明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 21

317.『草枕』目次(8)第5章――名前のない登場人物


第5章 まるで浮世床 (全4回)

1回 髪結床の親方は元江戸っ子
(P57-2/「失礼ですが旦那は、矢張(やっぱ)り東京ですか」「東京と見えるかい」「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一言葉でわかりまさあ」「東京は何所だか知れるかい」「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え? それじゃ、小石川? でなければ牛込か四っ谷でしょう」)
髪結床は神田松永町の出身で癇性でおしゃべり~しかも酔っ払っていた~石鹸なしに逆剃をかける

 前回画工が那美さんに「東京に居た事があるだろう」と言ったことの裏を返すような髪結床の親爺のセリフ、「何でも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え? それじゃ、小石川? でなければ牛込か四っ谷でしょう」は、漱石作品のすべての男の登場人物に当てはまりそうで微笑ましい。しかし「言葉でわかる」というのは東京生れの東京育ちを指すのだろうから、やはり那美さんは該当しないようである。
 同じ親爺の「こう見えて、私(わっち)も江戸っ子だからね」は、「御国はどちらでげす、え? 東京? 夫りゃ嬉しい、御仲間が出来て……私もこれで江戸っ子です」(『坊っちゃん』第2章、野だのセリフ)のフォローである。漱石は2作品を跨いで裏を返している。

2回 志保田の出返り娘はキ印
(P60-15/「旦那あ、余り見受けねえ様だが、何ですかい、近頃来なすったのかい」「二三日前来た許り」「へえ、どこに居るんですい」「志保田に逗ってるよ」「うん、あすこの御客さんですか。大方そんな事たろうと思ってた。実あ、私もあの隠居さんを頼て来たんですよ。――)
髪結床は那古井の宿の隠居と東京で一緒だった~旦那あの娘は面はいい様だが本当はキ印しですぜ~本家の兄と仲が悪い

 おそらく那美さんは親と一緒に東京に住んでいた時期があるのだった。髪結床の親爺はそこで那美さんの父親と知り、その尻にくっついて那古井まで移って来た。読者はやっと画工の推測が(その根拠は相変らず明らかにされないものの)当たっていたことに得心する。
 そして那美さんの健康状態についての第3回目。髪結床の親爺が遠慮のないところを暴露する。画工は例によって熱心に誘導尋問する。


3回 納所坊主泰安の災難
(P64-13/「そうか、急勝だから、いけねえ。苦味走った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。――おや待てよ。口説たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。すると――こうっと――何だか、行きさつが少し変だぜ。・・・」)
観海寺の泰安が那美さんに付け文~那美さん読経中の破天荒~駘蕩たる春光と髪結床は対照の妙か

 生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。身を斜にしてその下をくぐり抜ける燕の姿が、ひらりと、鏡の裡に落ちて行く。向うの家では六十許りの爺さんが、軒下に蹲踞まり乍ら、だまって貝をむいて居る。かちゃりと、小刀があたる度に、赤い味が笊のなかに隠れる。殻はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎を向へ横切る。丘の如くに堆かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣か、馬鹿か、馬刀貝か。崩れた、幾分は砂川の底に落ちて、浮世の表から、暗らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末を考うる暇さえなく、唯空しき殻を陽炎の上へ放り出す。彼れの笊には支うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑かと見える

 風景画に(意図的に)人物を描き入れる画家がいる。北斎ではない。例えば印象派などの西洋絵画の話としてである。漱石は描き入れない方である。漱石が人を描くときは、小説の展開に必要なので、はっきりその人物を活写する。『草枕』のこの叙景は漱石としては例外に属する。貝を剥く爺さんは風景に溶け込んで、ふつうなら漱石はこんな情景描写に人は配さない。爺さんが活字になることはない。おそらく「非人情の旅」という宣言にこだわったがための緊急配置であろう。

 ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤も此熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれは此所へ降りるのだそうだ。見た所では大森位な漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つ許り積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立って居た鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧は茫やりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額程な町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。所へ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃えて御上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校は是から汽車で二里許り行かなくっちゃいけないと聞いて、猶上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をして居た。(『坊っちゃん』第2章冒頭)


 これは風景画ではないが、それに近いものではあろう。これだけの文章に人物は十数名出て来る。全員エキストラとはいえ物語の進行に必要な人間である。漱石が人物を描くときはこのように描くのが普通である。
 ところで風景画に人物が点描されている上記引用文の『草枕』の方は、読点が19箇所数えられる。『坊っちゃん』の方の引用文は17箇所である。それでも多い方である。『草枕』の該当文節のボリュウムを勘案しても、『草枕』のこの部分の読点がいかに多いかが分かる。風景描写に人物が入っている例としてこの文章をお手本にした作家(ないし作家の卵)は、おそらく知らず知らず読点(の数の多さ)まで真似したことであろう。

4回 観海寺の小坊主了念
(P68-11/こう考えると、此親方も中々画にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべき所を、わざと尻を据えて四方八方の話をして居た。所へ暖簾を滑って小さな坊主頭が「御免、一つ剃って貰おうか」と這入って来る。)
了念登場~泰安は生きて修業中~石段を上がると何でも逆様

 こう考えると、此親方も中々画にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべき所を、わざと尻を据えて四方八方の話をして居た。

 画工が長居したのはもちろん暇だからであるが、画や詩のためというよりは、宿の嬢様のゴシップのためであろう。もっとも画工の関心は那美さんが画になり詩になる、あるいはならないことであるから、まんざら嘘を書いているわけでもない。それどころか親方に加えてもう1人、春風を突き破る勢いの、生意気な小坊主を登場させる。親方には名前がないが小坊主には了念という名前が(なげやりに付けたにせよ)ちゃんとある。

「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだ筈だが」
「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。今に智識になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印は矢っ張り和尚さんの所へ行くかい」
「狂印と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂だ。行くのか、行かねえのか」
狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る
「いくら、和尚さんの御祈祷でもあれ許りや、癒るめえ。全く先の旦那が祟ってるんだ」
あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる
石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう。――さあ剃れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」

 漱石の若者は生意気になりがちである。女中も時々そんなふうになるが、漱石はわざわざ「小女郎」と書いて分かりやすくしている。年を取るとさすがに描き方は変わるが、「画にも詩にもなる」というのは褒め過ぎであろう。
 床屋の親方は「詩人」かも知れないが名前のない世俗の人である。そして那美さんを病気扱いしている。茶屋の婆さんも源さんも同じ。(源さんは馬方・馬子と書いてもいいのだが、より写実的に、たまたま源兵衛と名付けられただけである。下女をお三と書くのと同断である。ちなみに坊っちゃんの出自たる源氏は騎馬の民であるが、漱石の中では馬から自然に源さんという名が導かれたのだろう。)
 名前のない世界の人間が那美さんをキ印扱いする。名前の付けられている人たちの世界では那美さんは正常とされる。武士の常識は長屋の非常識。寺の中は全員名前が付いている。あんな事件があったにもかかわらず、寺の中では那美さんは正常とされる。一般的には寺は世俗の域外であろうが、漱石にとって坊主は世俗のチャンピオンである。寺の外ではキ印。漱石は明らかに寺の外の人間である。画工は果して寺の中へ取り込まれるのであろうか。画工に名前がないことだけは確かであるが。 

草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)