明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 21

188.『兄』1日1回(4)――復路はすでに旅ではない


第8章 嵐の一夜~嫂と自分、和歌山一泊事件
    二郎・直・宿屋の下女・朋輩の下女・車夫(2台)

第34回「此処で此位じゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」「大方其んな事だろうと思った。到底も駄目よ今夜は。いくら掛けたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」(8/14月)
第35回「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」(8/14月)
第36回「姉さん何時御粧をしたんです」「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。貴方何時見たの」(8/14月)
第37回「嘘だと思うなら是から二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」「妾の方が貴方より何の位落ち付いているか知れやしない。大抵の男は意気地なしね、いざとなると」(8/14月)
第38回「だから嘘だと思うなら、和歌の浦迄伴れて行って頂戴。屹度浪の中へ飛び込んで死んで見せるから」「あなた昂奮昂奮って、よく仰しゃるけれども妾ゃ貴方よりいくら落付いているか解りゃしないわ。何時でも覚悟が出来てるんですもの」(8/14月)
第39回 翌朝は打って変わった好天気~朝食の膳に向い合っている嫂の姿が昨夕の嫂とは全く異なるような心持もした(8/15火)

 二郎は(料理屋の)下女の奨めに従って市内に泊まることになるのであるが、下女は(当然ながら)ふたりを夫婦者と見做していた。誰が勘違いをしたにせよ、二郎は他者の勧告に従っただけであり、自ら判断・決定したわけではない。漱石の理屈によれば、二郎は免責されるのである。女と同じ部屋に泊まったときの免責の仕組みは、細部に至るまで三四郎と汽車の女の同衾事件と瓜二つである。女に(お節介にも)自分の欠点を指摘されるところまでそっくりである。そもそもその前に二郎は、旅館に入るという決定的なシーンを覚えていないという。

 そのうち俥の梶棒が一軒の宿屋のような構の門口へ横付になった。自分は何だか暖簾を潜って土間へ入ったような気がしたが慥かには覚えていない・・・(『兄』34回)

 おおむね二郎の語る『行人』の物語であるが、記憶が定かでないことは書かれないのが通則であろう。こんな例外が出現するのも、二郎の免責が大前提となっているからに他ならない。
 本音でぐんぐん押してくる女と責任を取りたがらない男。物語は常に漱石のペンの動く範囲を越えない。漱石の倫理感の外に出ない。これがまた多くの読者を惹きつける理由となっているのだろうか。

第9章 和歌の浦5日目~旅の終わり
    二郎・一郎・直・母

第40回 兄は只々不機嫌~母はそうでもないが「もうもう和歌の浦も御免。海も御免」(8/15火)
第41回 母は自分と嫂のことは疑ってないと言うが、母は真顔で嘘を吐くことがある(8/15火)
第42回 別室での査問~不誠実な対応を兄は許さない「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、高を括ってるのか、子供じゃあるまいし」(8/15火)
第43回 緊張して余裕のない兄は、風船球のように自分の力で破裂するか、何処かへ飛んで行くに相違ない(8/15火)
第44回 責められる二郎は却って兄に対する侮蔑を感じる~お直はそんな二郎と夫の会談を嗤っているようである(8/15火)

 とまれ二郎とお直は和歌の浦に帰って来た。御盆の最中であったが、荒天で客もまばら。一郎は下女に言いつけて空いている部屋を自分の自由に使っているようだ。二郎はその部屋で一郎の査問も受けた。後でお直がその別室に入ったが、出て来た後は一郎の機嫌が直った。別室で嫂は兄に何をしたのか。あるいはされたのか。
 お直はさすがに和歌山で二郎に言われた通り、夫に何か愛嬌を感じさせるような二言三言を呟いたのだろうか。あまり露骨にやると、一郎のような男は却って警戒して疑う。まさか接吻(キッス)したわけでもあるまい。嫂の懐柔策とは何か。次篇以降でその回答なりヒントが書かれることがあるか。

 かくして「大事件」は起こったものの、これと言った結果も出ないまま、『兄』は終わる。エンディングは和歌の浦の旅館の3階の部屋で、5泊目の最後の夕方。行李の荷造りをするシーンである。次の『帰ってから』は、関西旅行から帰って、というふうにも取られようが、より正確には、和歌山から「帰ってから」の話である。つまり『兄』の旅は、和歌山での最後の宿泊の直前で終わりを告げるのである。
 しかし一般的には旅行は復路の行程まで含めるのが普通であろう。とくに4人は(三沢と同じ)大阪発新橋行の寝台急行列車(現代ならブルートレイン)に乗っているのである。
 漱石は旅行は多く作品に取り上げているが、大体くどくなるのを避けて、車内の様子は書いても1回だけ、片道だけである。(『明暗』でも続篇を想像するのであれば、お延の湯河原行あるいは津田の引き揚げシーンは、車中の描写まではなされないと見た方が無難である。)
 『行人』に紹介された二郎と長野家の旅行は、往路の様子には一切触れられていないので、復路の寝台車の記述はあってしかるべきであるが、そのシーンだけ次篇に回したのは、やはり独立した短篇というよりは、長篇小説としての話のつながりを優先したのであろう。まさか「帰り」は「家に帰るという目的」があるので、「行き」の「旅をする、好きな所へ行く」というのとは別物であると、(内田百閒みたいに)思っていたわけでもなかろう。
 それは『帰ってから』の最初の2回にそのシーンが描かれているので、その2回を足して『兄』の回を終える。

『帰ってから』 (全38回)

(仮の)第10章 自分たちはかくして東京へ帰ったのである
    二郎・一郎・直・母・岡田・(お兼さん・佐野)

第1回 和歌の浦から大阪へ~岡田に見送られて寝台急行で大阪を発つ(8/16水)
第2回 深夜12時、雨の名古屋駅~窓開閉事件~寝台の一郎は眠ることしかしない(8/16水~8/17木)

 寝台車は4人で1区切りになっている普通のもの。上段は一郎と二郎。下段は一郎の下が母、二郎の下が嫂である。進行方向に仕切りの壁がある方が、寝やすいと言えば寝やすいので、年長者がそちらを占めたのであろう。おかげで二郎は自分の真下に寝ている嫂が気になって仕方がない。青大将になった嫂が、自分や兄までも、身体中ぐるぐる巻き付いているような夢想。

