明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 20

187.『兄』1日1回(3)――病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか


第5章 和歌の浦2泊目~兄と自分、山上の垂訓・東照宮
    二郎・一郎・(直・母)

第16回 東洋第一エレヴェーター「二人で行こう。二人限で」(8/12土)
第17回 蒻鬱した木立の中に紀三井寺を望む~権現様参り(8/12土)
第18回 山門から拝殿へ進む「お直は御前に惚れてるんじゃないか」(8/12土)
第19回「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」(8/12土)
第20回「おれが霊も魂も所謂スピリットも掴まない女と結婚している事丈は慥だ」(8/12土)
第21回「宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」「二郎、何うか己を信じられる様にして呉れ」(8/12土)

 この章では母とお直がお休みである。最初と最後に少しだけ登場して、あとは二郎と一郎の物語である。一郎はおかしなことばかり言って二郎を困惑させる。遂には「今日御前を此処へ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。何うぞ聞いて呉れ」(同21回)と言い出した。読者は続きを読まないわけにはいかない。

第6章 和歌の浦3泊目~兄と自分、山上の垂訓・紀三井寺
    二郎・一郎・直・母

第22回 母とお直は紀三井寺に行っていた~母は高い石段をお直に引かれてやっと登った(8/12土)
第23回 トランプ事件~エレヴェーター再訪~紀三井寺へ(8/13日)
第24回「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊って呉れれば好いんだ」(8/13日)
第25回「明日昼一所に和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支ないだろう」(8/13日)
第26回「直御前二郎に和歌山へ連れて行って貰う筈だったね」「今日はお止しよ」(8/14月)
第27回「二郎、今になって違約して貰っちゃ己が困る。貴様だって男だろう」(8/14月)

 一郎の煩悶は一応理解出来る。相手が妻でなくとも、どんな人間関係にも疑い出せばきりがないということは、世俗にはままある。しかしその対処法として、一郎のような作戦を思いつく人間はそうはいまい。誰にとっても、いいことが一つもないからである。
 神を試すなという訓えがある。これは妻なら(弟なら)試してよいという意味ではなかろう。『行人』の読者なら後に、書く予定のなかった『塵労』で、一郎が同僚に「神は自己だ」と訴えるくだりを記憶しているだろう。一郎の訴えは魂の叫びであったか。それとも彼が単に漱石の主人公としては(迷亭に次いで)エキセントリックに造型されたに過ぎないのか。

 紀三井寺からの連想というわけでもないが、本項タイトルに引用した明石海人は粉河に3年いた。この歌はあらゆる詩人の(漱石も含む)魂の叫びであるが、一郎のように芸術的成果物を持たない市井の一変人にとって、(彼等が実在するのは明らかであるが、)彼らの救済される道というは果して存在するのだろうか。そもそも彼らは救済される必要があるのだろうか。
 一郎にとっての「病む歌」が大学教授としてのプチ社会的成功だとすれば、これは一郎でなくとも救われない話である。むしろ一郎にとって「病む歌」はお直であるべきだろう。一郎はお直と離れることが出来ない。離婚して済む話ではない。離れることが出来ないからこそ悩むのである。漱石はほとんどの作品でその解決手段を探求したが、当然ながら有効な回答は見出せなかった。一郎の苦しみは狂気によってしか解消し得ないものなのか。『行人』にその道は微かにでも照らされることがあるのだろうか。

第7章 嵐を含む空~嫂と自分、和歌山へ
    二郎・直・車夫・料理屋の下女

第28回 車夫に何処か寛くり坐って話の出来る所へ連れて行けと指図した「何故そんなに黙っていらっしゃるの」「何故そんな詰らない事を聞くのよ」「うるさい方ね」(8/14月)
第29回 待合のような料理屋~風呂~昼食の膳~下女を下げる「左右。そんなに御天気が怖いの。貴方にも似合わないのね」(8/14月)
第30回 二郎とお直のバトル本格化「然し兄さんに対して僕の責任があります」「じゃすぐ帰りましょう」(8/14月)
第31回 お直の涙「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。然し私は是で満足です」(8/14月)
第32回「貴方何の必要があって其んな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」(8/14月)
第33回 和歌の浦に迫る暴風雨~海辺の母たちの宿が心配だが~電話も電車も通じない「じゃ今夜は仕方がないから此処へ泊るとしますか」(8/14月)

 『行人』を(漱石を)まだ読んだことのない人は幸いである。30回・31回・32回の3回分、お直と二郎のやり取りを読んで、その人はどのような体験を味わうのであろうか。それが叶わない古手の読書人は、この100行か200行の文章を、ほじくり返しながら読み直してみるしかない。そしてその中に、どの1行にも無駄がないということを発見して驚くのである。あってもなくても文意が変わらない、という記述が皆無である。漱石の小説が男女の会話に集中して行くとき、互いの男女は相手の言葉、一言一句に誠実に対応する。言いっ放し聞きっぱなしということが無い。もちろん地の文も同様である。漱石はそこに決して無駄な口を差し挟まない。だから繰り返し読んで厭きるということがない(例えばモーツァルトの最良の楽曲のように)。

 ところで二郎と出掛けたお直は、待合みたいな料理屋でついに泣く。お直は二郎に、今のお直の態度のままでは兄が可哀そうである、何とか改善の余地はないかと言われただけである。お直は二郎のこぼす内容より、長野家で独りぼっちになっていることに淋しくなったのであろう。一番泣きそうにないお直が泣いたからには、漱石の女で遂に泣かなかった者などいるだろうか。大泣きランキングの作成は困難を極めようが、マドンナ・那美さん等泣くシーンの書かれない女も(金田富子でさえ)、それは小説の舞台の裏で必ずや泣いていることが容易に想像される。あえてこの問いに答えがあるとすれば、それは『三四郎』の美禰子であろうが、美禰子も(『虞美人草』の藤尾同様)、充分涙は流しているのである。美禰子は物語の始まる前に(野々宮が振り向いてくれないので)、藤尾は終わる寸前に。
 話はそれるが『三四郎』でもうひとりだけ泣かない女がよし子である。よし子は怖がりで甘えん坊の泣き虫であるが、小説の中では泣かない。よし子は与次郎の口を通してではあるが、三四郎の伴侶に相応しいというお墨付きを得ている。漱石の作品で、その女を知る(作者を含む)誰かが、ある男の結婚相手に相応しいと明言された例は、野々宮よし子唯一人である。
 といえば即座に2つ3つ反論が来よう。
 宗近が小夜子を小野の細君になるべきだと主張したのは、昔の約束をちゃんと守れと言ったに過ぎないし、そもそも宗近は小夜子を知らない。坊っちゃんも深い考えなしに、ただ赤シャツへの腹いせに、本来の婚約者古賀が遠山の御嬢さんと結婚したらいいと思っただけである。佐川の令嬢を貰え貰えとうるさく言う父と嫂は、また別の魂胆があった。彼らが佐川の令嬢の人となりを知るわけではない。といって神戸へ帰った令嬢が泣かないわけでもないのだが。