明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 19

186.『兄』1日1回(2)――海恋し潮の遠鳴り数えては少女となりし父母の家


第3章 和歌の浦へ~兄と自分、接吻
(キッス)の話
    二郎・一郎・直・母

第10回 南海鉄道の食堂車~三沢の接吻事件(8/11金)
第11回 市内電車に乗換~出帰り娘さん事件(8/11金)
第12回「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」(8/11金)

 自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐った。・・・向こう側に腰を掛けている母が、嫂と応対の相間相間に、兄の顔を偸むように一二度・・・(『兄』10回)

 和歌山へ向かう汽車の座席配置について、(たぶん)進行方向に向かって二郎(窓側)と一郎(通路側)が並んで座る。進行方向に背を向けて母(窓側)とお直(通路側)が並んで座る。二郎と母が向かい合わせ、一郎とお直が(膝を突き合わせて)向かい合わせである。『三四郎』でも三四郎(窓側)と広田先生(通路側)は並んで座った。お直は髪が気になるので、風の一番当たらない席を選んだのだろう。
 窓から見える海の景色は、母とお直は食堂車からも堪能したようである。大阪湾、と言ってしまってはミもフタもないが、遠く播磨灘という名の瀬戸内海(の一部)であると思えば、旅情も沸き立って来よう。同じ海を見ていた与謝野晶子の有名な歌がある。(明治38年『恋ごろも』――引用は大正8年新潮社版『晶子短歌全集第1巻』に拠る。)

 海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家

 短歌は時として長篇小説に対峙しうる。こういう秀歌に出会うと、漱石が短歌に手を染めようとしなかった理由が、何となく分かる気がする。(漱石は直截で男性的な文章を好んだが、といって晶子のこの歌が「女性的」というわけでもない。)ピュアな漱石は気分転換に歌を詠むほど器用でも不誠実でも贅沢でもなかった。それがまた短歌という芸術分野を独自に際立たせる。

 さて堺を過ぎて和歌山市に入り、終点で乗り換えた市内電車(路面電車)は空いていた。

是なら妾達の荷物を乗っけても宜さそうだね」と母は停車場の方を顧みた。
・ ・ ・
「へえー是が昔のお城かね」と母は感心していた。母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉を不図思い出した。(同11回)

 荷物(チッキ)は和歌山のターミナルに留め置かれた。後で旅館の使用人なり俥夫が取りに来るのだろう。母は江戸の(町民の)女らしく、身の周りのことが気になる。
 ところで徳川のトの字も語らなかった(少なくとも旧幕時代の殿様という意味で)漱石であるが、熊本に住み暮らしたにもかかわらず細川のホの字も語らなかった漱石であるが、他の殿様についても作品で触れた形跡がない。ここで唐突に出現した「紀州様」と、『趣味の遺伝』(明治38年)でもっともらしく語られた「紀州藩」が唯一の例外である。紀州に何か義理でもあったのだろうか。

第4章 和歌の浦1泊目~兄と嫂、まるで赤の他人
    二郎・母・(一郎・直)

第13回 風呂の後の散歩事件~離れて歩く兄と嫂「あれだから本当に困るよ」(8/11金)
第14回「だからさ。御母さんには訳が解らないと云うのさ」(8/11金)
第15回「余りがたがた云わして、兄さんの邪魔になると不可ないよ」(8/11金)

 この3回は一郎とお直はお休みである。登場はしている。互いに無言でそっぽを向いて。その姿が心配する母と混乱する二郎によって観察されるだけである。母は二郎に愚痴りまくる。二郎も相変わらず人の役に立っているのである。
 しかし母がもし何も感じなければ、そもそも事件でも何でもない。父が一緒に来なかったわけである。母がいくら心配しても、父に一蹴されれば話はそこで終わりである。
 前章で一郎と二郎によって語られる三沢の出帰り娘さんの話も、そもそも汽車の中で婦人連を前に置いて話す内容ではないだろう。おかげで小説は一応進行しているものの、取って付けたような、ちぐはぐな感じは否めない。

余りがたがた云わして、兄さんの邪魔になると不可ないよ」
 母から斯う注意された自分は、煙草を吹かしながら黙って、夢のような眼前の景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、殊更暗いものが蔓り過ぎた。其うちに昼間見た土手の松並木丈が一際黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。其下に浪の砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的刺戟強く見えた。
「もう好い加減に御這入りよ。風邪でも引くと不可ないから」
 母は障子の内から斯う云って注意した。自分は椅子に倚りながら、母に夜の景色を見せようと思って一寸勧めたが、彼女は応じなかった。自分は素直に又蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。
 自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森として元の如く静かであった。自分が再び床に着いた後も依然として同じ沈黙に鎖されていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんと何時迄も響いた。(同15回末尾)

 しかし小説の展開はともかく、漱石の文章自体は非常に美しい。夜の景色と部屋の中の対比。月のない空と(引用部分の前に書かれている)マッチの灯。黝ずんだ松並木と波の白い泡。静寂を際立たせる母の声、波の音、兄夫婦の室の沈黙。すべてが溶け合って、とくに末尾のどどんという波の音の場景は、今もこの後も和歌の浦の章全体を支配して、本篇『兄』を印象深いものにしている。
 ところでこのときの(明治44年8月の)月齢を調べると、漱石が和歌山を訪れた頃は御盆の盛りで、半月(はんげつ)よりむしろ満月の方に近い。そのぶん月の出が遅いので、早寝早起の漱石は、おそらく和歌山の旅荘から月の出の前の夜空を眺めて、それを記憶していたのではないか。(晩年の)漱石本人は深夜に外の景色を眺める趣味はなかったと思われる。