 名古屋に着く頃雨になった。嫂が雨が降り込むようだと言うので、二郎は嫂の足元の窓を閉ててやる。嫂の声に母はすぐ眼を覚まして、あるいは覚ましたふりをして、自分の足の方も締めてくれと言う。二郎が嫂の窓を片付けて母の側へ行くと、母の足元の窓は閉まっていた。
 寝台の配置といい母の配慮(用心)といい、実に細かい(神経質な)描写と言わざるを得ない。現実に深夜名古屋駅のプラットホームに(機関車の給水等で停車時間は長かったのだろう)、見舞い方々駆け付けた鏡子の妹夫婦も、後日『行人』のこんなシーンを読んで、びっくり仰天したのではないか。漱石は(病を得ていたのとわずらわしいのとで)寝たままで起きて来なかったが、妹夫婦は鏡子としばらく話をしたと思われる。それが小説に書かれるとこのありさまである。いくら小説家であるとはいえ、いくら自分たちのことは書かれないと分かっているとはいえ、一般市民にとってはさぞ不気味なことであろう。

漱石「最後の挨拶」行人篇 20

187.『兄』1日1回(3)――病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか


第5章 和歌の浦2泊目~兄と自分、山上の垂訓・東照宮
    二郎・一郎・(直・母)

第16回 東洋第一エレヴェーター「二人で行こう。二人限で」(8/12土)
第17回 蒻鬱した木立の中に紀三井寺を望む~権現様参り(8/12土)
第18回 山門から拝殿へ進む「お直は御前に惚れてるんじゃないか」(8/12土)
第19回「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」(8/12土)
第20回「おれが霊も魂も所謂スピリットも掴まない女と結婚している事丈は慥だ」(8/12土)
第21回「宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」「二郎、何うか己を信じられる様にして呉れ」(8/12土)

 この章では母とお直がお休みである。最初と最後に少しだけ登場して、あとは二郎と一郎の物語である。一郎はおかしなことばかり言って二郎を困惑させる。遂には「今日御前を此処へ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。何うぞ聞いて呉れ」(同21回)と言い出した。読者は続きを読まないわけにはいかない。

第6章 和歌の浦3泊目~兄と自分、山上の垂訓・紀三井寺
    二郎・一郎・直・母

第22回 母とお直は紀三井寺に行っていた~母は高い石段をお直に引かれてやっと登った(8/12土)
第23回 トランプ事件~エレヴェーター再訪~紀三井寺へ(8/13日)
第24回「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊って呉れれば好いんだ」(8/13日)
第25回「明日昼一所に和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支ないだろう」(8/13日)
第26回「直御前二郎に和歌山へ連れて行って貰う筈だったね」「今日はお止しよ」(8/14月)
第27回「二郎、今になって違約して貰っちゃ己が困る。貴様だって男だろう」(8/14月)

 一郎の煩悶は一応理解出来る。相手が妻でなくとも、どんな人間関係にも疑い出せばきりがないということは、世俗にはままある。しかしその対処法として、一郎のような作戦を思いつく人間はそうはいまい。誰にとっても、いいことが一つもないからである。
 神を試すなという訓えがある。これは妻なら(弟なら)試してよいという意味ではなかろう。『行人』の読者なら後に、書く予定のなかった『塵労』で、一郎が同僚に「神は自己だ」と訴えるくだりを記憶しているだろう。一郎の訴えは魂の叫びであったか。それとも彼が単に漱石の主人公としては(迷亭に次いで)エキセントリックに造型されたに過ぎないのか。

 紀三井寺からの連想というわけでもないが、本項タイトルに引用した明石海人は粉河に3年いた。この歌はあらゆる詩人の(漱石も含む)魂の叫びであるが、一郎のように芸術的成果物を持たない市井の一変人にとって、(彼等が実在するのは明らかであるが、)彼らの救済される道というは果して存在するのだろうか。そもそも彼らは救済される必要があるのだろうか。
 一郎にとっての「病む歌」が大学教授としてのプチ社会的成功だとすれば、これは一郎でなくとも救われない話である。むしろ一郎にとって「病む歌」はお直であるべきだろう。一郎はお直と離れることが出来ない。離婚して済む話ではない。離れることが出来ないからこそ悩むのである。漱石はほとんどの作品でその解決手段を探求したが、当然ながら有効な回答は見出せなかった。一郎の苦しみは狂気によってしか解消し得ないものなのか。『行人』にその道は微かにでも照らされることがあるのだろうか。

第7章 嵐を含む空~嫂と自分、和歌山へ
    二郎・直・車夫・料理屋の下女

第28回 車夫に何処か寛くり坐って話の出来る所へ連れて行けと指図した「何故そんなに黙っていらっしゃるの」「何故そんな詰らない事を聞くのよ」「うるさい方ね」(8/14月)
第29回 待合のような料理屋~風呂~昼食の膳~下女を下げる「左右。そんなに御天気が怖いの。貴方にも似合わないのね」(8/14月)
第30回 二郎とお直のバトル本格化「然し兄さんに対して僕の責任があります」「じゃすぐ帰りましょう」(8/14月)
第31回 お直の涙「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。然し私は是で満足です」(8/14月)
第32回「貴方何の必要があって其んな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」(8/14月)
第33回 和歌の浦に迫る暴風雨~海辺の母たちの宿が心配だが~電話も電車も通じない「じゃ今夜は仕方がないから此処へ泊るとしますか」(8/14月)

 『行人』を(漱石を)まだ読んだことのない人は幸いである。30回・31回・32回の3回分、お直と二郎のやり取りを読んで、その人はどのような体験を味わうのであろうか。それが叶わない古手の読書人は、この100行か200行の文章を、ほじくり返しながら読み直してみるしかない。そしてその中に、どの1行にも無駄がないということを発見して驚くのである。あってもなくても文意が変わらない、という記述が皆無である。漱石の小説が男女の会話に集中して行くとき、互いの男女は相手の言葉、一言一句に誠実に対応する。言いっ放し聞きっぱなしということが無い。もちろん地の文も同様である。漱石はそこに決して無駄な口を差し挟まない。だから繰り返し読んで厭きるということがない(例えばモーツァルトの最良の楽曲のように)。

