明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 21

23.『三四郎』汽車の女(9)―― 三四郎の無罪判決


 いずれにせよ三四郎は最初の難事件をなんなくやり過ごした、――ように小説は読める。三四郎は後から何度も顔を赫らめるが、それだけのことである。女に対して気の毒に思う、女や女の家族に対して済まなく思うことは、ない。
 三四郎責任能力はない、とさえ漱石は言いたげである。もしかすると本当に三四郎は口の中だけであるいは心の中だけでぼそぼそつぶやいていたのかも知れない。
 妙に一方的な「蚤よけの工夫」も意味がよく分からない。蚤は敷布を畳み込んだ位の高さは簡単に飛び越えるのではないか。
 対するに女はすべてに過不足なくはっきりしゃべっている。間然するところがない。女には珍しく余計な口をきかない。朝女が三四郎に「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と皮肉っぽく言うのも、三四郎の発した言葉の中で唯一他者に伝わったのは蚤よけという一語だけであったからである。女はまるで国語の教師か教誨師のようである。

 してみると女は三四郎にとって始めて遭遇する(他国の)異性というよりは、その反対に三四郎を異性から守る庇護者として登場したのではないか。
 だとすると女が最後に落ちついた調子で言う

「あなたは余っ程度胸のない方ですね」(『三四郎』1ノ4回)

 というのは、まだ色気を去らない女の、半分人をなじった(あるいはからかった)捨て台詞でなく、三四郎に対する年長者の忠告・激励と解すべきであろう。
 郷里の母親なら、手紙に書いて来たように、

「御前は小供の時から度胸がなくって不可ない」(『三四郎』7ノ6回)

 広田先生なら、

「度胸がすわらないというのは、却って若者の特権だろう。あまり若いうちから腹が坐って動けないというのも困る」(こちらは論者のでっちあげ)

 とでも言うところであろうか。

 したがって⑪で女が外出したのは、懐紙のようなものを買いに出たのではなく、三四郎に対する教育者として、例えば教員控所のようなところに下がったのではないか。母親なら父親と相談しに、教師なら下調べをしに、わざわざ席を外したのである。

 ちなみにこの汽車の女が三四郎のセリフに直接返答したのは、弁当の蓋が当たったかもしれないのでソリィと言った三四郎に対しノンと答えた一箇所だけである。すれ違った通行人とほとんど変わらない。宿の前でイエスと答えたのも、黙って振返った三四郎に了解の意思表示をしたともとれるので、三四郎の発した言葉に何か対応したわけではないようだ。
 であれば女は母親とすれば理解はしているが会話の少ない、教師とすれば忠実だが一方的に教えるだけの、どちらにしても漱石らしさのよく出ている話になっている。

 漱石らしいといえば、例え相手が妻や子供であっても、人と一緒の蒲団に寝るのを嫌がるのが、漱石の癇性であるが、「坊っちゃん」も癇性で、蒲団が変わると寝られないので、子供の頃から友達の家へ泊ったことが無いと言っている。坊っちゃん漱石)の習慣は成長するにつれ収まったらしいが、三四郎もまた、熊本の寄宿舎生活を経てこの種の癇性(無鉄砲)からは解放されたはずである。(そうでなければ今後下宿したり野々宮の留守宅に泊ったり出来ないであろう。)

 であれば同衾事件のときの三四郎の、私は癇性で人の蒲団に寝るのが云々のくだりは、23歳の三四郎に10代半ばの三四郎が、このときだけ降臨したのだろうか。23歳とティーンエイジ。蒲団が敷かれたあとのこの落差を、汽車の女は翌朝まで覚えていたのであろうか。
 そしてこの別れ際の女のセリフ(⑳)によって、俄かティーンエイジャー三四郎は23歳相応にまで引き戻されたとは言えよう。この言葉がなければ、三四郎は恥をかいたという自覚さえ持たずに過ぎてしまったであろうから、三四郎は近い将来もっと致命的な恥をかいた可能性がある。してみると汽車の女は、自ら発した言葉によって、三四郎の成長に一定の役割を果たしたのである。教師説の説かれる所以である。

 ところで余計な事を言うようだが、三四郎はシーツでなく敷布団を女の方へ折り込んで、自分が畳の上にタオルを敷いて寝ればよかったのではないか。椅子に座って蚊に喰われながら夜を明かそうと思ったくらいであるから、蚊帳の中で横になれるだけでも上等だろう。シーツの壁よりも布団の壁の方が、癇性の人間にも蚤にも効果があるのではないか。