明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 25

321.『草枕』目次(12)第8章・第9章――早くも則天去私の考えが


 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

第8章 隠居老人の茶席に招かれる (全4回)

1回 客は観海寺の大徹和尚と甥の久一
(P93-2/御茶の御馳走になる。相客に僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。俗一人、二十四五の若い男である。 老人の部屋は、余が室の廊下を右へ突き当って、左へ折れた行き留りにある。大さは六畳もあろう。大きな紫檀の机を真中に据えてあるから、思ったより狭苦しい。)
老人の部屋には支那の花毯が~和尚は虎の皮の敷物~久一は鏡が池で写生しているところを和尚に見つかったことがある

2回 老人の娘那美さんの噂話も出る
(P95-15/「杢兵衛はどうも偽物が多くて、――その糸底を見て御覧なさい。銘があるから」と云う。取り上げて、障子の方へ向けて見る。障子には植木鉢の葉蘭の影が暖かそうに写って居る。首を曲げて、覗き込むと、杢の字が小さく見える。)
茶碗は杢兵衛~老人は画工が青磁の皿と羊羹を賞めたことを知っていた~サファイアルビーの菓子皿~那美さんは健脚

3回 端渓の硯と物徂徠の大幅
(P98-10/老人が紫檀の書架から、恭しく取り下した紋緞子の古い袋は、何だか重そうなものである。「和尚さん、あなたには、御目に懸けた事があったかな」「なんじゃ、一体」「硯よ」「へえ、どんな硯かい」「山陽の愛蔵したと云う……」「いいえ、そりゃまだ見ん」)
和尚も漱石も山陽が嫌い~徂徠の方がまし~九眼の端渓~松の皮の蓋を取ると

4回 久一は召集されることになった
(P102-5/もし此硯に付て人の眼を峙つべき特異の点があるとすれば、其表面にあらわれたる匠人の刻である。真中に袂時計程な丸い肉が、縁とすれすれの高さに彫り残されて、是を蜘蛛の背に象どる。)
端渓の素晴らしさ~支那へ行けば買えるのか~日露戦争と久一の運命

 那美さんはこの章はお休みである。刺激的なシーンの後であるから、漱石といえども常識的な判断が働いたのであろうか。その代わり次の第9章では画工と那美さんだけの、特別な章になっている。といって第9章が『草枕』のハイライトでないこともまた、『草枕』の好さであろう。
 隠居老人は那美さんの父親である。名前はない。久一は老人のことを「御伯父さん(おじさん)」と呼ぶ。これは借音して書いていると思われるので、必ず宿の隠居老人の方が長男(兄)であるとは限らないが、まあ「村のものもち(茶店の婆)」那美さんの家の方が本家であろう。
 ところで第5章で髪結床の親爺の発言として、那美さんには本家の兄というものがあり、仲が悪いという。本家は丘の上の眺望のいいところにある。那古井の宿の方は隠居老人と那美さんの住む別荘という以外に、何か複雑な事情があるのだろうか。

第9章 那美さんに個人レッスン (全3回)

1回 非人情な小説の読み方
(P106-3/「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んで居た。「御這入りなさい。ちっとも構いません」 女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出て居る。)
部屋で那美さんと語る~画工は洋書を読んでいた~何ならあなたに惚れこんでもいい~惚れても夫婦にならないのが非人情な惚れ方

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛り付けた、書物の一冊を抽いて読んで居た。
「御這入りなさい。ちっとも構いません」
 女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出て居る。女が余の前に坐った時、此頸と此半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、六ずかしい事が書いてあるでしょうね」