 ところで二郎と出掛けたお直は、待合みたいな料理屋でついに泣く。お直は二郎に、今のお直の態度のままでは兄が可哀そうである、何とか改善の余地はないかと言われただけである。お直は二郎のこぼす内容より、長野家で独りぼっちになっていることに淋しくなったのであろう。一番泣きそうにないお直が泣いたからには、漱石の女で遂に泣かなかった者などいるだろうか。大泣きランキングの作成は困難を極めようが、マドンナ・那美さん等泣くシーンの書かれない女も(金田富子でさえ)、それは小説の舞台の裏で必ずや泣いていることが容易に想像される。あえてこの問いに答えがあるとすれば、それは『三四郎』の美禰子であろうが、美禰子も(『虞美人草』の藤尾同様)、充分涙は流しているのである。美禰子は物語の始まる前に(野々宮が振り向いてくれないので)、藤尾は終わる寸前に。
 話はそれるが『三四郎』でもうひとりだけ泣かない女がよし子である。よし子は怖がりで甘えん坊の泣き虫であるが、小説の中では泣かない。よし子は与次郎の口を通してではあるが、三四郎の伴侶に相応しいというお墨付きを得ている。漱石の作品で、その女を知る(作者を含む)誰かが、ある男の結婚相手に相応しいと明言された例は、野々宮よし子唯一人である。
 といえば即座に2つ3つ反論が来よう。
 宗近が小夜子を小野の細君になるべきだと主張したのは、昔の約束をちゃんと守れと言ったに過ぎないし、そもそも宗近は小夜子を知らない。坊っちゃんも深い考えなしに、ただ赤シャツへの腹いせに、本来の婚約者古賀が遠山の御嬢さんと結婚したらいいと思っただけである。佐川の令嬢を貰え貰えとうるさく言う父と嫂は、また別の魂胆があった。彼らが佐川の令嬢の人となりを知るわけではない。といって神戸へ帰った令嬢が泣かないわけでもないのだが。

漱石「最後の挨拶」行人篇 19

186.『兄』1日1回(2)――海恋し潮の遠鳴り数えては少女となりし父母の家


第3章 和歌の浦へ~兄と自分、接吻
(キッス)の話
    二郎・一郎・直・母

第10回 南海鉄道の食堂車~三沢の接吻事件(8/11金)
第11回 市内電車に乗換~出帰り娘さん事件(8/11金)
第12回「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」(8/11金)

 自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐った。・・・向こう側に腰を掛けている母が、嫂と応対の相間相間に、兄の顔を偸むように一二度・・・(『兄』10回)

 和歌山へ向かう汽車の座席配置について、(たぶん)進行方向に向かって二郎(窓側)と一郎(通路側)が並んで座る。進行方向に背を向けて母(窓側)とお直(通路側)が並んで座る。二郎と母が向かい合わせ、一郎とお直が(膝を突き合わせて)向かい合わせである。『三四郎』でも三四郎(窓側)と広田先生(通路側)は並んで座った。お直は髪が気になるので、風の一番当たらない席を選んだのだろう。
 窓から見える海の景色は、母とお直は食堂車からも堪能したようである。大阪湾、と言ってしまってはミもフタもないが、遠く播磨灘という名の瀬戸内海(の一部)であると思えば、旅情も沸き立って来よう。同じ海を見ていた与謝野晶子の有名な歌がある。(明治38年『恋ごろも』――引用は大正8年新潮社版『晶子短歌全集第1巻』に拠る。)

 海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家

 短歌は時として長篇小説に対峙しうる。こういう秀歌に出会うと、漱石が短歌に手を染めようとしなかった理由が、何となく分かる気がする。(漱石は直截で男性的な文章を好んだが、といって晶子のこの歌が「女性的」というわけでもない。)ピュアな漱石は気分転換に歌を詠むほど器用でも不誠実でも贅沢でもなかった。それがまた短歌という芸術分野を独自に際立たせる。

 さて堺を過ぎて和歌山市に入り、終点で乗り換えた市内電車(路面電車)は空いていた。

是なら妾達の荷物を乗っけても宜さそうだね」と母は停車場の方を顧みた。
・ ・ ・
「へえー是が昔のお城かね」と母は感心していた。母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉を不図思い出した。(同11回)

 荷物(チッキ)は和歌山のターミナルに留め置かれた。後で旅館の使用人なり俥夫が取りに来るのだろう。母は江戸の(町民の)女らしく、身の周りのことが気になる。
 ところで徳川のトの字も語らなかった(少なくとも旧幕時代の殿様という意味で)漱石であるが、熊本に住み暮らしたにもかかわらず細川のホの字も語らなかった漱石であるが、他の殿様についても作品で触れた形跡がない。ここで唐突に出現した「紀州様」と、『趣味の遺伝』(明治38年)でもっともらしく語られた「紀州藩」が唯一の例外である。紀州に何か義理でもあったのだろうか。

第4章 和歌の浦1泊目~兄と嫂、まるで赤の他人
    二郎・母・(一郎・直)

第13回 風呂の後の散歩事件~離れて歩く兄と嫂「あれだから本当に困るよ」(8/11金)
第14回「だからさ。御母さんには訳が解らないと云うのさ」(8/11金)
第15回「余りがたがた云わして、兄さんの邪魔になると不可ないよ」(8/11金)

 この3回は一郎とお直はお休みである。登場はしている。互いに無言でそっぽを向いて。その姿が心配する母と混乱する二郎によって観察されるだけである。母は二郎に愚痴りまくる。二郎も相変わらず人の役に立っているのである。
 しかし母がもし何も感じなければ、そもそも事件でも何でもない。父が一緒に来なかったわけである。母がいくら心配しても、父に一蹴されれば話はそこで終わりである。
 前章で一郎と二郎によって語られる三沢の出帰り娘さんの話も、そもそも汽車の中で婦人連を前に置いて話す内容ではないだろう。おかげで小説は一応進行しているものの、取って付けたような、ちぐはぐな感じは否めない。

余りがたがた云わして、兄さんの邪魔になると不可ないよ」
 母から斯う注意された自分は、煙草を吹かしながら黙って、夢のような眼前の景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、殊更暗いものが蔓り過ぎた。其うちに昼間見た土手の松並木丈が一際黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。其下に浪の砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的刺戟強く見えた。
「もう好い加減に御這入りよ。風邪でも引くと不可ないから」
 母は障子の内から斯う云って注意した。自分は椅子に倚りながら、母に夜の景色を見せようと思って一寸勧めたが、彼女は応じなかった。自分は素直に又蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。
 自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森として元の如く静かであった。自分が再び床に着いた後も依然として同じ沈黙に鎖されていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんと何時迄も響いた。(同15回末尾)

