明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 8

8. 『三四郎幽体離脱の秘技(5)―― 眠狂四郎


 前項②(野々宮の知らんぷり)について、もう少し補足すると、その最後の部分、

野々宮さんは何とも云わなかった。くるりと後ろを向いた。

 という記述によって、このシーンには漱石らしい決着が付けられている。
 野々宮は嫉妬しているようにも見え、何も感じていないようにも取れる。
 つまり漱石の筆はここでは野々宮の感情に介入することを避け、当然三四郎にもその判断をする暇を与えず、読者の想像に任せるという手法をとったのである。言い方を変えると、野々宮は自己の決断を保留したのである。
 これが一部の評者や読者に、通俗・推理小説・ずるい、というような感じを抱かせる基となったのであろうか。

 漱石は何事も自分では決めない。言質を取られるようなことをしない。これは責任を取りたくない・優柔不断というのではなく(もちろんそれもあるが)、自分が間違っていることを何よりも恐れる漱石の性向から齎されるものである。
 自分が正しいかどうかの判断が何よりも優先される。漱石は自分で正しくないと信じたことは必ず実行することがない。そのために誰の利益にならないことが明白であったとしても、そのために誰もが不利益を被ることが明白であったとしても、それを枉げることをしない。人はこれを純粋・誠実と言い、また変人・自分勝手と言う。

 ところでくどいようだが、前々回までの引用文をもう一度引いてみたい(ここは電子媒体ならではのありがたい所である)。視点を変えてもう一ヶ所、漱石らしい箇所がある。

 ・・・美禰子は、驚いた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって、
「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行って仕舞った。三四郎は立ち留った儘、もう一遍ヴェニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向(むこう)から三四郎の横顔を熟視していた。
「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼んだ者がある。美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている。原口さんの後(うしろ)に、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語(ささや)いた。三四郎には何を云ったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向って、
「妙な連と来ましたね」と云った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と云った。野々宮さんは何とも云わなかった。くるりと後ろを向いた。・・・(『三四郎』8ノ8回~8ノ9回改/再掲)

 傍線を引いた部分、「一間ばかり」と「一間許」の書き分けについて、これがランダムなのかそうでないかは、所詮漱石に聞いてみるしかないのであるが、次回以降の論考のためにも覚えておいてよい漱石の書き癖である。刊本の仮名遣いによってはこの「書き分け」が反映されないケースもあろうが、先にも断ったようにこれは原稿準拠の本文のおかげを蒙る話で、本項もそれを前提に議論を進めている。

 一間ばかり ―― 美禰子にまつわる記述
 一間許   ―― 原口にまつわる記述

 漱石は意図的に書いたのか、それとも特に考えもなく書き流しているのだろうか。

 それから余談だが、同じ箇所を二度も三度も引用したついでに一つだけ付け加えると、この漱石の文章を見て、読点が多いことに読者は気付かれるだろうか。

 美禰子は、驚いた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって、「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行って仕舞った。(『三四郎』8ノ8回/再掲)

 この最初の一文だけでも6ヶ所、いわゆるテンが附いている。『眠狂四郎』で名高い柴田錬三郎の文章も読点が多いが、もしかすると(編集者としても)古今内外の名作を読みまくった柴錬は、国民作家たる漱石の文章(の外形の一部)を見倣ったのかも知れない。純文学を毛嫌いしていた(と公言する)柴錬は、漱石を買っていないようなもの言いをすることもあったが、学ぶべきところはちゃんと(ちゃっかり)取り込んでいたのではないか。

 脱線ついでに柴錬の立場から言うと、読点の多さ(や独特の改行癖)は、もちろん彼の文章のリズムに由来するものであろうが、その直接の源泉は漱石というよりは、まあ太宰治であろう。柴錬は太宰治に対してもその人格を否定するような言辞を残しているが、反面深く私淑していたと思わせる文章もある。
 その太宰治にとって漱石は「俗中の俗」の大家でしかなかったが、両者の体質はよく似ている。似ているからこそ学ぶべきものが無かったのだ。しかしこの話は、また稿を改めたい。