明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 28

30.『三四郎』のカレンダー(7)―― 教会の前の分かれ道


 それはともかく、ここでようやく前項②③④⑤(7ノ1回~7ノ6回)、第7章の暦の推定が可能になる。

 第7章。広田先生を訪ねる。与次郎は前の日から帰っていない。広田先生の御談義。偽善者と露悪家。与次郎が原口を伴なって帰宅。原口のご託宣。団扇を翳す美禰子の絵の話。蕎麦屋での飲酒。母の手紙。――11月20日(火)頃。

 広田先生宅の帰り道で三四郎が一人で蕎麦屋に入ったのは、少なくとも与次郎に金を貸して始めて蕎麦屋で飲んだ日(11月17日)より後の話である。そして帰宅したらまた母から手紙が来ていたというのだから、前便の早めの仕送り(11月16日)を考えると、この日は11月20日というよりは月末に近い日と考えるのがふつうであるが、後に述べる理由により、あえて20日とした。母の手紙が続いた理由は分からないが、月末までには仕送りをする約束であるから、11月は仕送りは済んだものの、ついいつものように手紙が書きたくなったものか。

 第9章。精養軒の会。母へ無心状。4丁目の夕暮。ヘリオトロープ。野々宮の御談義。よし子の縁談。三四郎は臨時の仕送りを受け取り、美禰子に返す算段をする。――12月上旬。

 第10章。広田先生の病気。ハイドリオタフヒア。子供の葬式。原口の制作。三四郎の告白。美禰子の婚約者登場。――12月中旬。

①「・・・こんだ一つ本当の肖像画を描いて展覧会にでも出そうと思って」
「誰の」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布には移(うつり)が悪くって不可ないが、あの女や野々宮さんは可い。両方共画になる。・・・兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれようものなら、そう此方の自由に行かなくなるかも知れないから」(『三四郎』7ノ5回/再掲)

 ②「原口さんの画を御覧になって、どう御思いなすって」
 答え方が色々あるので、三四郎は返事をせずに少しの間歩いた。
「余り出来方が早いので御驚ろきなさりゃしなくって」
「ええ」と云ったが、実は始めて気が付いた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像を描く意志を漏らしてから、まだ一ヶ月位にしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、夫より後の事である。・・・(『三四郎』10ノ8回)

 引用文①の原口の発言は第7章、11月20日(火)と想定した。
 だから②の「1ヶ月位」を「1ヶ月弱」として当てはめて、第10章のシーンを出来るだけ前倒しすると、ぎりぎり12月17日頃が求められる。
 前々項で漱石は菊人形の日を天長節の日(引越の日)と取り違えたと書いたが、そうだとすると漱石の暦のある部分では、11月前半においてすでに1週間程度の「誤差」が生じていることを考慮しておかなければならない。
 それを加味して、第10章を12月17日の1週間前、12月10日頃とすると、おおむね丸く収まる。
 繰り返すが、原口の話・蕎麦屋の飲酒・母の手紙という第7章を、常識的な日程である11月25日頃に比定すると、その1ヶ月後、三四郎が原口のアトリエに行ったときはすでに12月25日頃になってしまって、もう物語は終わっているのである。

 続く第11章は、第7章と同じく、美禰子もよし子も登場しない。緩徐楽章というのだろうか、物語も暦も進行はしない。偉大なる暗闇の顛末。広田先生夢の女。ただ、与次郎が文芸協会の切符を売っていることが、最後のエピソードへ繋がる。――同じく12月中旬。

 そしていよいよ最終楽章、第12章である。

③ 演芸会は比較的寒い時期に開かれた。歳は漸く押し詰まって来る。人は二十日足らずの眼の先に春を控えた。(『三四郎』12ノ1回冒頭)

④ ・・・一日目に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目の切符を持っていた。与次郎が広田先生を誘って行けと云う。切符が違うだろうと聞けば、無論違うと云う。然し一人で放って置くと、決して行く気遣がないから、君が寄って引張出すのだと理由を説明して聞かせた。・・・(12ノ1回)

⑤ 明日(あくるひ)は少し熱がする。・・・
「なに、昨夕は行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出て来て、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」(12ノ4回)

⑥ 晩になって、医者が来た。・・・
 翌日眼が覚めると、頭が大分軽くなっている。・・・(12ノ6回)

 よし子が見舞いに来た。

⑦ 三四郎は其日から四日程床を離れなかった。五日目に怖々ながら湯に入って、鏡を見た。亡者の相がある。思い切って床屋へ行った。其明る日は日曜である。(12ノ7回)

 ⑧ ・・・三四郎と美禰子は斯様にして分れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。開けて見ると、何時立つとある。(12ノ7回末尾)

 三四郎と美禰子の別れは明治39年12月23日、日曜日である。大学はもう休みに入る。三四郎は早々に帰省した(と思われる)。結局このとし三四郎が受けた仕送りは、9月末・10月末・11月中旬の3回と、野々宮宛の臨時便(11月末~12月初め)の計4回であった。帰省旅費はどうしたのだろうか。書生旅だとしても、(往きと同様)旅館にも泊ったはずであるが。

明治39年12月14日(金) 演芸会一日目。
明治39年12月15日(土) 演芸会二日目。三四郎の孤独。
明治39年12月16日(日) 三四郎寝込む。与次郎来る。医者も来る。
明治39年12月17日(月) よし子見舞いに来る。
明治39年12月22日(土) 入浴。床屋。
明治39年12月23日(日) 会堂(チャーチ)での別れ。(以上第12章)

 小説の終わりは12月後半の日曜日、しつこいようだが明治40年なら12月22日。クリスマスにならないところがミソである。三四郎は教会の前で美禰子に金を返す。

「何時迄も借りて置いてやれ」(『三四郎』9ノ4回)

「だから何時迄も借りて置いてやれと云ったのに。・・・」(9ノ5回)

 三四郎は美禰子との縁を自ら断ち切った。
「人から金を借りたままにしておくのは正しくない」から、貸主の都合や心情に関係なく、友人のアドヴァイスも聞かず、(親に無心してでも)金を返してしまう。漱石らしい癇性であるが、三四郎は作者の言うなりになった、ということであろう。

 だが何とか小説の終わりまで漕ぎ着けた。
 第13章(全1回)はエピローグの章である。1月初め。――新年の(臨時の)丹青会。森の女。