明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 23

25.『三四郎』のカレンダー(2)―― 天長節の呪縛


 しかるにその11月の初旬、広田先生の引越騒動が描かれる第4章で、読者は肩透かしを喰わされる。引越の日は三四郎が里見美禰子と正式に知り合う日であり、それは天長節の日だと漱石は何度も書いているから、その確定日付から逆にたどってみると、

①明治40年10月31日(木) 午後、与次郎に広田先生を紹介される。貸家探し兼散歩。
②明治40年11月1日(金) 午後6時まで講義。与次郎は学校を休んで貸家探し。
③明治40年11月2日(土) 午後3時まで講義。追分で与次郎と出くわす。貸家決まる。
④明治40年11月3日(日) 天長節。引越の日。美禰子との3回目の出会い。

 それで引越当日は次のように書かれる。

 翌日(あくるひ)は約束だから、天長節にも拘わらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入って、への三号を調べて見ると、妙に細長い通りの中程にある。古い家だ。(『三四郎』4ノ9回)

 天長節はもちろん祝日であるが、日曜と重なった場合は(重なってもよいが)、このような書き方にはなるまい。漱石は日曜日のときは日曜と書く。では明治41年か。

①明治41年10月31日(土) 午後、与次郎に広田先生を紹介される。貸家探し兼散歩。
②明治41年11月1日(日) 午後6時まで講義。与次郎は学校を休んで貸家探し。
③明治41年11月2日(月) 午後3時まで講義。追分で与次郎と出くわす。貸家決まる。
④明治41年11月3日(火) 天長節。引越の日。美禰子との3回目の出会い。

 この場合は②の日曜日にしっかり授業があることが致命的。

 残る選択肢はただ一つ。

①明治39年10月31日(水) 午後、与次郎に広田先生を紹介される。貸家探し兼散歩。
②明治39年11月1日(木) 午後6時まで講義。与次郎は学校を休んで貸家探し。
③明治39年11月2日(金) 午後3時まで講義。追分で与次郎と出くわす。貸家決まる。
④明治39年11月3日(土) 天長節。引越の日。美禰子との3回目の出会い。

 明治39年の場合はこのように日付に関しては齟齬がない。といっても漱石自身の想定する年次の、最大の可能性は、「何年でも構わない、小説だからね」であろうが、それでも三四郎の物語は明治39年である、と敢えてここでは言い直しておく。それが漱石の小説であるからには。

 とすると、冒頭の汽車の女の夫は、日露戦争の終わった明治38年9月に旅順から帰ったあと、外地の方が給料がいいからとすぐまた大連に渡り、明治38年12月、明治39年1月、2月、と3ヶ月間仕送りして、留守家族を無駄に安心させたあと、突然3月に音信不通になったのであろうか。

 前項の不等式は、

《 ちゃんと仕送りされている月数 < 音信不通の月数 》

 に変わってしまうが、そうだと言われれば、読者としては納得するしかない。

 そして8月までの半年間、女は最悪の事態を想像するけぶりさえ見せず、爺さんもその楽観主義に同意する。たしかに田舎者に想像力は不要であろう。しかし他人事ながら読者はまず、この夫は事件に巻き込まれた・新しい女が出来た・蒸発・失踪・・・、とにかく夫の身に大ごとの出来したと考えざるを得ない。

 3ヶ月の仕送りの後の大事件。

 汽車の中で女が漏らした身の上話を、聴くともなしに聴いた三四郎が、我知らず似たような境遇に陥る。これでは汽車の女は前述の、三四郎の庇護者たる教師か教誨師どころでなく、三四郎に運命のいたずらをする預言者か占い師ではないか。広田先生が神主に似ているなら、女は巫女ではないか。広田先生が一部西洋人の風貌を有しているとすれば、この女はそれに従う魔女か天使ででもあろうか。

 それはまあ、飛躍した議論であろうが、脱線ついでに、上記仕送りに関連して、『三四郎』でほとんど各章ごとに出現する、三四郎の母の手紙について、1ヶ所だけであるが、ヘンな記述がある。
 それは第4章の5回。前日三四郎は与次郎と広田先生の3人で、貸家探しと散歩を兼ねたような暢気な半日を過ごす。翌日学校へ行くと与次郎がいない。広田先生の貸家探しに専念しているのか。それとも自身の(おそらく金銭がらみの)事情で忙しいのか。三四郎が下宿に帰ると母から手紙が来ている。

 着物を脱ぎ換えて膳に向かうと、膳の上に、茶碗蒸と一所に手紙が一本載せてある。其上封を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れていた。昨日から今日へ掛けては時代錯誤だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭の中へ出て来なかった。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとで緩くり覧る事として、取り敢ず食事を済まして、煙草を吹かした。其煙を見ると先刻の講義を思い出す。
 そこへ与次郎がふらりと現われた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探しで学校所じゃないそうである。
「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、
「急ぐって先月中に越す筈の所を明後日の天長節迄待たしたんだから、どうしたって明日中に探さなければならない。どこか心当りはないか」と云う。(『三四郎』4ノ5回)

 この日は明後日に天長節を控えた11月1日である。前項で述べたように母からの仕送りは毎月月末までに届くことになっているから、三四郎はつい4、5日前に母の書留を受け取っているはずである。(1ヶ月後三四郎は臨時の送金を請求して、届いたと思ったらいつもの書留でなく赤い3銭切手の手紙だったのでがっかりした、とあるから、この11月1日着の手紙が本来10月末に届くべき書留であったとも考えにくい。大金が入っているものを無造作に茶碗蒸しの隣に置かないだろう。)

 したがって三四郎が半月も母のことを忘れていたという話はありえない話である。もっとも仕送りのときの手紙は短いものだったろう。臨時の送金のときの手紙も、野々宮のところへ取りに行けという一言だけであった。金を出すときには、母親といえども急に冷淡になるのであろうか。
 ちなみに11月1日の手紙の方は長い手紙で、おまけに末尾に(卒業したら)御光を貰ってくれという相手方の申し込みが書き加えられてあった。例によってそのプロポーズに対する三四郎の(漱石の)返答は曖昧であるが、まさかそのためにこんな書き間違いをしたわけでもあるまい。