明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 10

96.『門』もうひとつの謎――小六をなぜ坂井の書生に出したのか


 前項の話は、宗助が鎌倉へ(座禅を組みに)出かける前に、小六を坂井の書生に送り込めば済んだ話ではある。漱石はわざとそうしなかったのであろうか。
 どちらにせよこの話にはもうひとつ不自然な枠組みが付き纏う。これも前に述べたことだが、小六が坂井に宗助の経歴(学歴)をつい漏らしはしないかという懼れである。
 小六は御米に関連して安井のことは何となく知っている。坂井は別の意味で安井という冒険者をよく知っている。
 しかし小六と坂井は互いにそんなことを知る由もない。主人と書生の接点は、宗助というひとりの変わり者だけである。その宗助が(安井と共に)かつて京大にいたことを、小六が坂井にしゃべらないと、いったい誰が保証出来ようか。
 宗助は安井の影に怯えて転居まで考えた。その宗助がいくら家の経済のためとはいえ、小六をみすみす「古戦場」に送り出すであろうか。まるで自分の秘密をさらけ出すようなものではないか。

 宗助が瞑想している間に、安井は坂井の弟と共に満洲へ戻った。それで宗助は安心して小六を坂井の許へ遣った。という薄っぺらのシナリオでは絶対ないことは、漱石の読者ならずとも判っている。
 漱石は気が付いてはいたが、もう収拾がつかなくなったので、参禅にかこつけてすべてを誤魔化してしまったのであろうか。それとも漱石には(自分の古創を掻き毟るという)ヘンな趣味があるのであろうか。あるいは大患の魁か。

 漱石が何らかの事情で故意に自虐的になったのだとすれば、『門』で宗助と御米が佐伯安之助のことを「安さん」「安さん」と連呼する理由も何となく分かるのではないか。安井という姓の人を安さんと呼ぶのは、(とくに関西では)ふつうのことである。宗助も御米も満洲という言葉を聞いただけで変な顔をするのである。「安さん」と平気で口に出来る筈はないのであるが、漱石がわざとそういう設定にしたのであれば、やはりそれは体調の悪かったせいではないだろうか。
 私生活でしばしば見せた奇行を、作品の中ではほぼ隠し通した漱石であったが、『門』では正直にも、いつものシェルターに逃げ込まなかった。
 それがまた、『門』の印象を穏やかにしているのではないか。

 と、いくら理屈を並べても仕方ないが、読者の疑問は疑問として、

Ⅰ 宗助が小六と御米の二人を家に残して平気で鎌倉へ行ったこと

Ⅱ 宗助が自分の経歴がばれるのも構わず平気で小六を坂井の書生へ出したこと

Ⅲ 宗助も御米も従兄弟の安之助を「安さん」「安さん」と平気で呼ぶこと

 この3点だけは改めてここで宣しておきたい。「平気で」というのは漱石の辞書にはまず無い言葉であろう。どんなことにも平気でいられないのが漱石漱石の主人公である。

 最後に少し話を拡大して、物語の立て付けでいえば、さきほどの『彼岸過迄』とも関連するが、

①主人公が鎌倉から帰ると、そこには主人公の人生を根底から揺るがすような大事件(御米と小六の過ちもしくは駈落ち)が起きていた。という可能性を匂わせて、その実何も事は起きない。(『門』)
②主人公が鎌倉から帰ると、そこには主人公の人生を変えてしまうような大きな罠(独り留守番していた小間使いのお作)が待ち構えていた。という可能性を匂わせて、その実何も事は起きない。(『彼岸過迄/市蔵の話』)

 ①も②も「その実何も事は起きない」どころか、①では宗助自身が6年前に、②では市蔵の父親が25年前に、それぞれ既に起こしてしまっているが故に、物語のそのくだりでは(鎌倉からの帰宅のくだりでは)、もう何も起こらないのである。

 この変則的な三題噺のオチは何であろうか。

和歌の浦から帰った二郎とお直を待ち構えていた一郎に、その後生起するかも知れない大事件であろうか。(『行人/兄』)
④房州旅行から帰った先生とKを待ち構えていた御嬢さんにまつわる、その後に「起こった」大事件であろうか。(『心/先生と遺書』)

 それとも、『明暗』の書かれなかった結末で、

⑤湯河原から帰った津田とお延を、何かが待ち構えているのであろうか。

 話が飛躍するようであるが、論者の三部作理論でいけば、答えは⑤の『明暗』である。③『行人』も④『心』も、①『門』②『彼岸過迄』の流れを汲むものとしては、最も重要なポイントが1つ欠けている。『門』『彼岸過迄』にあって、『行人』『心』にないもの。それは既に物語の始まる前に、登場人物の行動を規定してしまうような「過去の重大事件」なるものが生起しているか否かということである。
『明暗』でも帰宅した主人公には何も起こらない(だろう)。『明暗』における大事件とは、清子を捉まえ損ねた(大正4年初春の)津田の大失態に尽きるのであって、それは最大長篇『明暗』の物語の始まる前に、既に起きてしまっているのである(『門』や『彼岸過迄』のように)。