明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 16

351.『野分』何を怒っているのか(2)――友情、分裂する自己、そして自己愛


 『野分』の主人公は高柳周作という、卒業したての貧しい文学士であった。もう1人の主人公白井道也も、8年前に卒業した貧しい文学士である。貧は漱石文学のテーマにはならなかったが、主人公が金がなくて困っていること、実業家・俗物に対する軽侮を、漱石は死ぬまで書き続けた。ただし貧書生の元祖苦沙弥先生を見ても分かるように、漱石は所謂社会における「貧しき人々」を書いたわけではなかった。漱石の言う貧はあくまで私的・主観的なものである。
 漱石は自分の歩むべき途が、金の無いことによって阻害されることを懼れた。漱石のめざす道はむろん(漱石にとって)正しい道である。それが妨げられるとすれば、――いっそ歩まない方がましである。
 漱石の主張はただ1つ。自分が自分の人生の主人となるためには、自分の信じる趣味思想を造りあげるための勉強(学問)が必要である。学問(稽古)するためには金と時間が要る。それが無いために人間が食うための木偶人形になるのはつまらない、ということに尽きる。
 ではそれが始めから担保されているらしい生まれながらの金持ちは、自分の信条と嗜好に生きて幸せか。世の中はよくしたもので、金持ちでそこに到達する者は稀であるとされる。漱石の金に対する思惑、金満家に対する怒りと蔑視は、ここに発している。もちろん自戒も含まれるのが漱石の常である。博士号を忌避するのは、その称号がイメジされるものが清貧よりは金満の方に振れるからで、貧乏は厭だが金持ちはもっと厭だと言っているのである。漱石はおそらく他から金持ちに見られることさえ厭なのであろう。

 それらの(必要以上に潔癖な)感情の底に流れている「怒り」は、『猫』では目立つものではなかった。『坊っちゃん』でも『草枕』でも、作者の憤怒の感情はユーモラスな高座的語り口と主人公たちの奇矯な言動で巧みに隠蔽された。読者は漱石の怒りを感じる前に、笑いとカタルシスで別世界へいざなわれる。
 怒りが剝き出しになった最初の小説は『二百十日』であろう。圭さんの家は豆腐屋であったがゆえに、苦労して学校を出たようである。学問をして却って世の中への怒りが強まった。圭さんは華族と金持ちが嫌いである。彼らこそ豆腐屋になればいいと没論理的なことを言う。圭さんの怒りは阿蘇の噴煙のようである。親友の碌さんは、「大いにやり玉え」とは言うものの、慣れない登山で足が痛くてそれどころでない。
 休暇を終えて圭さんと碌さんが阿蘇登山から帰った姿が高柳君と中野君である。『一夜』を『草枕』の前書きとして読んだように、そして小説のまとめ方について、端折って失敗した『趣味の遺伝』の轍を踏まないよう丁寧に結ばれた『坊っちゃん』の例と同様、『二百十日』は『野分』の先行作品と言える。

《明治39年怒りの3部作姉妹篇――川柳もどき(川柳「も」くし)相関図》

坊っちゃん趣味の遺伝も親譲り

・那美さんの腕(かいな)一夜草枕

・妻(さい)も泣く二百十日野分の夜も

 冗談はさておいても、『野分』と『二百十日』はセットで読まれるのが普通である。前述のように高柳君と中野君は圭さんと碌さんの交友に比定できる。元豆腐屋の倅で華族と金持ちの大嫌いな圭さんは、高柳君の先輩にして道也先生の後輩であろう。しかし『野分』は『二百十日』の進化形に過ぎないのか。そして(ともに漱石が書いた通俗小説という意味で)『虞美人草』への橋渡しをしたに過ぎないのであろうか。朝日入社前の最後の作品『野分』は、単なる谷間の作品か。

 高柳君と中野君の奇妙な友情については、その後のすべての漱石作品にそのバリエーションが看て取れる。主人公と仲の好い(好かった)同級生・同年輩の友人の登場しない漱石の小説は(『坑夫』を除いて)皆無である。『道草』には仲が好いというほどの友人は登場しないが、『道草』はもともと(『草枕』どころでない)人情を排した小説であるし(夫婦愛は人情とは別物であろう)、それでも健三の親しい同期生の何人かは一応カウント出来る。
 『野分』に先んじる作品群は、『琴の空音』(津田君と余)、『趣味の遺伝』(浩さんと余)、『二百十日』(圭さんと碌さん)、すべて友人を基盤とした物語でもあることから、『坊っちゃん』も、坊っちゃん山嵐の友情物語と言えなくもない(坊っちゃんは主任の山嵐を「君(きみ)」と呼んでいる)。あるいは坊っちゃんとの年齢差が気になるのであれば、(マドンナを介した)山嵐とうらなりの友情物語としてもよい。そして『草枕』もまた、画工と那美さんの「友情」物語として読むことが可能である。この場合も画工と那美さんの年齢差(互いに男女の晩い適齢期に近い)が障壁になるようなら、那美さんと久一の友情が描かれていると言ってもいいだろう。那美さんは男のように描かれているところがある。画工の寝ている部屋や画工の浸かっている湯場に平気で入って来るし、那美さんが軍人になったらさぞ強かろうと兄者にあたる人は詠嘆する。

