぜかはっきり書かれている。(玄関から入ったであろうときに玄関から入ったとは、漱石は一度も書いていない。)

①盗まれた手文庫を届けに行った。玄関のベルを押したが鳴らなかったので勝手口へ廻った。(7ノ5回)
②大晦日挨拶方々家賃を持参した。いつもは清が持って行くのだが、坂井と懇意になっていることもあり、自分で持って行った。ただし用向きの性格上勝手口から入った。(15ノ1回)
③鎌倉から帰って始めての訪問。玄関で冒険者たちとの鉢合わせの可能性も考え、一応勝手口で下女に来客の有無を確認した。(22ノ2回)

 3回ともそれぞれ異なった事情のため宗助は勝手口から入っている。漱石は明らかにこだわって書いている。それは『門』の掉尾をかざる、ある一文のために用意されたと言って過言でない。

 翌日の晩宗助はわが膳の上に頭つきの魚の、尾を皿の外に躍らす態を眺めた。小豆の色に染まった飯の香を嗅いだ。御米はわざわざ清を遣って、坂井の家に引き移った小六を招いた。
 小六は、
「やあ御馳走だなあ」と云って勝手から入って来た。(23ノ1回再掲)

 先の項(『門』の間取り図)でも述べたが、つい数ヶ月前まで、玄関で靴を脱ぎっ放しにしていた小六としては、考えられない成長ぶりである。小六の行為は変身か教育によるものか。様々な組み合わせに起因する数多くの可能性がある。これまた何度読んでも厭きないわけである。考えて容易に解るものでもないが、厭きることのないことだけは慥かである。

漱石「最後の挨拶」門篇 13

99.『門』コントのあとは主役の失踪(2)――肝心な時にはいつもいない


 昔話の第4章では、最後に御米の「夫よりか、あの六畳を空けて、あすこへ来ちゃ不可なくって」(4ノ14回)という提言で、物語はやっと動く気配を見せ始める。宗助は御米に遠慮があって言い出せなかったと言い訳するが、自分では何一つよう決められない宗助のことであるから、素直に信じる読者はおるまい。

 小六を引き取ることにより学資問題の解決を図ろうという進展は小六を喜ばせたが、腰の重い宗助はようやくのことで手紙だけは出した。ここで物語はやっとスタート地点に戻ることになる。その第5章はまた、宗助の留守中に佐伯の叔母がやって来るという設定で始まる。描写の主体は御米であるが、叙述は佐伯の叔母の話に終始する。宗助はどこに消えたのか。

 宗助は11月6日(土)午後、その週の日曜日に出した手紙を受けて、佐伯の叔母が折角やって来たのを知らないまま、勤め帰りに歯医者に寄ったのである。

 其時向こうの戸が開いて、紙片を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。(5ノ2回)

 向こうというのは漱石(時代)の常用語であるが、この場合は宗助が実際に見ている側(正面――背後側でない正面を向いている)という意味である。漱石はこの歯医者の待合室に宗助と共にいる。漱石は宗助を描写しているのではない。宗助と一体化して同じ景色を見、同じ思いを思っているのである。
 これを西洋のふつうの小説と同じに考えてはいけない。漱石自身は宗助・御米・小六を、西洋の小説のようにそれぞれ描写・叙述していると信じているが、実際には『門』は、というより『門』もまた、言ってしまえば宗助の日記または手記である。漱石は自分の小説も(叙述方法においては)アンナカレーニナと変わらないと主張するが、このロシアの偉大な小説はアンナの手記ではない。トルストイの日記でも勿論ない。

 それはさておいて、このときの歯医者でのやりとりは、漱石の実体験に近いものと思われるが、後年の『明暗』における津田の、痔疾のときの体験同様、医者の言ったことをそのまま記事にしているだけであろう。自分の病気が何であれ、その疾病が根の深いものであろうが、一過性のものであろうが、それを小説の展開に利用できると考えるほど、漱石はウブでもなければスレッカラシでもない。このときの宗助も同じである。自分の歯が助からなければ、総入れ歯にするだけである。金や時間を取られるのは苦痛であるが、それで小説の筋が変わるわけではないだろう。そんなことを暗示したり明示したりするほど漱石はヒマでない。