 第5章(青磁の羊羹)でやっと普通らしく振る舞い始めたかに見えた那美さんであるが、その後また怪しげな行動がぶり返し、第7章の風呂場の事件でその前半の頂点に達する。ここで第9章、8回目の登場を迎え、那美さんは再び落ち着いた女のようになった。躁鬱気質というのか循環気質というのか、何と呼ぼうが本人にも画工にも(作者にも)関係したことではないが、これまでずっと那美さんを見てきた画工は、かなり混乱しているようにも見え、また至って平気なようにも見える。つまり分裂しているとも言えるが、余計なことは考えないのが「非人情」である。ここまで来てだんだん分かってくるが、「非人情」というのは結局後の「則天去私」のことではないか。
 ある朝(晩でも)娘が突然盲いたとして、大いに驚いて右往左往するのが「人情」である。普通の人は原因(らしきもの)を1つでも2つでも見つけようとする。無関心、赤の他人の冷たい態度で驚ろかないのは「不人情」である。「非人情」は違う。非人情は驚ろくという(感情が内から外へ向かう)行為自体を封印する。私の感情を封印する。不人情ではなくて、喜怒哀楽の外にいるから、驚ろきも悲しみもしない。驚ろきや悲しみを突き破ったところにいるとも言える。それが「非人情」である。してみるとこれは、晩年の漱石の謂う「則天去私」ではないか。この喩えで言うと、娘の眼病に取り乱さないのは冷酷・身勝手とも言えるし、自分の娘と世間の娘を区別しない公平・摯実な人とも言える。

 画工と那美さんによる会話で埋められる第9章であるが、この章が登場人物のセリフ①で始まっていることで、『草枕』の構成について思い当たることがある。それは第5章の冒頭の、②で始まる一文である。

「失礼ですが旦那は、矢張りやっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一言葉でわかりまさあ」(第5章冒頭)

 ここからが『草枕』の第2部であろう。そして第9章①が第3部の始まり。ともにセリフで始まっている。『草枕』は3部構成ということになるが、第1章(第1部)の始まり「山路を登りながら」は周知の通りセリフではない。(地の文をすべて画工の独白と見れば、セリフでないとも言い切れないが。)その代わり第2章が一応セリフ③で始まっている。他の10個の章は人物のセリフで始まっていない。

「おい」と声を掛けたが返事がない。(第2章冒頭)

 人物のセリフで章や連載回を始める、あるいは終えるというやり方は、もちろん効果的でよく使われる手法であるが、漱石作品でも晩年になって目立つようになった。『道草』、とくに『明暗』の頃になって、極め台詞ではないが、連載回が印象的な台詞で締め括られることが多くなった。『道草』以降、章分けをしなくなったことも関係しているのかも知れない。
 それで『草枕』全13章を、全3部に分かつと仮定して、那美さんの登場を主眼に一覧表にしてみると、

◇第1部
第1章 山路を登りながら、こう考えた
第2章 「おい」と声を掛けたが返事がない。
第3章 1回目(歌う女)2回目(侵入者)3回目(待伏せ)
第4章 4回目楊柳観音5回目青磁の羊羹)

◇第2部
第5章 
「失礼ですが旦那は、矢っ張り東京ですか」
第6章 6回目(振袖披露)
第7章 7回目(浴場事件)
第8章

◇第3部
第9章 
「御勉強ですか」と女が云う。8回目(個人教授)
第10章 9回目(鏡が池事件)
第11章
第12章 10回目
(白鞘の短刀)11回目(野武士)12回目(久一への餞別)
第13章 13回目(成就)


 那美さんの登場シーンを回次別に色分けしてみた。
・黒字 那美さんはただ登場して、画工にその姿を見せているだけ。画工と言葉を交わすことはないが、画工はそれなりにびっくりさせられている。
赤字 同上。意表を衝く登場の仕方は変わらないが、その中でもとくにエキセントリックなもの。画工だけでなく読者もびっくりさせるようなシーンになっている。各部に均等に1回ずつ計3回、眼光、裸体、投身とそれぞれユニークで突飛なやり方で画工を降参させる。
緑色 那美さんが比較的まともな女として普通に描かれている登場回である。画工との会話も含まれるが、会話のボリュームもまたバラエティに富む。第2部では那美さんの声はまったく聞かれない。第3部は、何とか持ちこたえようとする那美さんが、最後でやっと安定したらしいという、いわゆる統合の章と見るべきか。