 まあそれは別な読み方だとして、仮に『坊っちゃん』『草枕』を『坑夫』と同じ例外仲間と見ても、あとの小説はすべて漱石本人と軌を一にして、学生時代からの友人が常に主人公と共にある。漱石は男女の(三角)関係ばかり書いて来たように言われるが、同時にそこには学校時代の友人が必ず附着しているのである。その男同士の関係を離れた男女愛というものを(純愛というのであろうか)、漱石は生涯ただの一度も書かなかった。
 いやそれは言い過ぎかも知れない。短篇ではあるが、『趣味の遺伝』における河上浩さんと小野田の令嬢の「恋愛」は、まさに純愛そのものではないか。
 しかし2人はおそらく言葉を交わすどころか、互いの瞳を見合うことすらしなかったと思われる。これを恋愛と呼べるとしたら、それは久生十蘭の『春雪』のはるか上を行く「純愛」であろうが、突飛なことに漱石はそれを遺伝のせいにしてしまった。漱石は決して照れ隠しで「一目惚れ」に浩さんの祖父を持ち出したわけではあるまい。
 漱石作品に通常の意味におけるプロポーズのシーンはない、と前に書いたことがあるが、漱石の男に自分(だけ)の自由意思で女を好きになった例はない。――いやこれこそ例外が1つだけある。『心』のKであるが、Kはそのために自死したというのが論者の持論である。漱石は男女間において、互いの自由意思による恋愛の存在を認めていなかったかのようである。まるで友情を離れた愛情はないと言わんばかりに。

 では坊っちゃん・画工・炭坑夫見習の3人の若者たちに共通点はあるか。彼らにはなぜ「友人」がいないのか。
 それはこの3作以外のすべての小説を見れば明らかなように、彼らが揃って「帝大」を出ていないということに尽きよう。イヤな言い方だが、帝大と無縁であるが故に友がいない。帝大に非ざれば人に非ずなのか。
 『坊っちゃん』では蔭のヒーローたる赤シャツが帝大出であるが、赤シャツはマドンナをうらなり君から奪い、野だを始め交友も汎い。『草枕』の画工は英語も読めて一応文学士のようなところも見せるが、絵描きを自称する文学士は稀であるから、帝大ではないのだろう。もっとも画工の「友人」は『一夜』で紹介済であるとすれば、漱石が晩年に『草枕』を書き換えたいと思っていたことにも符合しよう。漱石は友人の書かれない帝大出を、そのまま(剥き出しで)小説に登場させることに最後まで抵抗を感じていたということになる。話は逸れるが。

 帝大での日々が漱石を始めて孤独から解放した。それがなければ一生独りぼっち。ところが高柳君はいいとして、同じ帝大出の白井道也は仲間から置き去りにされた「孤客(ミザントロープ)」として描かれる。思うにこの決定的な一点が道也を漱石と分け隔て、道也を正式な主人公から外した真の理由であろう。あるいは漱石も人に言わない心の奥底では、(道也のように)親友なるものがこの世に1人もいないと感じていたのかも知れない。漱石は白井道也とあまりに近すぎて、却って敬遠してしまったというわけである。

 もう1人、『心』の書生の私にも同級の友人はほとんどいないに等しいが、(私を鎌倉の別荘に置き去りにした中国辺の友人のことが申し訳程度に語られるとはいえ、この友人は小説の筋書きのために無理矢理登場させた案山子に過ぎまい。「中国辺」という設定が明らかに漱石の関心の外にあることを示している)、これは小説の建付けとして『野分』に倣ったのだろう。『心』は帝大同級生たる先生とKの物語、あるいは先生と奥さん夫婦の物語であり、もう1人の帝大生私は語り手と狂言回しを兼ねたオマケの主役に過ぎない。『野分』も本体は帝大生たる高柳君と中野君の物語であり、道也は重要ではあるが本筋ではないと、漱石は弁解したかったのかも知れない。では道也の『解脱と拘泥』(江湖雑誌)、生原稿『人格論』(演説会「現代の青年に告ぐ」の内容を含むと思われる)四百枚は何だったのか。漱石は小説の主人公と、真に自分の言いたいことを発言する人物を、書き分けたのだろうか。
 その意味では道也先生の立場は、『三四郎』の野々宮さんや広田先生に似ている。同級生の友人は主人公に任せて、野々宮さんと広田先生の友人は、(いたとしても創作上の都合で)省略されてしまった。余計なことを言うようだが、原口の声掛けで催された文芸家の懇親会は、(三四郎の同級生懇親会と共に)漱石としては異例のつまらなさで、(鷗外同様)懇親会嫌いの漱石は当然ながら二度とそういう会のシーンを書くことはなかった。

