明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 15

101.『門』泥棒事件の謎(1)――9つの謎


 冒頭で『門』を平和な小説であると述べたが、その数少ない事件の一つに奇妙な泥棒事件なるものがある。盗られたものは金時計一つで、それも後日送り返されたという、プロの仕業としては(アマチュアの犯行としても)理解に苦しむような珍事件である。
 この事件が小説のストーリー展開に果たした役割は測り知れないほど大きく、巻を閉じた読者は、結局この(何も盗らなかった)泥棒がいなければ、『門』という小説は成り立たなかったと、つい思ってしまうほどである。
 しかしこの愛すべき小事件にはいくつかの謎がある。

 前項で宗助が(物語で)始めて坂井の家を訪れたのが、盗まれた手文庫を届けに行ったときであった。玄関から行ったのだが、ベルが鳴らなかったので勝手口に廻ったと書かれる。
①なぜこのときだけベルは鳴らなかったのだろうか。
②なぜ清(あるいは御米)に持たせないで、出勤前の忙しい宗助自身が届けようとしたのであろうか。

 そもそも宗助がその手文庫を坂井の家から盗まれたものと断じた理由は、もちろん散乱した手紙の宛先が坂井になっていたからであるが(ただそれだけなら単なる落とし物・廃棄物である)、直接には崖を滑り落ちたらしい跡と泥棒の残した「御馳走」によるものであろう。御米が真夜中に聞いた大きな音も、夢を見ているのではなかった。
 坂井の家に行って、上記のように勝手口で、下女に手文庫を渡して帰ろうとしたが、
③なぜか主人が出てきて、早朝刑事が来たことを知る。
④賊は勝手口から入り、
⑤赤ん坊の泣き声に驚いたのか
⑥金時計ひとつだけ盗って逃げた。

 宗助は迷惑を感じながらも、座布団や茶・莨まで出されてつい長居をしてしまう。
 そのときの宗助の質問、「他にどんな物を盗まれたのか」というのは、世間話と解釈してもちょっとヘンではないか。泥棒が入って被害はほかに無かったかと聞くのは(刑事なら)自然でもあろうが、大して親しくもない他人が気に掛ける事柄ではないような気がする。聞くとすれば家人にケガは無かったかとか、世辞にせよ修繕を要する損壊の有無とか、今後の用心とかであろう。
⑦宗助はなぜこんなことを質問したのだろうか。

 そして
⑧飼っていた番犬(猟犬)が、そのときたまたま病気で4、5日前から獣医に預けてあったというのは、何か別の意味が隠されているのか、それとも単なる偶然か。

 先に泥棒は御馳走の始末を、手文庫の手紙か何かを揉んで丸めて果たしていたのであるが、宗助は几帳面にも手文庫をきちんと元通りに整えて、清が変な顔をするのも構わずそれを横に置いて、平然と朝飯の膳に着いている。少々キタナイようである。読者もまた、持ち出された文書の、あの汚れたあたりの部分がどう始末されたのか、不思議の念に堪えない。漱石の実体験では(三重吉の手紙を)丸ごと捨てれば済んだであろうが、この場合の宗助にはそれは出来ないことである。棄てることの出来ない手紙というものも、漱石には無かったかもしれないが、一般には存在する。
⑨宗助は坂井の(おそらく巻紙に書かれていたであろう)書簡の「使用済」の部分を、どう処理したか。どのようにして坂井の手文庫の蓋を閉めたのか。

 これらの疑問に答えることは、(小説を最後まで読んでも)難しい。①は、勝手口というキーワードをまず登場させたかったのであろうか。前述したが、宗助は坂井の家を勝手口から訪問したことが3回書かれる。玄関から訪れたときには「玄関」の文字は書かれない。もちろん書く必要がないから書かなかったのだが、であれば「勝手口」は書く必要があったから書いたと判定せざるを得ない。『門』は小六へのごちそうに始まり小六へのごちそうで終わる小説である、と以前書いたことがあるが、同じように『門』は勝手口に始まり勝手口に終わる小説であった、と言えなくもない。玄関のベルという散文的なシロモノはそのため(だけ)に使われたのであろう。二度と使われなかったのは壊れていたからではあるまい。

 なぜ自分で持参したのかという、漱石ファンなら誰もが抱く疑問②については、単に重くて大きいからとしか言いようがないが、ふだん何もしない宗助であるが、庭で大きな音がしたと(御米に)言われれば、ちゃんと見に行くくらいはするのである。御米が臥せっていれば自分で床を延べることもする。だいたい漱石の男は当時としては皆晩婚であるから、大抵のことはやれば出来るのである。とはいうものの宗助が自分でのこのこ出掛けて行ったことについては、やはり疑問は残る。

 坂井はおそらく長男であろうが尻は軽い。漱石は重いと一般には思われているが、夏目家の末っ子として尻の軽さもしばしば見せる。③の坂井は漱石のその一面を体現しているのであろう。
 泥棒もまた勝手口から侵入したという④は、先のモチーフの補強であろうか。他に隠された意図でもあるのか。⑤は漱石の実体験。⑥の金時計は単に漱石の好きなもの。漱石は時計とコンパスが好きだったが、まさかコンパスを盗られたと書くわけにもいくまい。

「他に盗られたものは」という⑦の刑事みたいな質問も謎であるが、探偵嫌いにしてその実探偵まる出しという漱石の地が出たのか。
 しかしこれには伏線がある。

 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆坂井の名宛が書いてあった。御米は吃驚して立膝の儘、
坂井さんじゃ外に何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことに因ると、また何か遣られたね」と答えた。(7ノ4回末尾)

 ここでも宗助は御米の代行者(使者)となっているのである。宗助は預言者御米の意を体して行動している。

 ⑧の番犬については何とも言いようがない話である。坂井はヨタを飛ばしたのか。この話が事実なら、シャーロックホームズの出番であろう。⑨についても、(バッチイので)ここではこれ以上触れないことにする。所詮これらの謎は解けようがないのである。