明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 10

177.『友達』(10)――『友達』のカレンダー


 『行人』は『彼岸過迄』全118回のほぼ1年後をなぞり、大正元年12月~大正2年4月まで『友達』『兄』『帰ってから』計115回が連載されて、病のため中断した、というより作者のつもりでは(『明暗』と異なり)ほぼ書き終わっていた。
 快癒後再開して大正2年9月~11月、『塵労』52回が書き足された。『塵労』の分だけ『彼岸過迄』(や『門』)よりボリュームが増した。その分不統一感も増したというのが、あまり芳しくない定説になっているようだ。
 一方『明暗』『猫』に次ぐそのボリュームゆえに(『虞美人草』より長い)、また一定の人気も有しているのではないか。(後代の)ファンにとっては(尺が)長いということは、それだけで充分有り難いことなのである。より大きなピラミッドに人々の人気が集まるように。

 『行人』は珍しく年次を特定する記述がない。といってわざと曖昧にしているふうもないから、とりあえず漱石が大阪・和歌山へ行って旅先で長期入院した明治44年夏の出来事として、カレンダー(スケジュール表)を作成する。もちろん明治45年(大正元年)のこととしても何の問題もないが、その年であれば明治天皇崩御も控えており、そこは次回作『心』が担うのであろう。

 梅田の停車場(ステーション)を下りるや否や自分は母から云い付けられた通り、すぐ俥を雇って岡田の家に馳けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼が果して母の何に当るかを知らずに唯疎い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪うたのには理由があった。自分は此処へ来る一週間前或友達と約束をして、今から十日以内に阪地で落ち合おう、そうして一所に高野登りを遣ろう、若し時日が許すなら、伊勢から名古屋へ廻ろう、と取り極めた時、何方も指定すべき場所を有たないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。(『行人/友達』1回冒頭)

 親友との旅行の計画に故障が生じる成行きは、『門』の宗助と安井を彷彿させる。『門』の場合は悲劇の遠い始まりであったが、二郎と三沢の場合もまた悲劇の予兆か。あるいは喜劇の幕明けか。
 二郎の到着時には岡田が家で迎えた。遅れてお兼さんが買い物にでも行っていたのか、熱い日差しの中を帰って来た。翌日から(ほぼ1週間)ずっと岡田は出勤しており、この日が日曜だった可能性は高いが、であれば岡田は梅田駅へ出迎えに行くべきではなかったか。天下茶屋へは電車も通じており、岡田は毎日それに乗って、少なくとも梅田の手前までくらいは通勤している筈である。二郎はそれと知らずに俥を雇って、後で馬鹿らしいと悔やんだ。二郎の旅程の気ままさを優先したのだろうが、充分練り込んだであろう小説のスタートにしては、二郎でなくとも悔やまれるところ。『行人』はおそらく、日曜日に日曜という弁明のなかった漱石唯一の小説であろう。そんな細かいことをと言う勿れ。ルーチンを守らないと後でツケがまわって来ることが多いのである。

 一応物語の開始(二郎の天下茶屋到着日)を7月16日(日曜)としてみる。夏休みであることは間違いないが、台風に遭遇したこと、友人たちとの旅行が既に始まっているような記述から、物語に(大学の)夏休みの序盤~中盤を充てる。
 二郎は日曜から金曜あるいは土曜まで、1週間近く岡田の厄介になった。前半の日程は問題ない。時間割表を眺めて半生を暮らした漱石は、「翌日(よくじつ)」(第5回)「翌日(あくるひ)」(第8回)と、読み方まで変えて丁寧に記述している。しかし週半ばになると、話が込み入ってくるのか、さすがに簡単にはいかない。

 自分は三沢の消息を待って、猶二三日岡田の厄介になった。実をいうと彼らは自分の余所に行って宿を取る事を許さなかったのである。自分は其間出来る丈一人で大阪を見て歩いた。・・・(同10回冒頭)

 ・・・自分は此二三日の間に、とうとう東京の母へ向けて佐野と会見を結了した旨の報告を書いた。(同10回)

 この「猶二三日」というのが、日録のようにただ2、3日の経過だけを示すのか(さらにもう1泊あってもよいのか)、それとも結果を振り返っても2、3日のうちに岡田を引き払ったのか、どちらとも取れそうな記述であるが、とりあえず続きを読むしかない。

 自分は此手紙を出しっ切にして大阪を立退きたかった。岡田も母の返事の来るまで自分に居て貰う必要もなかろうと云った。
「けれどもまあ緩くりなさい」
 是が彼の屡々繰り返す言葉であった。夫婦の好意は自分によく解っていた。同時に彼らの迷惑も亦よく想像された。夫婦ものに自分の様な横着な泊り客は、此方にも多少の窮屈は免かれなかった。自分は電報のように簡単な端書を書いたぎり何の音沙汰もない三沢が悪らしくなった。もし明日中に何とか音信がなければ、一人で高野登りを遣ろうと決心した。(同11回冒頭)

じゃ明日は佐野を誘って宝塚へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰をしてくれるのが苦になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんに済まない様な気がした。・・・(同11回)

 自分は折角の好意だけれども宝塚行を断った。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、一寸電車に乗って一人で行って様子を見て来ようと取り極めた。岡田は「そうですか。文楽だと好いんだけれども生憎暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。
翌朝自分は岡田と一所に家を出た。・・・(同11回)

三沢の便りは果して次の日の午後になっても来なかった。気の短い自分には斯んなズボラを待って遣るのが腹立しく感ぜられた、強いても是から一人で立とうと決心した。
「まあもう一日二日は宜しいじゃ御座いませんか」とお兼さんは愛嬌に云って呉れた。・・・(同12回冒頭)

 宝塚に独りで行ったのはいい。午には帰ったのだろう。それもいい。問題は①から②へのつなぎをどう解釈するかである。翌朝宝塚(①)。連載回を更新して、「次の日の午後」(②)というのは、ふつうに考えれば「宝塚の次の日」を指すところか。しかしここではせっかちな漱石に成り代わってよく(11回~12回の)文章を読むと、宝塚に行った日の午後と「果して次の日の午後になっても」の午後とは、同じ時を指していると読んだ方が合理的ではないか。作者の頭は(連絡を寄越さない)三沢の方へ振れているのである。

 お兼さんは立ちながら、「まあ好かった」と一息吐いたように云って、直自分の前に坐った。そうして三沢から今届いた手紙を自分に渡した。自分はすぐ封を開いて見た。
「とうとう御着になりましたか」
 自分は一寸お兼さんに答える勇気を失った。三沢は三日前大阪に着いて二日ばかり寝た揚句とうとう病院に入ったのである。自分は病院の名を指してお兼さんに地理を聞いた。お兼さんは地理丈は能く呑み込んでいたが、病院の名は知らなかった。自分は兎に角鞄を提げて岡田の家を出る事にした。(同12回)

 二郎はやっと引き揚げた。論者の計算によると宝塚行の日は金曜だから、二郎は金曜のうちに岡田の家を出たと考えたい。土曜であれば二郎が立ち去る前に岡田が帰って来る危険がある。次項でその計算結果に基づくスケジュール表を書いてみる。