 しかし小説の展開はともかく、漱石の文章自体は非常に美しい。夜の景色と部屋の中の対比。月のない空と(引用部分の前に書かれている)マッチの灯。黝ずんだ松並木と波の白い泡。静寂を際立たせる母の声、波の音、兄夫婦の室の沈黙。すべてが溶け合って、とくに末尾のどどんという波の音の場景は、今もこの後も和歌の浦の章全体を支配して、本篇『兄』を印象深いものにしている。
 ところでこのときの(明治44年8月の)月齢を調べると、漱石が和歌山を訪れた頃は御盆の盛りで、半月(はんげつ)よりむしろ満月の方に近い。そのぶん月の出が遅いので、早寝早起の漱石は、おそらく和歌山の旅荘から月の出の前の夜空を眺めて、それを記憶していたのではないか。(晩年の)漱石本人は深夜に外の景色を眺める趣味はなかったと思われる。

漱石「最後の挨拶」行人篇 18

185.『兄』1日1回(1)――たった一人で淋しくって堪らないからどうぞ助けて下さい


 さて『兄』に入る前に、『友達』32回と33回は『兄』への橋渡しであるが、出帰りの娘さんの逸話が披露される。

 ・・・其娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸を有っていた。其黒い眸は始終遠くの方の夢を眺ているように恍惚(うっとり)と潤って、其処に何だか便のなさそうな憐を漂よわせていた。僕が怒ろうと思って振り向くと、其娘さんは玄関に膝を突いたなり恰も自分の孤独を訴えるように、其黒い眸を僕に向けた。僕は其度に娘さんから、斯うして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、何うぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。・・・(『友達』33回)

 この娘さんにダイレクトに似ているのは『文鳥』であろうか。本質が一番近いのは吾輩(『猫』の)と坊っちゃんか。吾輩は親に捨てられ、元の飼主に捨てられて、本来命を繋ぐ運命になかった。(よく読むと苦沙弥でなく)おさんに救われたのである。吾輩は見栄っ張りだから泣き言は言わないものの、独りぼっちであることに変わりはない。この斑猫は執筆(口述筆記)をしなければ生きては行けなかったのである。坊っちゃんも変り者で誰も相手にする者がいない。表向きには弱音を吐かないが心の奥では、「淋しくてたまらないからどうぞ助けて下さい」と叫んでいるのだろう。坊っちゃんの救いもまた清という下女だけであった。精神的危機に際して肉親の援けが得られない。
 『猫』も『坊っちゃん』も漱石の処女作である。処女作にその作家のすべてがあるという意味では、漱石の作品は多かれ少なかれこの叫びで充満していると言って差し支えないだろう。本作でもそれはお直に結び付けたかったのだろうが、さすがにそこまで露骨には書けなかった。しかし次作『心』でKと先生の決定的な行為の源泉となったものも、まさしくこの叫びだったと思う。漱石としては三沢の話はかなり入れ込んで書いたのではないか。それがまた長野兄弟を主役にしている筈の『行人』の、複雑だが焦点がぼやけたような印象につながるのだろう。

『兄』 (全44回)

第1章 到着、お出迎え
    二郎・一郎・直・母・岡田・お兼さん・(月夜に大石の持上げ競をやる裸男)

第1回 再び梅田の停車場へ「何うです。二郎さん喫驚したでしょう」(8/9水)
第2回 大阪の宿と到着の絵葉書「お兼さんは本当に奥さんらしくなったね」(8/9水)
第3回 四人始めての大阪の夜「今夜は御止しよ」(8/9水)
第4回 岡田の大阪遊覧目録「馬鹿馬鹿しい、骨を折ったり調戯われたり」(8/9水)

 お兼さんは岡田に向かって、「あなた此間から独で御得意なのね。二郎さんだって聞き飽きて居らっしゃるわ。そんな事」と云いながら自分を見て「ねえ貴方」と詫まるように附加えた。自分はお兼さんの愛嬌のうちに、何処となく黒人らしい媚を認めて、急に返事の調子を狂わせた。お兼さんは素知らぬ風をして岡田に話し掛けた。――(『兄』1回)

 新しい物語になって、お兼さんも少し変わったようである。これが漱石の技巧だとすれば、真底感服せざるを得ない。それとも顔合わせ以来半月以上を経て、お兼さんも二郎に馴れて来たと言いたかっただけなのか。あるいは(母たちを迎えて)、お兼さんは(漱石も)もう危険は去ったとばかりに、安心して二郎に媚びを売り始めたのだろうか。

 ・・・其嫂は父に出す絵端書を持った儘何か考えていた。「叔父さんは風流人だから歌が好いでしょう」と岡田に勧められて、「歌なんぞ出来るもんですか」と断った。(同2回)

 嫂とお兼さんは親しみの薄い間柄であったけれども、若い女同志という縁故で先刻から二人だけで話していた。然し気心が知れない所為か、両方共遠慮がちで一向調子が合いそうになかった。嫂は無口な性質であった。お兼さんは愛嬌のある方であった。お兼さんが十口物をいう間に嫂は一口しか喋舌れなかった。(同4回)

 お直が長野に嫁入ったとき、岡田はまだ書生として屋敷にいたのだろうか。岡田が高等商業を出て大阪に行ったのが5、6年前。岡田は1年後お兼さんを迎えに上京したのだから、お兼さんが長野家の人に別れたのは4、5年前になる。このときにはお直は確実にいたと思われる。岡田は天下茶屋での散歩中、二郎に「結婚してかれこれ5、6年近くになるが(まだ子供が出来ない)」と言っている(以上『友達』1回・2回・4回)。
 年数は二郎と岡田(と漱石)の主観であるから、まあこんなものだろうが、いずれにせよお兼さんの方がお直との付き合いは(1年だけ)長い。岡田はその後も上京することはあったようで、上京すれば長野の家に泊ったと思われるから、自然お直とは遠慮のない口を利くようになったのか。お直にしてみれば、岡田とお兼さんの間にこれほどの隔絶を設ける理由がないという気がする。どちらも愛想のいい、昔から長野家に縁のある人間である。それにお直は相手によって態度を変えるようなタイプではない筈である。よほど岡田のことを莫迦にしていたのか。腹の立つほど冷淡なところがある、と二郎も(14回で)言っているが。

