31.『三四郎』のカレンダー(8)―― 広田先生「夢の女」
年次の話はもういいよと言われそうであるが、最後に一つだけ、第11章の広田先生の夢の話について。第10章でついに美禰子の婚約者を登場させ、物語はもう実質的には終わっている。それで気が緩んだわけでもないだろうが、この章では広田先生の奇妙なエピソードが語られる。漱石の初恋・失恋とも結びつけて議論されることも多い夢の章である。
ここでは漱石からはひとまず離れて、明治のカレンダーに特化して検証したいが、広田先生は昼寝をして、20年前に一度逢って忘れられない少女の夢を見る。森有礼の国葬のときの葬列にいたという。「廿年許前」と広田先生は言うが、二度も三度も20年前という言葉は繰り返されるから、まずそれは確実に18年前~22年前のことであると思っていいだろう。
「憲法発布は明治二十三年だったね。其時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。・・・
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「君は慥か御母さんが居たね」
「ええ」
「御父さんは」
「死にました」
「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」(『三四郎』11ノ8回)
憲法発布と森有礼の暗殺は明治22年2月である。翌明治23年が施行であるから、漱石は「憲法発布が明治22年、施行が明治23年、その時森有礼が殺された」と書けばよかったのであるが、この「その時」というのは、前著でも繰り返し述べたが、漱石の文脈では明治23年でなく、その前の文辞たる明治22年を指すのである。
「明治23年」は原稿だけで、新聞掲載の時点で22年に直されているから、ここはまあ漱石の書き間違いとして、明治22年を起点とすると、その18年後は明治40年である。19年後は明治41年である。ここまでが許容範囲。反対に明治39年説を立てるとなると、明治22年は17年前ということになり、20年というにはちと厳しい。
明治23年にこだわると、その18年後は明治41年である。19年後は明治42年であるから、もう『三四郎』は未来小説になってしまう。
もっとも明治41年だとしても、小説の執筆自体が10月初めには終わってしまっているのであるから(大学の講義が始まったばかりであるから)、これから色々拡がって行くであろう三四郎の物語自体が未来に属することになる。明治41年説がすでに未来小説になっているといえる。
第11章を信じれば、物語はやはり明治40年か。明治40年で23歳(数え)の三四郎は明治18年酉年生まれということになる。明治18年生まれの児は明治22年2月だと5歳になったばかり。満年齢でもまず3歳と数ヶ月というところであろう。それとも漱石はこのくだりだけリアルタイムに明治41年の暦を使用して、今が23歳なら明治19年生まれだと言いたかったのか。明治19年生まれなら明治22年2月では満3年未満にはなる。
単に幼いという意味で「赤ん坊」と広田先生は言ったのか。広田先生に言わせれば10歳でも20歳でも赤ん坊だろうが、その広田先生にしても40歳の赤ん坊と、言えば言われる。余談だが。
第6章で今年は例年より暖かいと書かれているが、東京の平均気温の記録を見ると、気温の上昇した年は明治40年である。明治38年と40年が高く、明治39年と41年が低い。11月だけを比べても、はっきり1℃~2℃違う。明治40年説の有効ポイントといえよう。(気象庁の公式記録による)
先の項でも少し触れたが、第3章の三四郎の手紙「今年の米は今に価が出るから売らずに置く方が得だろう」も、明治40年の米価が(その後数年と比べても)おおむねピークをつけていることから、三四郎は夏に収穫を終えた米をあわてて売らずに秋~年末まで取って置けと命じたと解すれば、話の辻褄は合う。売り急いで損をする、というのは漱石にとって妙に身につまされる話ではあった。これまた余談だが。