明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 22

24.『三四郎』のカレンダー(1)―― 旅順と大連


 前述したように『三四郎』全117回は明治41年8月~9月の2ヶ月間に書かれた。新聞連載は9月から12月までの4ヶ月間。物語の暦もおおむね連載とリンクして、8月末から12月冬休みの直前まで。エピローグだけは年明けになっているが、これは別物と考えて差し支えない。

 夫は呉に居て長らく海軍の職工をしていたが戦争中は旅順の方に行っていた。戦争が済んでから一旦帰って来た。間もなくあっちのほうが金が儲かると云って、又大連へ出稼ぎに行った。始めのうちは音信もあり、月々のものも几帳面(ちゃんちゃん)と送って来たから好かったが、此半歳許前から手紙も金も丸で来なくなって仕舞った。不実な性質ではないから、大丈夫だけれども、何時迄も遊んで食ている訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里へ帰って待ている積だ。(『三四郎』1ノ1回)

 日露戦争が終わったのは明治38年9月である。漱石は先のことは書かないから、物語の「今」は明治39年・40年・41年の3通り。小説の記述からその特定が出来るか(漱石は嫌がるだろうが)。

 上記引用文をふつうに読むと、この夫の出稼ぎ期間は、

《 ちゃんと仕送りされている月数 > 音信不通の月数 》

 であろう。

 戦争は明治38年9月に終わった。いったん帰宅した夫が再度外地へ行ったのがおそらく明治39年初め。明治39年の1年間は一応仕送りがあったが、明治40年になると音信が途絶えた。そして半年たって女は夫の実家に帰ろうとしている。今は明治40年である。これが常識的な考え。
 あるいは仕送りの期間が2年間だとすると、物語の今は明治41年であるが、とりあえず常識に従って明治40年説を採ってみる。それで第1章と第2章のカレンダーは、次のようになる。

明治40年8月29日(木) 三四郎の出立日(推定)。
明治40年8月30日(金) 物語の始まり。名古屋泊。
明治40年8月31日(土) 東京到着。
明治40年9月1日(日) 三四郎の新生活スタート。
明治40年9月5日(木) 母の手紙。
明治40年9月6日(金) 野々宮の穴倉を訪問。池の女との出逢い。

 三四郎の東上が、暑さの強調される車中の書きぶりから、8月末であることに異論はないだろう。日にちはまあいつでもよいが、ただ三四郎(と女)が名古屋に泊った日は土曜日曜ではあるまい。三四郎が野々宮の研究室を訪ねたのも(池の女と始めて遇ったのも)日曜ではない。

 母の手紙は9月になってからであろう。東京で始めて受け取った母の手紙のくだりは次の通り。

 三四郎が動く東京の真中に閉じ込められて、一人で鬱ぎこんでいるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取った最初のものである。見ると色々書いてある。まず今年は豊作で目出度と云う所から始まって、身体を大事にしなくっては不可ないという注意があって、東京のものはみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届く様にするから安心しろとあって、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出ているそうだから、尋ねて行って、万事よろしく頼むがいいで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云う様な所に野々宮宗八どのとかいてあった。(『三四郎』2ノ1回)

  あくる日は平生よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思ったが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せ旁行って見様と云う気になって、午後四時頃、高等学校の横を通って弥生町の門から這入った。(『三四郎』2ノ2回冒頭)

 学期の始まり際なので新しい高等学校の帽子を被った生徒が大分通る。野々宮君は愉快そうに、此連中を見ている。(『三四郎』2ノ6回)

 第2章は全6回である。第1回が母の手紙の届いた日、第2回~第6回はその翌日で、三四郎は野々宮に同じ日に2度会っているが(間に池の女の回が挟まっている)、高等学校がもう始まっていることから、この章は9月であることがわかる。
 9月分の学資(生活費)は、三四郎が8月何日だかに国を出るときに持たされていたのであろう。次回の仕送りは9月末である。

 与次郎の馬券事件で三四郎が臨時の送金を母親に頼んだのは(第9章ノ4回)、11月末か12月初めのことと思われるから、9月、10月、11月と3回仕送り(毎月25円)したと思ったら、突然30円の無心である。独り暮らしの田舎の母が驚くのも無理ならぬところであるが、金策する与次郎が月末でどこも遣り繰りが付かないと言っていたり、カレンダーそのものの話の辻褄は、とりあえず合っている。