第2章 大阪、旅の宿の夜
    二郎・一郎・直・母・岡田・(佐野)

第5回 佐野との会見「当人は無論知っているんだ」「大喜びだよ」(8/10木)
第6回 兄と嫂~大阪は暑いからもういい~和歌の浦行きは兄の発議(8/10木)
第7回 母に岡田に返す金の無心「兄さんには内所だよ」(8/10木)
第8回 嫂は丸髷に結った「兄さんの御好みなんですか、其でこでこ頭は」(8/10木)
第9回 岡田と別れの宴~借りた金を返す「お兼が喜びます。ありがとう」(8/10木)

 兄は学者であった。又見識家であった。其上詩人らしい純粋な気質を持って生れた好い男であった。けれども長男丈に何処か我儘な所を具えていた。自分から云うと、普通の長男よりは、大分甘やかされて育ったとしか見えなかった。自分許ではない、母や嫂に対しても、機嫌の好い時は馬鹿に好いが、一旦旋毛が曲り出すと、幾日でも苦い顔をして、わざと口を聞かずに居た。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変った様に、大抵な事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴であった。だから彼の朋友は悉く彼を穏かな好い人物だと信じていた。父や母は其評判を聞くたびに案外な顔をした。・・・(『兄』6回)

 一郎と漱石はまるで同一人物のようである。普通の長男でないというところまでそっくり(貰われて塩原の長男として育てられた)。一郎を紳士と見るか奇人変人と見るかは、見る人による。やや一郎に寄り添って言えば、人士は一郎を紳士と見る。というより仁者は誰を見ても普通の人間と見るだろう。そうでない大多数は一郎を変物と見る。家族は多く後者に属するから、(二郎も含めて)家族は常に手を焼く。

 自分は便所に立った時、手水鉢の傍にぼんやり立っていた嫂を見付けて、「姉さん何うです近頃は。兄さんの機嫌は好い方なんですか悪い方なんですか」と聞いた。嫂は「相変らずですわ」とただ一口答えた丈であった。嫂は夫でも淋しい頬に片靨を寄せて見せた。彼女は淋しい色沢の頬を有っていた。それから其真中に淋しい片靨を有っていた。(同6回末尾/再掲)

 この夫婦の共通点はこの淋しさであろう。その点似たもの夫婦とはいえる。会話がないのはその必要がないからである。『明暗』の津田とお延もまた、別な意味での似たもの同士である。性質が似ているのではなく(むしろまるで違う)、2人が同じことをするのである、とは前著(『明暗』に向かって)で説いたところ。この場合会話量は却って増す。津田とお延は会話というより常に議論をしている。

 ところで二郎が母親から金を引き出して、思いがけず早期に金を返した(2日で返している)ときの岡田の、

「今でなくっても宜(い)いのに。然しお兼が喜びますよ。有がとう」(同9回)

 もまた巧みである。女房が喜ぶというのは漱石にはない発想であるが、西洋の小説にそんな場面があったのだろうか。慥かに普通に使われる言い方ではある。しかし漱石の主人公の決して口にすることのないセリフである。岡田はそんなに渋い役どころであるか。単に照れ隠しで言ったに過ぎないのか。

漱石「最後の挨拶」行人篇 17

184.『友達』(17)――『友達』1日1回(つづき)


第5章 胃腸病院の3階
    二郎・三沢・三沢の看護婦・宿の下女・岡田・(医者・宿の隣客)

第13回 わがままな入院患者(7/28金)
第14回 電話の向こうの看護婦を𠮟り飛ばす(7/28金)
第15回「うん、あの連中と飲んだのが悪かった」(7/29土)
第16回 病室での共同生活(7/30日~7/31月)
第17回 岡田からの3度目の電話に三沢も「又例の男かい」(8/1火)

 岡田が二郎にしつこく連絡を取り続けるのは、もちろん物語を次篇へ繋ぐための役目を担っているからであるが、どうせ市内にいるのなら、宿なんか引き払って自宅に来ればよいという謎かけでもある。半分本音であろう。はるばる縁者がやって来たのに、いつまでも宿に泊まっているというのは、(長野家に対して)義理が悪いのである。

第6章 あの女
    二郎・三沢・あの女・付添の年増・三沢の看護婦・あの女の看護婦・(病院の看護婦・入院患者たち)

第18回 待合室に続く廊下で始めて「あの女」を見る(8/3木)
第19回 二郎の見染めた女は三沢の知り合いか(8/3木)
第20回 三沢の打ち明け話(8/4金)
第21回 三沢の打ち明け話(つづき)(8/4金)
第22回 あの女は入院時三沢に見られていた(8/5土~8/7日)
第23回 あの女の素性(8/5土~8/7日)
第24回 あの女の素性(つづき)(8/5土~8/7日)
第25回 様々な入院患者(8/5土~8/7日)

 舞台が岡田の家から病院へ移ると、『門』の参禅の章ほどではないが、小説の勢いも停滞するようだ。病院での人間模様の描かれ方が、雑然とし過ぎていることだけが原因ではなかろう。舞台が固定されて、固定されるのはいいがそれで周囲の人物が移動しなくなると、漱石の小説は活気を失う。
 漱石の小説に病気や病院は付き物だが、『行人』に限っては、三沢も「あの女」も動けなさ過ぎることが、小説の魅力を(少しだけ)削ぐ結果となったようである。慥かに二郎は日参しているし看護婦たちも派手に紹介される。しかしいかにも活動しない。同じ轍を踏まない漱石は、後の『明暗』では病室で動きのないまま人物を延々と議論させることにより、また新しい世界を読者に見せてくれるのだが。
 思うに(三沢の体験に比して)この章全体の印象が地味なのは、病院と三沢(二郎)の宿所の位置関係が、漱石の中で具体的にイメジされていなかったことによるのではないか。宿所から病院まで、漱石は一度も歩いたことがなかったのではないか。小説ではその道のりは一応書かれてはいるが。

第7章 潮時
    二郎・三沢・あの女・あの女の看護婦・三沢の看護婦・岡田・お兼さん・(出帰りの娘さん)