 かくして高柳君と中野君はアダムとイブになる。ところで読者はこの2人に惹き合うものが何もないことに首を傾げる。共通点がないばかりか利害関係もなく、相手の背後に兄弟姉妹とか気になる存在が控えているというわけでもない。互いに補完するものも見当たらない。(貧富の違いは補完関係ではない。貴族と乞食は銘々が互いに補完し合っているわけではない。だから革命になるのである。言い換えれば、両者が真に対立し合うのでなく互いに補完関係にある場合は、両者の交代は起こり得ない。)
 漱石の読者は『それから』の代助と平岡が、『明暗』の津田と小林が、なぜ親友たり得たか不思議に思う。三四郎と与次郎はともかく、『門』の宗助と安井にせよ、『心』の先生とKにせよ、友情が彼らを1ミリも向上させていないことを訝しく感じる。『彼岸過迄』の敬太郎と須永、『行人』の二郎と三沢も、まあそれに近い。
 前述した漱石のほぼすべての作品が、学生時代からの友人が常に主人公と共に在ると言っても、その実態はかくのごときものであったか。漱石自身はもっと友人に恵まれていたはずである。もっと別な(気の合う、お互いを向上させるような)友情を知っていたのではないか。ところが不思議なことに漱石はそういう書き方をしなかった。早くに子規を失ったせいだろうか。本人も気にしていたのか、珍しくこんな言い訳をしている。

 高柳君は口数をきかぬ、人交りをせぬ、厭世家の皮肉屋と云われた男である。中野君は鷹揚な、円満な、趣味に富んだ秀才である。此両人が卒然と交を訂してから、傍目にも不審と思われる位昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものが只一人あって、只此一人より外に親しきものを見出し得ぬとき、此一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友を以って中野君を目しては居らぬ。・・・(『野分』第2章)

 解ったようでなかなか伝わりにくい話ではある。もしかしたら漱石は友情にもその根元には、男女間の恋愛に近いものが流れていると言いたかったのかも知れない。引用部分にある「愛人」という表現を、漱石はそのような意味で使ったのではないとは思うが。
 漱石は男女の愛については誠実に向き合って小説に書いた。男と女の登場人物が互いにそういう感情を抱き合う存在か、その可能性が少しでもあるかないか、年齢境遇に関係なくどんな男女でも、漱石はそれを念頭に置いて記述している。一方男同士の友情については、初期の作品では純な友情として(武者小路実篤みたいに)ストレートに書いたが、次第に男女間の恋愛と対照させるかのように、友情というテイストを排除する方向に変化して行ったように見える。
 しかし先の項でも探ったように、高柳君と中野君の2人はそれぞれ漱石とは似ているところがあるのである。この2人に共通点がないとすれば、それは漱石という人物が2方向へ分裂しているせいであろう。漱石の中の高柳君と中野君という相容れない2つの性格が互いに惹き合う。友情ではない。友情とは別物である。
 後に『明暗』を読む者は、津田と小林の間で演じられた奇妙なやりとりが、かつて『野分』の高柳君と中野君の間でも取り交わされていたことに気付く。厭々居酒屋へ入る津田と、気の進まない音楽会へ行くことに決めたときの高柳君の心情は、瓜二つである。友情とも同情とも憐憫とも関係のない何かが津田と高柳君をつき動かした。これを自己愛が強い人というのかも知れない。漱石は(小説家は)当然自己愛は大変に強い。

 漱石は(太宰治と違って)自己愛そのものを描くことはしなかった。「何故」相手に惹かれるかを書くことはなかった。自分の中の分裂した片方だけを、そのまま生の形で描いた。詳しく書けば書くほど自画像に近くなる。シニカルは漱石の持ち味の1つであるが、シニカルに書けば書くほど自画像に近くなった。その到達点が『心』の先生であり、『道草』の健三であろう。『道草』は自伝を書いたとも言われるが、『心』で余りにデフォルメされた自画像を画いてしまったので(何しろ先生もKも自殺している)、『道草』では極力生身の自分に即した書き方にしたのだろう。それでも自画像には違いない。ファンゴッホレンブラントの自画像同様(北斎ドラクロアの自画像でもいいが)、狂気が現われていようが平穏な空気に満たされていようが、自画像は自画像である。そしてそれは作家にとって、書かざるを得なかったにせよ、たまらなく不愉快なことには違いなかろう。