明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 6

6. 『三四郎幽体離脱の秘技(3)―― こっちと向こう


 前回の話(幽体離脱)で、漱石という人はよくそういう書き方をするよ、という漱石ファンの声が聞こえてきそうである。確かにそれはそうであろう。美禰子は女主人公である。三四郎は主人公(主人物)ではあるが、狂言回しでもある。半分漱石であるが半分漱石でない。野々宮も半分漱石であるが、半分以上漱石でない。広田先生は、こちらは8割方漱石であるが、小説では脇役である。衆目の一致するところ、漱石が『三四郎』で一番趣向を凝らして意図的に造型した人物は、女主人公美禰子であろう。

 丹青会の、建物に入ったばかりの時のシーンで、

 それでも好悪はある。買ってもいいと思うのもある。然し巧拙は全く分らない。従って鑑別力のないものと、初手から諦らめた三四郎は、一向に口を開かない。
 美禰子が是は何うですかと云うと、左うですなという。是は面白いじゃありませんかと云うと、面白そうですなという。丸で張合がない。話しの出来ない馬鹿か、此方を相手にしない偉い男か、何方かに見える。馬鹿とすれば衒わない所に愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならない所が悪らしい。(『三四郎』8ノ8回)

 漱石はこのとき三四郎を離れてちょっとだけ美禰子に寄り添っているようにも見える。「此方(こっち)」という語は、『三四郎』の中で例外的にこのときだけ、美禰子を指して使用されているようである。しかしここでは漱石は、美禰子に乗り移ったというよりは、三四郎と美禰子の中間に立って、語り手らしい余裕をかましていると見るべきであろう。先の「三四郎自分の方を見ていない」とは大いなる差異がある。

 ではもう一度その「三四郎は自分の方を見ていない」の辺りの記述を見てみると、

 先へ抜けた女は、此時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。(むこう)から三四郎の横顔を熟視していた。(『三四郎』8ノ8回)

 漱石はとりあえずは、美禰子から三四郎に戻ろうとしているようにも見える。叙述は美禰子を主体としたままであるが、驚きの「三四郎は自分の方を見ていない」から、少しだけ三四郎に軸足を移している。美禰子は三四郎の横顔をじっと見ているが、「向こうから」見ている以上、漱石の視線は見られている三四郎の方に、より注がれているといえる。しかし「凝視」でなくわざわざ「熟視」と書いている以上、漱石はまだ美禰子に未練がある。あきらめが悪いというのは子供の頃からの漱石の特長ではあるが。

 くどいようだが、上記のくだりは、結局描写の立ち位置はあくまでも三四郎のまま、漱石の筆が美禰子に同情するあまり、つい「自分」という言い方が出てしまったと見るべきか。文法的にはこの「自分」は「女」もしくは「美禰子」であろう。論者はあえてこれらを漱石の技巧と捉えたいが、適当に(何も考えずに)書いている可能性も、漱石の場合なくはない。しかしそれでは話は詰まらない。漱石の文学が百年の命脈を保つ理由が説明できない。ここは漱石の、自然に出る技巧、と思いたい。もちろんこの「技巧」はよく探せば漱石の他の作品にも見ることができるので、それはまた別の機会に検証されることもあるだろう。