 第5章の第1回を「欠場」した宗助であるが、留守中の出来事は御米から聞いて、物語の進行に影響はない。では何のための欠場か。結局それは宗助の責任回避のために仕組まれたことではなかったか。歯医者に行ったのは宗助の歯が病んでいたためであるが、それは宗助のせいではない。歯が痛くて歯医者に行くこと自体は過ちとは言えない。天罰というが、それは天が与えたことである。自分のせいではない。(これを則天去私という。)
 そのおかげで宗助は佐伯の叔母との直接対決を回避した。漱石は宗助の財産を叔父が横領したように書くが、作者の漱石自身がそれをどこまで信じていたかは疑問である。宗助は「いずれ面会の折に」という叔父の言葉になぜか素直に従って、手紙で問い糾すことをしない。一般にはこういう直接には話しづらいことは、手紙に書くのが(後に証拠も残って)一番なのである。京大の文科に入って座敷の書棚に赤い表紙の洋書を置くくらいであるから、宗助もまた文の人であろう。漢詩に興味はないととぼけながらも、「風吹碧落浮雲尽 月上東山玉一団」の禅味も分かるのである。
 宗助はなぜ(横領)事件の発端たる広島時代に、まず手紙で佐伯の叔父に確認しなかったのか。大事なことだからこそ直接でなく文章で具体的に依頼すべきであろう。

①家屋敷はどんな人にいかほどで譲渡したか。
②諸経費税金を差し引いて、手許にいくら残るか。
③叔父上に立替てもらった金額の総額はいかほどか。
④その差額を小六と折半したい。
⑤宗助の分は為替で送ってくれ。
⑥小六の分は小六の学資生活費に充ててほしい。
⑦もし小六の学資生活費が尽きたらそのときは連絡してほしい。
⑧この手紙は小六にも見せて、清算の概略は小六にも分かるようにしてほしい。
⑨叔父上の手間賃必要経費は当然差し引いてもらって結構である。

 まあ実際にはそうしなかったのであるから、言っても詮ないことであるが。

 宗助は第6章の途中にも姿を消している。御米は宗助の出勤中に道具屋へ抱一の屏風を売りに行ったのである。道具屋は御米に7円と告げて帰った。宗助と御米は相談して、1回目15円、2回目不明、3回目35円の交渉で売却を決めた。2回目の先方の提示はおそらく25円であろう。そのまま書くとバカみたいだし、あるいは漱石は金額のリフレインを、1回目7円、2回目15円、3回目35円の3回に納めたかったのかも知れない。いずれも「2倍と少し」になっていることがミソ。ついでに言えば坂井の購入価格も「2倍と少し」の80円になっている。

 ちなみに屏風の売却代金(35円)の実際の使途については、小説では直接触れられないが、外套を買っているのは清の証言があるとして、読者としては穴のあいた靴の方が気になるが、靴は当然買ったのだろう。正月に雪が降ったとき、宗助は泥汚れは気にするが、雪が侵入して困るとは書かれない。買ったのだが小六に気兼ねして書けなかったのだろう。小六は金については(漱石に似て)細かく気にする性格のようだ。であればなおさら宗助は家屋敷については、(独り占めしたという)誤解を受けないよう、オープンにする必要があったのではないか。横領するのは横領する者が悪いのではあるが、横領される側にも責任はありはしないか。漱石の論理ではそのへんは限りなく曖昧である。宗助は自分に責任はないと考えている。小六の意見はその反対である。一緒に住まなければ、小六は宗助こそ財産の横領者と見做したろう。

 第8章の障子貼替えで宗助がいなくなるのは仕方ないとして(漱石は引越や大掃除では役に立たない)、第10章の安之助の事業の話では宗助の影は薄い。いくら実業に興味がないといっても、小説の話である。宗助は精一杯参加しようとはするが、正直な漱石の手にかかっては宗助は半分寝ているようなものである。その流れを受けて『門』前半のハイライト御米の病気の第11章では、宗助は皆勤してはいるが、宗助の(御米の看病のために)したことは、御米の肩を力一杯「押さえた」ことと、御米の額の氷嚢を小六と二人で「卸ろした」こと、このふたつだけである。いてもいなくても、まあ関係ない。漱石の前では病気するものではない、と鏡子夫人は分かっていたであろう。いるだけで心強い、と漱石なら言うかも知れないが。

