明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 14

349.『野分』主人公は誰か(6)――兄と弟(つづき)


 道也の家は市ヶ谷薬王寺前であった。ある日道也の兄が道也の家を訪れると、道也は留守で細君が迎える。

 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
 ①道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関で脱いで座敷へ這入ってくる。
「大分吹きますね」と薄い更紗の上へ坐って抜け上がった額を逆に撫でる。
「お寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「②今御帰り掛けですか
「③いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
 兄は糸織の小袖に鉄御納戸の博多の羽織を着ている。
「今日は――留守ですか」(『野分』第10章一部再掲)

 ところで、常に風と共に在る道也は、結局この小説の中では兄と同席するシーンは描かれなかった。
 道也の出掛けた留守に道也の兄が来る。
 宗助の留守に小六がやって来る。健三の留守に兄がやって来る。島田が来る。比田の留守に姉を訪ねる。津田の留守に小林がやって来る。お延の見舞に来ない間に吉川夫人が来る、お秀が来る。お秀がお延と(銘々の小切手付きで)対面するのは、お秀が津田の妹であるがゆえの特別措置である。(漱石に妹はなかったが、漱石の描く妹は糸子・よし子・お重・お秀、皆秀逸である。那美さんも藤尾も美禰子も皆「妹」ではある)。関が迎えに来ないうちに清子に会う。『明暗』は「鬼の居ぬ間に」の物語である。(そして清子はお延と顔を合わせる前に東京へ引揚げる、というのが論者の推測である。)

 話は飛ぶが、お延が清子と会ったところで、お延の悩みが何か解消するか。お延は安心するか。お延は夫に秘密があると疑って結婚以来半年間苦しんでいる。夫の真意を測りかねている。しかしそれで実際に清子の顔を見ることによって、何が分かるというのか。清子の表情が津田の心の索引になるとでも言うのか。それが分かるようなら漱石も苦労はないわけである。

「人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の外にある」(『論理哲学論考』6-4312 )

 とヴィトゲンシュタインも言っている。(本ブログ坊っちゃん篇15を参照。)

「私」が先生を訪ねたとき、『心』の先生は留守だった。初回も2回目も、そしてそれからも何回か。漱石の作品に留守中の訪問シーンは山ほど書かれるが、兄弟肉親や濃密な間柄のことが多いようである。フロイトなら何か一言あるだろうか。『塵労』では珍しく父親が二郎の下宿を訪ねるシーンが書かれるが――漱石の中で父が子を訪ねる唯一のシーンである――、父親は前日「御前は二郎かい」と職場に電話をかけて来た。「留守」の可能性を(強引に)消したのである。

 市ヶ谷薬王寺前は『道草』の健三の兄(長太郎)の住所地であったとは前述したところ。では『野分』の道也の兄の家はどこか。兄の勤め先は(中野君の結婚披露園遊会の華麗さから見て)まず首都の中心部(丸の内か内幸町あたり)であろう。道也の家(薬王寺前)へは会社帰りに寄るのが普通と思われたようだから(②③)、まあ牛込早稲田近辺と見ていい。
 その道也の兄は会社の役員であるという(①)。この場合の「役員」とは何を指すか。

 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。会社の役員は金のある点に於て紳士である。中学の教師は貧乏な所が下等に見える。此下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明かである。道也はある時の演説会で、金力と品性と云う題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員等の暴慢と、青年子弟の何等の定見もなくして徒に黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員等は生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫に平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属して居た生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身の程を知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。(『野分』第1章一部再掲)

 ここでは役員とは字義通り経営陣に近い存在のようにも見える。道也の兄も「取締役」なのだろうか。漱石読者はまずそんなことはありえないと識っている。

「・・・当人がさ。丸で無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって、筆耕の真似をしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか」
「自分丈はあれで中々えらい積りで居りますから」
「ハハハハえらい積だって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃ仕様がない」
「近頃は少しどうかして居るんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたって、どこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥される。つまり自分の錆になる許でさあ」
「少しは人の云う事でも聞いて呉れるといいんですけれども」
「仕舞にゃ人に迄迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗に不穏な言論をして富豪抔を攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、散々叱られたんです
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、夫々探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣はないが、課長からそう云われて見ると、放って置けませんからね
「御尤で」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」(『野分』第10章)

 道也の兄は会社で弟の過激な言論活動について課長から文句を言われたというのである。課長から君呼ばわりされているからには、道也の兄は平社員かせいぜい係長であろう。漱石はここでは、雇員や給仕でない、今風に言えば「身分の安定した正規の社員」という意味で「役員」という言葉を使ったようである。あるいは保険会社のように社員の定義が違うのか。その頃は社員のことを役員と呼ぶこともあったのか。『猫』で法学士になりたての多々良三平は六つ井物産の役員であると書かれる。会社の株を持てば社員でも役員と呼ばれるのか。しかしいくら明治時代とはいえ、ここはやはり①の文章は漱石の書き誤りではなかろうか。(課長を社長の誤記とすれば辻褄は合うが、2ヶ所も3ヶ所も課長と書かれている以上、それは考えにくい。加えてこんなところに中野君のおやじが実際に顔を出すようでは、『野分』はそれこそ大衆小説になってしまう。)

①道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章原文)

A案①道也の兄は会社の社員である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章改訂案)

 あるいは漱石の小説に「社員」という言葉が似合わないのであれば(漱石の辞書に「社員」という言葉はない)、身分を限定してしまって道也の兄には気の毒だが、次のような可能性も無くはない。

B案①道也の兄は会社の掛長(掛員)である。其会社の社長は中野君のおやじである。(『野分』第10章改訂次善案)

 兄の身分が何であれ、道也の兄もまた決して金に余裕がある方ではなかった。漱石の兄夏目直矩(和三郎)を模したものであれば、さもありなんと『道草』の読者は納得するかも知れない。
 しかし白井道也が半分以上漱石であるとして、この兄もまた(現実の直矩でなく)半分は漱石であるとする見方も可能である。名前が付けられないのもそのためだったか。道也の兄と漱石の共通点は次のようなものである。

 年齢。道也は明治39年で34歳であった。兄はそのときの漱石の年齢(40歳)とほぼ一致するのではないか。漱石(金之助)と兄直矩(和三郎)の年齢差は実質7ヶ年である。
 早稲田(推定)という住所地。漱石が自分あるいは自分の分身、以外の登場人物を、早稲田に住まわせることはない。
 兄弟(この場合は弟道也)が市ヶ谷薬王寺前に住んでいる。これは漱石でなく(『道草』の)健三の話であるが、健三=漱石と見れば、市ヶ谷薬王寺前にある兄弟の家をわざわざ「訪問する」のは、漱石自身に他ならない。
 金の余裕がない。漱石にとって金に余裕のある人間はすべからく赤の他人である。『それから』の長井得(父)と誠吾(兄)は揃って実業家であり、代助(漱石)にとって別世界の人種であった。それ以外に生きて舞台を闊歩する主人公とその親兄弟に、金に余裕のある者は1人もいない。

 金の話は重要である。道也=兄とすると、道也は兄から百円借りていないことになる。道也は高柳君からただ百円貰った。勿論それは『人格論』435枚の対価であると言い張ることも可能だが、本屋に買い手の付かなかった原稿である。あからさまに言えば、道也は百円の施しを受けた。
 この百円は9年後、清算あるいは蒸し返されることになる。前項で触れたように、『道草』で描かれた「解決金」百円がそれである。市ヶ谷薬王寺前と道也御政の夫婦だけでなく、『野分』は宙ぶらりんになった百円を背負ったまま、『道草』へ直行したと言えなくもない。