第26回 占いゲーム(8/5土~8/7日)
第27回 三沢と二郎の「友情」(8/8月)
第28回 三沢退院の決意(8/8月)
第29回 お兼さんから金を受け取る(8/8月)
第30回 三沢とあの女の別離の会見(8/8月)
第31回 退院(8/8月)
第32回 出帰りの娘さん(8/8月)
第33回「あの女の顔がね、実は其娘さんの顔に好く似て居るんだよ」(8/8月)

 三沢から待ち望んだ手紙が届いて、二郎はいったん岡田の家(お兼さん)と別れるのであるが、それから『友達』の終盤になって、お兼さんはもう2回読者の前に姿を現す。お兼さんが病院を訪れたくだりの漱石の巧みな筆致を、それは(美禰子が三四郎に金を渡すシーンのように)女が男に金を渡すところが描かれているせいであると、先の項で述べたが、お兼さんが登場して紙面が活き活きするのは、もう1つ理由があるようである。

「とうとう御着になりましたか」
 自分は一寸お兼さんに答える勇気を失った。三沢は三日前大阪に着いて二日ばかり寝た揚句とうとう病院に入ったのである。自分は病院の名を指してお兼さんに地理を聞いた。①お兼さんは地理丈は能く呑み込んでいたが、病院の名は知らなかった。自分は兎に角鞄を提げて岡田の家を出る事にした。
「どうも飛んだ事で御座いますね」とお兼さんは繰り返し繰り返し気の毒がった。・・・(『友達』12回)

 漱石が実際に入ったのは3階建ての胃腸病院である。大きい病院であるが誰もが知る病院ではない。それでお兼さんも知らなかった。

自分は二日前に天下茶屋のお兼さんから不意の訪問を受けた。其結果として此間岡田が電話口で自分に話し掛けた言葉の意味を漸く知った。だから自分は此時既に一週間内に自分を驚かして見せるといった彼の予言のために縛られていた。三沢の病気、美しい看護婦の顔、声も姿も見えない若い芸者と、其人の一時折合っている蒲団の上の狭い生活、――自分は単にそれ等ばかりで大阪に愚図ついて居るのではなかった。詩人の好きな言語を借りて云えば、③ある予言の実現を期待しつつ暑い宿屋に泊っていたのである。(同27回冒頭)

 せっかちな二郎がいつまでも大阪に愚図ついているのは、親友が病気をしているという理由だけではない。漱石は子規には親切だったが、それは一般的ではない。漱石は珍しく言い訳をしている。そのせいだろうか(あるいはそれ以外にも理由があるのだろうか)、この文節は少し分かりにくい。③は単に岡田が1週間内に驚かせると言ったことのみを指しているのだろうか。

 自分はお兼さんと電車の終点迄一所に乗って来て其処で別れた。「では後程」と云いながらお兼さんは洋傘を開いた。自分は又俥を急がして病院へ帰った。顔を洗ったり、身体を拭いたり、少時三沢と話しているうちに、④自分は待ち設けた通りお兼さんから病院の玄関迄呼び出された。お兼さんは帯の間にある銀行の帳面を抜いて、其処に挟んであった札を自分の手の上に乗せた。
「では何うぞ一寸御改ためなすって」(同29回再掲)

 ④の記述の遠い伏線として①がある。お兼さんと病院との距離は漱石の(頭の)中では明確である。②の場合も読者は当然、お兼さんがやって来たのは病院であろうと思う。二郎は昼間は病院へ詰め切りになっているのであるから、宿を訪れたとすれば夜間ということになり、ちょっと不自然である。しかるに次篇『兄』の冒頭では、いきなりこのときのことに触れている。

 自分は三沢を送った翌日又母と兄夫婦とを迎えるため同じ停車場に出かけなければならなかった。
 自分から見ると殆ど想像さえ付かなかった此出来事を、始めから工夫して、とうとうそれを物にする迄漕ぎ付けたものは例の岡田であった。彼は平生から能くこんな技巧を弄して其成効に誇るのが好であった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、其内屹度自分を驚(おどろ)かして見せると断ったのは彼である。それから程なく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、其訳を話した時には、自分も実際驚かされた
「何うして来るんです」と自分は聞いた。・・・(『兄』1回冒頭)

 母たちはたまたま地所の一部が売れたので旅行を思いついたのであった。それはともかく、お兼さんは病室でなく宿所を訪ねて来たのである。そのとき今週には東京から母たちがはるばるやって来ることを、二郎に打ち明けている。その前提で上記(②から③を含む)27回の引用文を読み返してみると、漱石はやはり言い訳をしていることに変わりはないが、その言い訳は少しヘンである。その理由は漱石の筆が足りないということではなく、宿所の場所が明確でなかったことによるのではないか。漱石はよく確かめないで先へ進んだのではないか。体調がすぐれなかったことが原因かも知れないが、そうでなかったにせよ、虫が知らせるということは、なくはないのである。

漱石「最後の挨拶」行人篇 16

183.『友達』(16)――『友達』1日1回


 最後に例によって各回の表題を付けてみる。『行人』は久しぶりに若い女のたくさん登場する小説である。(その前は『三四郎』、後は『明暗』であろうか。)試みに附した章分けには、登場人物を配す。登場の仕方が一般的でない場合、エキストラのような場合は、括弧書きとする。連載回ごと物語の日付・曜日は、仮に明治44年を想定している。

『友達』(全33回)

第1章 天下茶屋
    二郎・岡田・お兼さん

第1回 岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた(7/23日)
第2回「岡田君此呉春は偽物だよ」(7/23日)
第3回「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかった」(7/23日)

 岡田の借家は安普請だが2階がある。東京の長野家も2階建てだが、2階だの3階(三沢と「あの女」の病室、和歌の浦の4人の泊った客室)だのという縦(上下)への拡がりは、『行人』においてとくに目立つ。和歌の浦のエレベータのエピソードも印象深く、帰路の寝台急行列車の上段下段もまた丁寧に描かれる。漱石の精神状態と何か関係があるのか。たまたま体験したことをそのまま書いただけでもあるまい。もともと漱石は女(男)を下から見たり上から見たりするシーンをよく書くが、「あの女」の初登場シーンでは、二郎が病院の階段を上がりかけた所に立ち止まって、そこから見たと書かれる。単にその方がよく見えるからか。高低差がある方が互いに見やすいというのか。それは漱石の身長が何か関係しているのだろうか。

