明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 11

178.『友達』(11)――『友達』のカレンダー(つづき)


《二郎のスケジュール表》

明治44年
7月16日(日)三沢と約束「十日以内に阪地で落ち合おう」
7月17日(月)三沢諏訪木曽旅行へ出発。
7月18日(火)二郎京都旅行へ出発。京都に4、5日逗留。
7月23日(日)二郎天下茶屋の岡田の家に到着。(以上1回)
7月24日(月)翌朝岡田と一緒に出る。午に三沢の葉書到着「一両日遅れる」
        夕食時お貞さんと佐野の話。(5回~7回)
7月25日(火)午で岡田早退帰宅。浜寺での会食。4時料亭引揚げ。(8回~9回)
7月26日(水)三沢との約束の日。尚2、3日岡田家に滞留することになる。
        夕方佐野が浴衣がけでやって来た。(10回)
7月27日(木)母に手紙を出す。結婚はほぼ決まり。三沢連絡なし。
        翌日の宝塚観光を断って、もう大阪を発つ決心をする。(11回)
7月28日(金)朝岡田と一緒に出て一人で宝塚へ行く。(11回)
        午後出立間際に三沢の手紙届く。
        岡田の家を引揚げ夕方三沢の病院へ。(12回)
        面会。朝派遣されたばかりの三沢の看護婦と話す。(13回)
        その晩は三沢の宿泊所へ。夜三沢からの伝言電話事件。(14回)

 二郎は日曜から金曜まで、5泊6日で岡田の厄介になった。もちろん前項で述べたように土曜の可能性もあるが、もし引揚げが土曜であれば、

・水曜に「猶二三日」と書いていること。(10回)
・金曜に宝塚に出掛けた(であろう)あとの(丸1日分の)記述がないこと。(11回)
・朝出勤したであろう岡田が、夕方まで帰宅していないこと。(12回)

 から、ここではやはり金曜説を採りたい。

三沢の便りは果して次の日の午後になっても来なかった」(12回冒頭)という記述全体が、(日めくり)カレンダーを1枚めくるのではなく、その前の「翌朝自分は岡田と一所に家を出た」(11回)の「翌朝」に直接係って来るのである。二郎は前の晩に一向連絡して来ない三沢に腹を立てた。漱石はその腹立ちのまま「翌朝」と書き、その状態を保ちつつ「果して次の日の午後」と書いた。つまり「翌朝」と「次の日の午後」は同列だったのである。

 これを三沢の側から検証してみよう。三沢もまた半分漱石であるから、東京で日曜に「十日以内に阪地で落ち合おう」(1回)と約したからには、翌週水曜には大阪入りを二郎に伝えなければならない。あるいは翌週水曜までに大阪入りすればよい。月曜に「一両日後れるかも知れぬ」(6回)というという葉書を出した真意は謎であるが、週末の入院を予見したわけはないから、ここはせっかちな三沢が早くも月曜に、「到着は水曜くらいになる」と律儀に連絡して来たと見ていいだろう。二郎は水曜・木曜と待って、木曜の夜にはもう待ち切れなくなった。二郎もまた三沢に負けずせっかちであった。
 それはともかく、三沢が水曜に到着したのなら、その日が約束の十日目である以上、とりあえず二郎に一報を入れたはずである。従って三沢の大阪到着は火曜だったと思われる。火曜だったからこそ、明日でいいと思ったのであろう。約束はもちろん厳密なものではない。三沢もズボラなところのある男かも知れない。しかし書いているのは他ならぬ潔癖症漱石である。気にならないわけがないのである。
 つまり三沢は火曜の午後に着いて、水曜に葉書なり電報を打てばいいと思っていた。しかるに友人や芸者との深酒によって、火曜の夜はどこかへ吹き飛んでしまった。胃を悪くした三沢は水・木と丸2日間寝込み、金曜の朝意を決して入院したというわけである。そしてすぐ二郎に手紙を書いた。
 宝塚から帰って、午後にお兼さんの手から手紙を受け取った二郎は、すぐ荷物をまとめて病院へ駆け付けた。三沢の看護婦は当日朝に派遣されて来たばかりなので、詳しいことは知らなかった。