漱石「最後の挨拶」門篇 12

98.『門』コントのあとは主役の失踪(1)――佐伯の夫婦はイトコ同士


 第1回第2回がショートコントだとすると、小説の本当の始まりが第3回なのだろうか。『門』第1章第3回は、何と主役宗助が日曜に独りで散歩に出た留守中の話になっている。叙述は早くも宗助を去って、御米と小六に移る。これは『三四郎』『それから』に決して見られなかった書き方である。いったい三四郎のいない場所で美禰子と野々宮が、あるいは代助と無関係に平岡夫妻が、互いに何事かを語り合う場景(が描かれること)を想像できるだろうか。前2作の読者としてはこの回もまた刮目して臨まざるを得ない。
 第3回は分かりにくいが(小六でなく)御米の立場から叙述されている。この回に書かれていることは、

①夫が帰って来たと思ったら小六だった。
②この好天気に長いマントは合致しないことを小六に指摘した。
③夫が出しに行った佐伯への手紙は、きっと小六の(学資の)用件に違いないと請け合った。

 読者は(本ブログ門篇の)冒頭にも引用した(羽織が帯で高くなった辺云々の)「名調子」を忘れることが出来ないが、一方小六の叙述は、御米に比べると傍観者ふうである。しかしこの回の最後で急に漱石の筆は小六に降りて来る。

 小六はこれ以上弁解の様な慰藉の様な嫂の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出る閑があるなら、手紙の代りに自分で足を運んで呉れたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々頁を剥って見ていた。(『門』1ノ3回末尾)

 小六の描写は、半ば御米の気持ちを斟酌したものだと言えなくもないが、唐突という感じは否めない。この第1章末尾は、続く第2章冒頭の、「其所に気の付かなかった宗助は、町の角迄来て、切手と敷島を・・・」によって、結局(不在であったにもかかわらず)宗助を主体に叙述されていたことが明らかになるのであるが、第2章の第1回と第2回で散歩する宗助が独り描かれた後、第3回で始めて全員集合する。

 ・・・上がろうとする拍子に、小六の脱ぎ棄てた下駄の上へ、気が付かずに足を乗せた。曲んで位置を調えている所へ小六が出て来た。台所の方で、御米が、
「誰?兄さん?」と聞いた。宗助は、
「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。・・・(2ノ3回)

 小六が弱年時の漱石同様、行儀作法に無関心なのは仕方ないとして、このときの御米の「誰?兄さん?」というセリフはずいぶん個性的である。御米は居間から玄関の方へ歩いて行った小六に向かって、「誰が来たのか、(おまえの)兄が帰って来たのか」と訊いたに過ぎないが、咄嗟にこのような呼び分けをする主人物の「癖」は、絶筆『明暗』に至るまで、漱石によって永く保持され続けた。
 宗助が来訪者に向かって律儀な声掛けをするのも、漱石が決して省略しなかったことである。『猫』からこれまた『明暗』まで、登場人物は必ず(当然にも)訪問客に挨拶する。(細君に)行き先を断って出掛けたためしのない漱石(『猫』による)としては、考えられない義理堅さであろう。昔から外面はいいのである。

 それはともかく、第3章では揃って夕餉の膳を囲む。まるでお屠蘇を飲むような漱石らしい晩酌はご愛嬌だが、佐伯から返事が来たら改めて(学資問題を)相談することにして、明治42年10月31日は暮れ、序章たる3つの章は静かに幕を閉じる。

 続く第4章は宗助の過去が振り返られる章であるが、佐伯の叔母からの返信に対する御米の、

「遠からぬうちなんて、矢っ張り叔母さんね」(4ノ1回)

 もまた、難解を極めるセリフである。

 御米が佐伯の叔母に始めて会ったのは2年前の春である。御米にとって佐伯の家は敷居が高い。1年経って叔父が急死した。さらに1年経って安之助の卒業、番町への転居、小六の第3学年への進級、学資問題が起こっても、相変わらず御米は佐伯を訪ねようともしないし、手紙を書くこともおそらく無い。
 叔母から来た手紙を見るのも、始めてではないだろうが、
「やっぱり叔母さんね」と言うには、「やっぱり」御米は、佐伯に対する経験年数が足りないのではなかろうか。
 これは本来宗助の言うべきセリフではなかったか。ここでも御米は宗助の庇護者・代弁者となったのか。

