明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 17

80.『それから』ミステリツアー(2)――二つの誤記事件


漱石「最後の挨拶」番外篇》

20.『それから』ミステリツアー(承前)

 以上のように『明暗』と『それから』を比べてみて、固有名詞が書かれようが書かれまいが、漱石の場合はその小説世界の現実感にほとんど影響がないことが分かる。明白といえば明白、曖昧といえば曖昧。ただひとつ確かなのは、漱石の頭の中にはそれらの場所は具体的な映像を伴なって厳然と存在していることだろう。それはどの作家も同じであろうが、漱石は自分の小説を、固有名詞を書き倒すか秘匿するか、はっきり二分した。しかし作品の雰囲気は(少なくともそのことによっては)変わらない。読者はいずれの場合もそこに同じ漱石の顔を見るだけである。漱石は始めからある方針を以って書き始めるのであろうか。それとも書いてみるまでは本人も分からないのであろうか。いずれにせよ固有名詞を避けたからといって、後代それを一つ一つ糾されようとは、漱石は夢にも思っていなかったに違いない。
 しかしここでせっかく『それから』を掘り下げてきたついでに、割と知られる『それから』の二ヶ所の「誤記事件」なるものについて考えてみよう。

「いや、僕が彼方へ行っても可い」
 歯切れのわるい返事なので、門野はもう立って仕舞った。そうして端書と郵便を持って来た。端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。(『それから』1ノ4回)

 これはふつう漱石の誤記とされるものであるが、この部分の「表と同じ乱暴さ」を「裏と同じ乱暴さ」と訂正した『それから』の版を見たことがない。(同様に「裏に裏神保町」が正しいとする校訂者もいないようである。)実際にどちらかの「表」を「裏」と置き換えたところで、不自然さは増しこそすれ決して改善されないからである。
 思うに代助はこのとき葉書の通信面(裏面)を見ているのであり、当然漱石もその面を見ているので、見ている面が一応「紙の表側」である。紙の表側を見ている人間は(鏡をあてがわない限り)同時に裏側を見ることは出来ない。裏側を見るには紙をひっくり返さなければいけない。代助は「紙の表側」の通信面を読み、その文面に「ただちに表面へ投宿」とあるので、おもむろに葉書をひっくり返して発信者の所番地を確認した。その字がつい今まで読んでいた「紙の表側」の通信面と同じように乱暴な字であった、という意味で「表と同じ乱暴さ加減」と書いたのである。
 つまり漱石に言わせれば、「(葉書の)表面に書いてある差出人ナニガシが、(今自分の見ている)表側と同じ書き方であった」ということなのだが、書き分けると字面が無粋になるのを嫌って、両方とも簡単に「表」にしたのであろう。
 漱石はリリースされた本は、文字通り自分の手から離れた存在であるとして、その中に矛盾があるように見えたとしても、加筆訂正等は行なわない作家であった。しかし決して誤植に無関心だったわけではない。書き間違いに頬被りするタイプでもない。書き間違いはむしろ気にする方だったろう。校正の重要さは十分認めていたのである。
 この場合は理屈から言えば右の部分は、

表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が、同じような乱暴さ加減で書いてある」と改めた方が無難であろうが、現行の本文は不思議な簡潔の美を放っており、漱石も筆を入れなかったのであろう。

 このケースとは反対に、長井の家族を紹介したくだりで、

 代助の父は長井得といって、御維新のとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入って、・・・
 誠吾という兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今では其所で重要な地位を占める様になった。梅子という夫人に、二人の子供が出来た。兄は誠太郎と云って十五になる。妹は縫といって三つ違である。
 誠吾の外に姉がまだ一人あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫と共に西洋にいる。誠吾と此姉の間にもう一人、それから此姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があったけれども、それは二人とも早く死んで仕舞った。母も死んで仕舞った。
 代助の一家は是丈の人数から出来上っている。そのうちで外へ出ているものは、西洋に行った姉と、近頃一戸を構えた代助ばかりだから、本家には大小合せて五人残る訳になる。(3ノ1回)

 漱石は原稿では四人、わざわざ「よつたり」とルビを振って書いている。単に数え違いをしたのか。新聞にそのまま掲載されたのはいいとして、出版時の校正者はそう思って五人に直した(のだろう)。漱石も別段不都合を唱えなかった。爾来五人で本文が確定しているようである。しかしここでは漱石は意図的に四人と書いたように思われる。嫂の梅子は長井家の人間ではないからである。登世の亡霊などと言うつもりはないが、一族の生き残りという観点から見ると、他家から来た嫁なり養子というものは、確かに一族ではない。漱石はいったん本になってしまったらもう苦情を言う人ではなかったが、おそらく「四人」の正当さを主張すると自身の(養子として家から出たり入ったりという)鬱陶しい事情も思い出さないわけにはいかないので黙っていたのであろう。
 以上、『それから』の「葉書の表事件」と「四人(よつたり)事件」は決して単純な誤記ではないというのが論者の意見である。そんなことより『それから』では冒頭代助の家を急襲した平岡が、俥代を払うのに宿にがま口を忘れたから20銭貸してくれと婆さんに言っていたのに、外で一緒に食事したあと電車で帰って行ったことの方がひっかかる。電車賃はどうしたのだろう。また代助から借りたのか。代助は銅貨を持ち歩くような男だろうか。平岡は最初から俥代は代助に出させるつもりで玄関ではああ言ったがその実背広のポケットに煙草銭くらいは忍ばせていたのか。論者の推測は平岡が俥代を払うとき15銭に値切って5銭の電車賃を確保していたというものである。漱石は(江戸市民の常として)概して金には細かくこだわる人だが、それはあくまで自分に即した話であって、(小説の中でも)他人のこととなると(この場合は平岡)案外関心を示さないことがある。