第2章 この夫婦
    二郎・岡田・お兼さん

第4回「好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくったって」(7/23日)
第5回 お兼さんの髪は廂から大きな丸髷に変わっていた(7/24月)
第6回 三沢の葉書「一両日後れるかも知れぬ」(7/24月)

 小説の冒頭、二郎は大阪到着の「1週間前」に三沢と「今から10日以内に阪地で落ち合おう」と約束している。そして時日が許すなら高野山・伊勢・名古屋へ廻ろうと。
 1週間後、天下茶屋入りした二郎はそのときすでに三沢からの連絡を気にしている。その翌日の三沢の葉書である。一両日遅れるなら予定通りではないか。実際には葉書を書いた翌日の深酒によって、大阪での邂逅は(葉書の通り)一両日遅れたわけであるが、前述したように読者はふつう、漱石が三沢と芸者の飲酒日を勘違いしたのだと思う。しかしそれでは二郎が先回りして三沢からの連絡を待ったことの説明が付かない。考えられる理由はただ1つ。二郎も三沢も異様にせっかちであったというもの。
 三沢から連絡が途絶えたとき、怒った二郎は1人で高野登りを決心した。帰路の寝台列車は深更名古屋に停車したときの様子が丁寧に描かれる。名古屋は、漱石が大阪で長期療養したあとの上京時に、鏡子の妹夫妻(鈴木禎次時子)が心配して駆けつけた、その実地をなぞっただけと思われがちだが、わざわざ必要のない名古屋を登場させたのは、漱石が小説の冒頭で名古屋と書いたことが気になっていたのである。せっかちで細かい。しかも公平。漱石らしいところではある。

第3章 変則的な見合い
    二郎・岡田・お兼さん・佐野・(懇親会の小僧)

第7回 先方があまり乗り気になって何だか剣呑(7/24月)
第8回「御気に入ったら、貴方も大阪(こちら)へ入らっしゃいませんか」(7/25火)
第9回 お貞さんの結婚相手佐野(7/25火)

 模擬面接は何事もなく済んだ。二郎は自分が当事者であっても、おそらく気乗りのしない見合いであったろう。いわんや他人の結婚話である。物好き・簡単・お手軽・無責任。それに日を経ずして母や兄たちが実際に佐野に会うのである。二郎は何のためにこんな馬鹿馬鹿しい会食の席に駆り出されたのか。漱石はちゃんと考えている。同じく(常識的に考えれば)馬鹿馬鹿しい和歌山一泊事件のために、布石を打ったのである。好奇心の強い二郎は無茶な話でも理由のない依頼でも、結局は人を好く受けるのである。

第4章 愚図愚図な3日間
    二郎・岡田・お兼さん・三沢・(佐野・岡田の下女)

第10回 二郎の手紙ですべてが決まる(7/26水~7/27木)
第11回「御酒を召上らない方は一生のお得ですね」(7/27木~7/28金)
第12回 5泊6日で岡田家滞在を引き揚げる(7/28金)

 二郎が佐野とお貞さんの結婚話に冷淡なのは、2人の人となりに興味がないからではない。2人の間に愛を見出せないからでもない。そんなものはあってもなくても所詮五十歩百歩である。代助と三千代の「愛」が格別他より高邁だと、漱石は言いたいわけでは決してない。それどころか漱石は、代助の三千代に対する愛情を、読者の前に詳らかにすることさえしない。思うに代助を衝き動かしたのは、三千代に対する愛情ではない、もっと別の、何か正邪の観念のようなものに襲われて、代助は否応なしにそこへ追い込まれたのである。その証拠に代助は(少なくとも『それから』の中では)、事が極まった後でも、三千代・平岡・嫂、誰に対して語るときにも、三千代との具体的な未来の生活をイメジしていない。三千代の死さえ肯っているようである。そんな愛情が存在するだろうか(心中するわけもないのに)。
 まあそれはさておくとして、二郎はこの結婚に責任を取りたくないのである。二郎がOKを出したが故に2人は無事結婚した。こんな展開になっては困る。
 では二郎は不親切なエゴイストか。そうではあるまい。二郎は(漱石同様)間違いたくないのである。正しいことのみ行ないたいのである。漱石の主人公は間違いを犯すことを病的に怖れる。この場合の間違い・誤りは文字通りの「不正解・誤謬」ということで、いわゆる不倫とか、時によっては法を侵すという意味の「過ち」では必ずしもない。漱石の中で正しいと確信されれば、人の細君をも奪いかねないのが、この場合の「正しさ」である。それを(何度も書いて恐縮だが)人は誠実と言い、また自分勝手と言う。

漱石「最後の挨拶」行人篇 15

182.『友達』(15)――『友達』のカレンダー完結篇


 さて話を戻して、カレンダーの続きである。『友達』後半病院回での眼目は三沢の「あの女」であるが、カレンダーの鍵を握っているのは、相変わらず岡田である。
 二郎は次の日もすぐに病院へ行く。そしてもう2、3日経過を見ることにして、とりあえず付添い看護夫みたいに三沢に密着する。夜は宿に帰るが、暑苦しさや隣室がうるさいこともあって寝られない。癇癪持ちの二郎はいい加減に引き揚げも考える。
 岡田からはマメに電話があった。3度目の時に、「今から1週間以内くらいに、ちょっと驚かせることがある」と電話口で思わせぶりを言った。岡田の存在を知った三沢は、金の工面を考えているふうである。

 ここまで材料が並べられた上で、いよいよ「あの女」の登場である。金曜に三沢入院として、土曜の「もう23日様子見」の決意で、日・月・火。問題の岡田の3回目の電話を火曜あたりと推定する。お金の話の進展はない、引き揚げの話も愚図愚図、一応さらに1日か2日は経ったとみて、即ち木曜を「あの女」の入院日とする。三沢より1週間遅れの入院である。安全を期す小心・せっかちな三沢と、稼業に追われる大胆・無謀な女。身分が違う、余裕の有る無しであると漱石は言うが、男と女の気質の違いであるとは、漱石が昔から書いてきたところ。

《二郎三沢のスケジュール表(つづき)》

7月28日(金)朝三沢入院。岡山産看護婦派出。夕方二郎見舞。(14回)
7月29日(土)二郎再度見舞「もう2、3日経過を見よう」(15回)
8月1日(火)岡田の電話「1週間以内に驚かせることがある」(17回)