 佐伯は叔父叔母のどちらが宗助たちの血縁者か分からないとは前著でも述べたことであるが、『門』の愛読者という立場から再考すると、佐伯の叔父叔母は従兄妹同士ではなかったかと思われる。佐伯の叔母は昔から宗助・小六の兄弟を知っていたように読めるから(※1)、この場合は佐伯の叔母の方が宗助の父親の妹か。宗助の母親の妹という可能性もなくはないがレアケースであろう。死んだ宗助の母親と佐伯の叔母が姉妹、それも美人姉妹であったというのはちと考えづらい。(※2)
 宗助の祖父に弟があって、その弟は昔佐伯家へ養子に行った。一方祖父の子は、もちろん長男が宗助の父であるが、女子の一人が佐伯家に生れた男子と結婚すれば、佐伯の叔母は当然だが、佐伯の叔父も宗助小六と血の繋がった「叔父」ということになる。
 なぜこんなことにこだわるかというと、叔父に世襲財産を横領されたという漱石独特のモチーフは、叔父が叔母のつれあいというだけでは、単なる窃盗事件になってしまうからである。この場合の叔父とは、主人公の父親の弟でなければならない。弟にして始めて親(家)の財産を(横領にせよ)手に入れる権利が発生する。佐伯の叔父は親爺の弟ではなく親爺の従兄弟でしかないが、(男系の)血が繋がっていることだけは確かである。自分の父親がかつて野中家を相続する権利を持っていたのである。

 この話は『明暗』の津田(父)と藤井の兄弟の謎にもつながる。藤井は津田由雄の叔父であるが、細君のお朝は藤井の家に嫁入ったように書かれる。藤井の主張するところによれば、お朝は結婚前から藤井を見知っていて、かつ藤井に嫁ぎたいという意思があったようでもある。(藤井もそうだが)お朝は津田に遠慮がない。
 藤井の父は、津田の祖父の弟にして藤井家に養子に行った人物ではなかったか。津田(父)の妹がお朝で、藤井とは従兄妹に当たるのであった。
 とすると藤井が文人の血を引くことも、お朝が時折まるで津田の母親のような態度を見せることも、二つながらに腑に落ちるのである。

※注1)叔父叔母とも血族
「宗さんは何うも悉皆変っちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があった。すると叔父は、
「左うよなあ。矢っ張り、ああ云う事があると、永く迄後へ響くものだからな」と答えて、因果は恐ろしいと云う風をする。叔母は重ねて、
「本当に、怖いもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうも燥急ぎ過ぎる位活溌でしたからね。それが二三年見ないうちに、丸で別の人見た様に老けちまって。今じゃ貴方より御爺さん御爺さんしていますよ」と云う。(4ノ7回)

※注2)美人姉妹
 宗助の父がある女性(宗助の母)と結婚したとして、父の係累(例えば従兄弟)までもが、その女性の妹を娶りたいと言い出すとすれば、この姉妹がかなりの美人であったと考えるのが普通であろう。しかし宗助の母はともかく、佐伯の叔父・叔母・安之助に、美形を匂わせる記述は皆無である。

漱石「最後の挨拶」門篇 11

97.『門』始めにコントありき――近江のおおの字じゃなくって


 漱石もまた小説の書き出しには気を遣った人であるが、とくに朝日入社以後の多くの作品は、新聞小説を意識したのであろうか、(ブルックナー開始ではないが)漱石開始とでもいうべき、独特の雰囲気を感じさせる書き出しになっている。
 そもそも漱石の書き出しにはある共通点がある。
 枕のない落語はないが、漱石の小説も必ず落語の枕のような、本体の物語と繋がってはいるが、ちょっと脇へ逸れたような、小噺のような前説のような、要するによく練られた導入部といったもので始められている。
『門』の場合も第1章の第1回と第2回が一つのコントになっているようである。

・第1回
①御米の指導。
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」
「貴方そんな所へ寝ると風邪引いてよ」
(神経衰弱かも知れないと言う夫に対して)
「貴方どうかしていらっしゃるのよ」

②宗助の質問と御米の解答。
「御米、キンライのキンの字はどう書いたっけね」
「近江のおお・・の字じゃなくって」(原文は「おほ・・」、以下同じ)

・第2回
③宗助の質問と御米の解答。
「おい、佐伯のうちは中六番町何番地だったかね」
「二十五番地じゃなくって」

④御米の指導。
「手紙じゃ駄目よ、行って能く話をして来なくっちゃ」

⑤宗助の質問と御米の解答。
(手紙だけ出しておいて、それで埒が明かなければ出かけようという宗助の)
「ねえ、おい、それで好いだろう」
(御米は無回答)