 前項と重複するが、まず三沢の手紙をもう一度読んでみよう。

 お兼さんは立ちながら、「まあ好かった」と一息吐いたように云って、直自分の前に坐った。そうして三沢から今届いた手紙を自分に渡した。自分はすぐ封を開いて見た。
「とうとう御着になりましたか」
 自分は一寸お兼さんに答える勇気を失った。三沢は①三日前大阪に着いて二日ばかり寝た揚句とうとう病院に入ったのである。自分は病院の名を指してお兼さんに地理を聞いた。(『友達』12回再掲)

 ①の内容は、火曜に着いて、2日間ダウンして、それから入院した、である。
・①の解A:火曜に着いて水・木と寝込んで金曜に入院した。
・①の解B:火曜に着いて火・水と寝て木曜に入院した。

 いずれにせよ到着が「3日前」火曜であることは動かない。入院は木・金のどちらであろうか。
 二郎がめでたく三沢と再会したのは金曜であるが、その夜のうちに三沢の宿の下女から次のような確定情報を聞いている。

 自分は給仕の女に三沢の事を聞いて始めて知った。②彼は二日此処に寝た揚句、三日目に入院したように記憶していたが実はもう一日前の午後に着いて、鞄を投げ込んだ儘外出して、其晩の十時過に始めて帰って来たのだそうである。着いた時には五六人の伴侶がいたが、帰りにはたった一人になっていたと下女は告げた。(同14回)

 ②の内容は、(2日間でなく)3日間宿所に寝て、(3日目でなく)4日目に入院した、と読める。火・水・木と宿所に寝て、金曜に入院した。三沢は1日記憶違いをした、と漱石は言いたげであるが、金曜に入院したのなら、①の解釈にA案を採用すれば済むことである。三沢の記憶違いでも手紙の書き間違いでもない。

 ①の「三日前大阪に着いて二日ばかり寝た揚句とうとう病院に入った」を活かすように②をリライトすると、「実はもう一日前の午後に着いて、その日は深酒をした。二日此処に寝た揚句、三日目に入院した」で何の問題もない。いずれも「火曜に着いて、水・木2日間寝た後に、金曜に入院した」ということである。到着日の火曜、三沢は大酒を飲んで(午前様でなく)夜10時に帰館した。その程度でその日の記憶があやふやになってしまったというのは、酒の飲めない漱石ならではの忖度であった。でも結果的に間違ってはいなかったというのも実に漱石らしい。酔って間違ったふりをしようにも、実際には酔ってないのだから、間違いようもなかった。1日記憶違いをしたように書こうとして、その実つい正しく書いてしまった。融通が利かないので「正しく」間違えることが出来ない。真の漱石らしさの発露であろう。

《三沢のスケジュール表》

明治44年
7月16日(日)二郎と約束「十日以内に阪地で落ち合おう」
7月17日(月)三沢諏訪木曽旅行へ出発。(以上1回)
7月24日(月)朝二郎へ謎の葉書「一両日遅れる」(6回)
7月25日(火)午後三沢大阪入り。深酒して夜10時帰館。
7月26日(水)三沢宿所でダウン1日目。
7月27日(木)三沢宿所でダウン2日目。
7月28日(金)朝入院。二郎に手紙を書く。看護婦も到着。
        午後二郎病院着。(以上12回~14回)

 重ねてもう1つ。前述した月曜の「電報ふう葉書」の謎であるが、曜日を考えずに読み流した読者は、三沢が大阪入りした晩のアクシデントを受けての一報だと、つい思ってしまう。しかし火曜の深酒を月曜に予言できるものでもなかろうから、これはもしかすると漱石もそのように勘違いしたのかも知れない。上記のようなスケジュール表を、漱石が手許に置いて執筆したとは思えないから、その可能性は充分ある。だからどうだと言うわけではないが。