8月3日(木)「あの女」入院
・二郎、玄関で苦痛に身体を折る若い女と、付添いの背の高い中年女を見る。(18回)
若い女の横顔は美しかった。帰るところも見ようと、病室の窓から監視する。三沢は「素人じゃなかろう、芸者なら自分の知る女かも知れない」とびっくりするようなことを言う。(19回)

8月4日(金)
・三沢は入院1週間を経てだいぶん元気になった。三沢は昨日の女は「あの女」だったと断言。二郎が帰った後、同じ3階の部屋に入院したという。(20回)
・三沢の話。三沢は大阪に着いた日(7月25日・火曜)に友人たちと深酒をしてその芸者とも知った。ふたりの共通項は胃病。そのとき互いに無茶をしたようだ。(21回)
・女の病室の様子。重いらしい。これまた美しい看護婦が付いている。三沢は(二郎も)この看護婦を良く言わない。美醜で女を判断しないと漱石は言いたげである。(22回)

「君はあの女を見舞って遣ったのか」と自分は三沢に聞いた。
「いいや」と彼は答えた。「①然し見舞って遣る以上の心配をして遣っている
「じゃ向こうでもまだ知らないんだね。君の此処にいる事は」
「知らない筈だ、看護婦でも云わない以上は。②あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはっと思ったが、向こうでは僕の方を見なかったから、多分知るまい」(『友達』22回)

 ①は漱石らしい表現。行為の前に自分の思考を優先させる。行為の判定の前に自分の正邪の判定がある。言い方を変えると、自分の正邪の判定が大事で、それ以外は余事である。そして②では三沢の体調が良化したのは、女が入院して来たせいであるとも取れる。

8月5日(土)
・三沢付きの看護婦による「あの女」の情報。付添いの中年女は親代わりのような態度の置屋の元下女。性格も悪い。付添い看護婦も性格が悪い。滋養浣腸が効かない。(23回)

8月6日(日)
・三沢は「あの女」の本当の母親を、1回だけ見かけた。金の無い年寄りは憐れである。「あの女」と同年代の2階の入院患者が、おそらく経済的な事情で担架のまま退院した。田舎へ向かう釣台を見て、二郎と三沢は暗澹とした気持ちになる。(24回)

8月7日(月)
・悲惨な患者ばかりではない。病院をゲストハウス代わりにしている男もいる。喜劇もまた常に悲劇に隣接しているのである。その中で三沢の身体は回復してゆく。(25回)
・三沢はもう院内を自由に散策出来るほどになった。しかし三沢はなぜか「あの女」の病室を訪ねようとしない。二郎はいっそ退院を勧める。三沢は答える代わりに、二郎にいつまで大阪にいると訊ねる。(26回)

8月8日(火)三沢退院
・二郎は2日前(8月6日・日曜)病院もしくは宿所にお兼さんの訪問を受ける。岡田が同行しなかったのは謎であるが、相変わらず漱石が日曜を無視したのであれば、理屈は合う。お兼さんは岡田の思わせぶりについて、何がしかのことはしゃべったようである。
・二郎の(性の争いについての)悩みは誰にも分からない。三沢の退院についての主張を撤回することにしたが、三沢は意外にも独自に退院を決めてしまった。(以上27回)
・三沢は退院前に「あの女」に一言謝りたいと言う。その前に金が要る。(28回)
・二郎は岡田に会って借金を申し込む。たぶんこのときに母たちの大阪入りの時間割りを聞いたのだろう。二郎はお兼さんの手から金を受け取る。(29回)
・三沢病院での最初で最後の「あの女」との対面。(30回)
・「あの女」は三沢をよく覚えていた。女は三沢の思いを裏切らなかった。恩讐を超えて、女は笑って三沢を送り出した、と言う。(31回)
・三沢の話。出帰りの娘さんの話。(32回~33回)

 このあと二郎は大阪発の夜行寝台急行で帰京する三沢を見送る。翌日は入れ替わりに東京から到着する母と兄夫婦を、夜岡田夫妻と共に出迎えるわけである。こうして『友達』の物語は8月8日に終わり、次話『兄』が翌日には始まる。『兄』の内容は二郎たち4人の大阪・和歌山旅行であるが、その旅の日程だけ引き続き掲げてみる。

《『行人/兄』長野家のスケジュール表》

8月9日(水)到着。大阪泊。
8月10日(木)佐野と面会。大阪泊2日目。
8月11日(金)和歌の浦へ。
8月12日(土)和歌の浦2日目。
8月13日(日)和歌の浦3日目。
8月14日(月)盆波。台風。二郎と直、和歌山一泊事件。
8月15日(火)(和歌山~)和歌の浦5日目。
8月16日(水)和歌の浦~大阪~夜行寝台急行にて大阪を発つ。

 本当は家族の大阪到着から和歌の浦・和歌山すべて1日ずつ後ろへずらしたいところではある。そうすると台風下の和歌山での一泊は8月15日で漱石の場合と一致するし、何より三沢の退院が1日延びて8月9日(水)になる。「あの女」の入院8月3日(木)からの日数も1日増して、全体にその部分の窮屈感は薄まる。お兼さんの病院訪問も8月7日(月)になって、岡田がなぜ一緒でないのかという問題からも解放される。お兼さんの訪問により「二郎を驚かせる」一件の内容が半ば明らかにされるのであれば、1週間以内という岡田の言葉も、珍しく真実を穿ったわけである。
 しかしこの案が採れないのは1点だけ、大阪から和歌の浦へ発つ日が土曜になってしまうという不都合である。岡田は皆と一緒に和歌の浦へついて行きたいのだが、同僚が病気で欠勤しているので自分まで休むわけにはいかない、同行して案内出来ないと言っている。これはその日が土曜であってはなかなか通用しにくい言い訳であろう。一行の出発を数時間遅らせるとか、岡田だけ後から追いかけるとか、やり方はいくらでも見つかるからである(母たちにその気がないにせよ)。

 まあそんなことをとやかく言ってみても始まらないが、いずれにせよ和歌山は旧盆の最中であった。二郎たちは漱石と同じ盆波を見たのである。明治44年7月23日(日)スタート説は、一応『行人』の中では破綻しないことを以って、めでたしとするしかない。