 まず①~⑤に共通して言えることは、御米の賢さと母性(優位性・教師癖・姉さん女房風)であろうか。母性的賢さと言い換えてもよい。御米はとりあえず『三四郎』美禰子、『それから』三千代の子孫である。
 余談だが読者の眼から見れば、三部作の「男」の系譜は、《野々宮宗八-長井代助-野中宗助》であろうが、御米にとって良人宗助は、同じ30歳の野々宮や代助の血を引く者というよりは、明らかに7年後の三四郎の方に近い。御米が物語冒頭で「散歩に行け」というセリフを発するのは、やはり登場してすぐ夫に「風呂に行け」と命じるお延を彷彿させるが、『明暗』の津田はどう見ても野々宮よりは三四郎であろう。といって美禰子が宗助のような男と所帯を持つとは誰も思わない、というより宗助は野々宮(や漱石)のような研究者(自分の人生の主人)ではなく、三四郎や代助みたいな中途半端な男として描かれている。要するに一筋縄では行かないのである。

 また②と③は御米の勘の良さ・記憶の良さも示している。「キンライ」はまあ「近来」以外に選択肢はないのであるが、それでも即座にそれを夫と共有できるというのは、理想の夫人像と言える。(何でも一理屈ある漱石なら、「キンライというのは近いという意味の近来のことか?近いという字なら・・・」となるところであろう。)
 前述したが、7月に息子の卒業と前後して麴町に転居した佐伯の叔母の所番地を、訪れるつもりもなく手紙もたぶん書いたこともないであろう御米がそらんじていたというのは、にわかに信じがたいことではあるが、御米の頭の良さを表わすエピソードといえよう。
 この悧巧なところが、何か魂胆があってのことと思わせるのが漱石の常套であるが、御米はそういうことから解放されているように描かれているのが、『門』の特徴の一つであろうか。もちろんそれには理由があって、御米にはそれまでに死ぬる苦しみを味わっているのであるから、御米の利口さにはちゃんと代償が払われているのである。そうでなければ女を莫迦にしたがる漱石が御米のような賢い女性を造型するわけがない。

 御米はこのあとも常に宗助(や小六)に対して、目立たないながらも指導的役割を果たし続ける。教師であり預言者であり母であり姉である。もちろん女であるからには(と漱石は考える)莫迦で弱くて泣き虫ではある。それでも男たちよりは幾らかは勁いのである。
 この勁さを『猫』の細君や『道草』の御住、実物の鏡子夫人と混同してはいけない。そんな所へ寝ると風邪をひくという御米の忠告に、海老のように丸まっている宗助は大きな眼をぱちぱちさせながら、「寝やせん、大丈夫だ」と苦沙弥先生みたいに言い返すが、御米は一切不平を述べない。これが御米と苦沙弥の細君たちとの、決定的な相違点である。

 ちなみに第1回と第2回の舞台であるが、宗助は第1回では居間に続く縁側に寝そべっている。第2回は座敷へ移動して手紙を書いている。つまり縁側でひなたぼっこをしながら、宗助は手紙の文言を頭の中に思い浮かべて、それで近来の近の字が分からないと言ったのである。常人には理解しにくいシチュエーションであるが、

「其近江のおお・・の字が分らないんだ」

 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指を出して、其先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「斯うでしょう」と云った限、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺め入った。(『門』1ノ1回)

 これまた(漱石以後の)多くの作家を感心させた名文章に繋がったのだと思えば、この野中家の(書斎でない)縁側の歴史的価値は永遠に不滅であろう。
 その縁側(第1回)と座敷(第2回)に席を占めた宗助に対し、第1回第2回とも御米は居間を動かない。動かない女に動く男。漱石の小説世界が早くもこんな所にまで顔を覗かせている。

 そしてこのコントにはオチがある。上記⑤に続くくだりだが、

 細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、其上争いもしなかった。宗助は郵便を持った儘、座敷から直ぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、坐を立ったが、是は茶の間の縁伝いに玄関に出た。
「一寸散歩に行って来るよ」
「行って入らっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。(1ノ2回末尾)

 御米は愛想笑いをしたわけではない。第1回冒頭の①「ちっと散歩でもしていらっしゃい」という自分の忠言に対して、第2回末尾で宗助は「ちょっと散歩に行って来る」と素直に従って同じセリフをしゃべっている。それで御米は満足の意を表わすべく、微笑したのである。

 読者は先に述べた御米の指導ぶりだけでなく、宗助がいつまでそれに従うか、あるいは従わないか(ふつう漱石の小説では男はまず女の言うことは聞かない)、御米の微笑は今後も続くのか、その意味は変わらないのか、それとも・・・。
 たかだか新聞連載開始2回分のコントでも、『門』を読み進めるためのヒントと漱石作品の基本思想が、目に見える形で(重箱に入ったご馳走のように)詰まっている。何回読み返しても(何回食べても)飽きないわけである。

漱石「最後の挨拶」門篇 10

96.『門』もうひとつの謎――小六をなぜ坂井の書生に出したのか


 前項の話は、宗助が鎌倉へ(座禅を組みに)出かける前に、小六を坂井の書生に送り込めば済んだ話ではある。漱石はわざとそうしなかったのであろうか。
 どちらにせよこの話にはもうひとつ不自然な枠組みが付き纏う。これも前に述べたことだが、小六が坂井に宗助の経歴(学歴)をつい漏らしはしないかという懼れである。
 小六は御米に関連して安井のことは何となく知っている。坂井は別の意味で安井という冒険者をよく知っている。
 しかし小六と坂井は互いにそんなことを知る由もない。主人と書生の接点は、宗助というひとりの変わり者だけである。その宗助が(安井と共に)かつて京大にいたことを、小六が坂井にしゃべらないと、いったい誰が保証出来ようか。
 宗助は安井の影に怯えて転居まで考えた。その宗助がいくら家の経済のためとはいえ、小六をみすみす「古戦場」に送り出すであろうか。まるで自分の秘密をさらけ出すようなものではないか。

 宗助が瞑想している間に、安井は坂井の弟と共に満洲へ戻った。それで宗助は安心して小六を坂井の許へ遣った。という薄っぺらのシナリオでは絶対ないことは、漱石の読者ならずとも判っている。
 漱石は気が付いてはいたが、もう収拾がつかなくなったので、参禅にかこつけてすべてを誤魔化してしまったのであろうか。それとも漱石には(自分の古創を掻き毟るという)ヘンな趣味があるのであろうか。あるいは大患の魁か。

 漱石が何らかの事情で故意に自虐的になったのだとすれば、『門』で宗助と御米が佐伯安之助のことを「安さん」「安さん」と連呼する理由も何となく分かるのではないか。安井という姓の人を安さんと呼ぶのは、(とくに関西では)ふつうのことである。宗助も御米も満洲という言葉を聞いただけで変な顔をするのである。「安さん」と平気で口に出来る筈はないのであるが、漱石がわざとそういう設定にしたのであれば、やはりそれは体調の悪かったせいではないだろうか。
 私生活でしばしば見せた奇行を、作品の中ではほぼ隠し通した漱石であったが、『門』では正直にも、いつものシェルターに逃げ込まなかった。
 それがまた、『門』の印象を穏やかにしているのではないか。

 と、いくら理屈を並べても仕方ないが、読者の疑問は疑問として、

Ⅰ 宗助が小六と御米の二人を家に残して平気で鎌倉へ行ったこと

Ⅱ 宗助が自分の経歴がばれるのも構わず平気で小六を坂井の書生へ出したこと

Ⅲ 宗助も御米も従兄弟の安之助を「安さん」「安さん」と平気で呼ぶこと

 この3点だけは改めてここで宣しておきたい。「平気で」というのは漱石の辞書にはまず無い言葉であろう。どんなことにも平気でいられないのが漱石漱石の主人公である。

 最後に少し話を拡大して、物語の立て付けでいえば、さきほどの『彼岸過迄』とも関連するが、

①主人公が鎌倉から帰ると、そこには主人公の人生を根底から揺るがすような大事件(御米と小六の過ちもしくは駈落ち)が起きていた。という可能性を匂わせて、その実何も事は起きない。(『門』)
②主人公が鎌倉から帰ると、そこには主人公の人生を変えてしまうような大きな罠(独り留守番していた小間使いのお作)が待ち構えていた。という可能性を匂わせて、その実何も事は起きない。(『彼岸過迄/市蔵の話』)

 ①も②も「その実何も事は起きない」どころか、①では宗助自身が6年前に、②では市蔵の父親が25年前に、それぞれ既に起こしてしまっているが故に、物語のそのくだりでは(鎌倉からの帰宅のくだりでは)、もう何も起こらないのである。

 この変則的な三題噺のオチは何であろうか。

和歌の浦から帰った二郎とお直を待ち構えていた一郎に、その後生起するかも知れない大事件であろうか。(『行人/兄』)
④房州旅行から帰った先生とKを待ち構えていた御嬢さんにまつわる、その後に「起こった」大事件であろうか。(『心/先生と遺書』)

 それとも、『明暗』の書かれなかった結末で、

⑤湯河原から帰った津田とお延を、何かが待ち構えているのであろうか。

 話が飛躍するようであるが、論者の三部作理論でいけば、答えは⑤の『明暗』である。③『行人』も④『心』も、①『門』②『彼岸過迄』の流れを汲むものとしては、最も重要なポイントが1つ欠けている。『門』『彼岸過迄』にあって、『行人』『心』にないもの。それは既に物語の始まる前に、登場人物の行動を規定してしまうような「過去の重大事件」なるものが生起しているか否かということである。
『明暗』でも帰宅した主人公には何も起こらない(だろう)。『明暗』における大事件とは、清子を捉まえ損ねた(大正4年初春の)津田の大失態に尽きるのであって、それは最大長篇『明暗』の物語の始まる前に、既に起きてしまっているのである(『門』や『彼岸過迄』のように)。

漱石「最後の挨拶」門篇 9

95.『門』最大の謎――宗助はなぜ小六を残したまま家を出たのか


 先にも述べたが『門』で最も不思議なのは、宗助が自宅に小六のいる間に(御米を残したまま)鎌倉へ10日間出かけてしまったことであろう。宗助が気にしないのはいい。宗助は自分が何らかの意思を発揮して、その帰結として安井から御米を、(厭な言い方だが)寝取ったという意識は、たぶん皆無である。宗助は、代助の言い方を借りれば、自然に従っただけなのである。良く言えば無私。悪く言えば責任放棄。(何度も繰り返して恐縮だが、これを人は誠実といい、あるいは自分のことしか考えないという。)
 したがって宗助は、自分の留守の間に御米が小六に奪われるかも知れないと心配することはない。御米が小六に心を移すことは、宗助が心配するしないに関係なく、自然(必然・運命)という観点からはありえないからである。

 しかし漱石は別である。漱石はそういうことは人一倍気にするタイプである。
 前著でも述べたことだが、『明暗』でお延が津田と一緒に温泉へ行きたいと言い出したとき、津田は家が不用心になるという理由をつけて防戦する。誰か留守番を頼めばいいと言うお延に対し津田は珍しく断乎として自分の考えを通す。

「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
 お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、僅かの間ですもの」
「左右は行かないよ。決して左右は行かないよ」(『明暗』151回)

 漱石自身も同じようなシチュエーションで似たようなことを言っている。糖尿病由来の神経痛に悩まされた漱石が大正5年1月、二度目の湯河原行きの際、鏡子はついて行きたいのだが子供が沢山いてそれも難しい。

 ・・・代りに看護婦でもお連れになってはと申しますと、考えておりましたが、まあ、よそうよと申します。なぜですかと訊ねますと、とにかく男一人女一人なんてのはいけないからということに、ではなるべく年寄りの看護婦をお連れになったらと言いますと、自分ではこの爺さんに間違いはないとは思うが、しかし人間には「はずみ」という奴があって、いつどんなことをしないものでもないからなどいって、とうとう一人で行ってしまいました。(夏目鏡子漱石の思い出』57/糖尿病)

 潔癖な漱石は自分ではその恐れはなかったのだろうが、そういう世間の思う壺のようなものに嵌り込むこと自体を忌避したのだろう。そういう興醒めなエクスキューズを書かないで大団円を迎えたところに『門』の良さはあるのであろうが、しかしなぜという疑問は一筋残る。
 漱石は次回作『彼岸過迄』でもう一度この状況をわざわざ作り出して、読者に対してそういうゲスの勘繰りは不要であると念を押しているが、その(市蔵が独り鎌倉から引き揚げてお作と二人きりになるという)筋書きは、あろうことか市蔵その人が、父が小間使いに生ませた子であったという設定の前に、どこかへ吹き飛んでしまったのではないか、というのが前著の中の一項「漱石作品最大の謎」で論者が主張したことである。

 それは誤解であると漱石は言うであろうか。誤解するのはした方が悪いと漱石は言うのであろうが、漱石が読者を誤解させるように書いていることもまた事実である。