明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 29

325.『草枕』目次(16)第11章(つづき)――有明海の星月夜


第11章 山門の石段を登りながら考えた (全4回)(承前)

2回 一列に並んだサボテンと1本の木蓮の大樹
(P132-10/仰数春星一二三の句を得て、石磴を登りつくしたる時、朧にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句は纏める気にならなくなった。即座に已めにする方針を立てる。 石を甃んで庫裡に通ずる一筋道の右側は、岡つづきの生垣で、垣の向は墓場であろう。)
仰数春星一二三~岡つつじの怪~サボテン~木蓮の花~庫裏を訪ねる

 仰数春星一二三の句を得て、石磴(せきとう)を登りつくしたる時、朧(おぼろ)にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句は纏める気にならなくなった。即座に已めにする方針を立てる。
 石を甃(たた)んで庫裡に通ずる一筋道の右側は、岡つゞきの生垣で、垣の向(むこう)は墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦が高い所で、幽かに光る。数万の甍に、数万の月が落ちた様だと見上る

 山門を入った寺院の姿はまるで、ファンゴッホ(フィンセント)の『オーヴェールの教会』を思わせる。画工は(絵画の中の農婦同様)左の道へ進む。『草枕』の当時はファンゴッホが亡くなってすでに十余年、欧州でも評価は定まっていたから、美術好きの漱石も(白樺派を俟つまでもなく)『教会』や『星月夜』のようなタブローを識っていた可能性がある。であれば引用文最後の「数万の」も「星」の書き間違いでないかも知れない。しかし普通ならここは誤記を疑うところであろう。
 ところで引用文の「岡つゞの生垣」は初出も初版も「岡つゞ」と誤読されて、それは(よくあることで)いいのだが、いつの間にか本文が「岡つじ」になってしまったようである。
 初版は春陽堂の『鶉籠』だが、同じ春陽堂から大正3年に再発されたとき、すでにそのような改訂がなされている。初版の誤植を直すときに一緒に直されてしまったと思われるが、この改訂に漱石が関与していなかったことは明白である。漱石は自作を読み返すことさえしなかったのだろう。死後すぐに出た全集もこれを踏襲し、昭和版漱石全集ももちろん何の衒いもなく「岡つゝじ」である。「岡続き」が「岡躑躅」になってしまった。
 漱石は自分の作品に無数の植物名を書き込んでいるが、岡躑躅の使用例は皆無である。そもそも躑躅の用例からして、それが始めて出現するのはずっと晩く『心』からであり、それも小説『心』の本筋と離れた、非常に特異なケースの中で扱われている。『道草』にも1ヶ所登場するが、少なくとも自然に周囲を描写した中での登場ではないようだ。『明暗』にも書かれ、それはとくに奇異な感じはしないが、まあ未完の小説であるからには、これ以上のことは言えない。

 平成版漱石全集から突然「岡つゞき」になったのであるが、とくに注釈を付けているわけでもなく、巻末の校異表には載っているものの、一般の読者はそんなところまで見ない。古い全集の読者はかえって漱石の原稿の方(平成版の全集の方)が間違っていたのではないかとも思ってしまう。あるいは生前の漱石が誰かに「岡つつじ」が正しいと指示していたとすれば、平成版の全集は要らぬことをしたことになる。少なくともその部分に触れた注釈は必要になろう。しかし客観的に見て、漱石が原稿に書いた通りが正しいとしか思えない。本ブログ坊っちゃん篇でも述べたことだが、『草枕』を読んだ凡そ1億人の日本人が、「岡つつじ」と信じたまま死んで行った。そして今いる1億人の人も、「岡つつじ」でなく「岡つづき」が100年ぶりに正しかったのであると格別知らされないまま、『草枕』を読んでいくのだろうか。

 近寄って見ると大きな覇王樹(さぼてん)である。高さは七八尺もあろう、糸瓜程な青い黄瓜を、杓子(しゃもじ)の様に圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合せた様に見える。あの杓子がいくつ継がったら、御仕舞になるのか分らない。今夜のうちにも廂を突き破って、屋根瓦の上迄出そうだ

 読者は序盤で似たような話が出て来たのに気づく。

 生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州を館山から向うへ突き抜けて、上総から銚子迄浜伝いに歩行た事がある。其時ある晩、ある所へ宿た。・・・三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板庇の下に傾きかけて居た一叢の修竹が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、既にひやりとした。椽板は既に朽ちかかって居る。来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。(第3章)

 魚や動物と同じく、植物の成長もまた人間の子供に似て早い。しかし漱石の場合は少し早過ぎるようだ。第3章の述懐だけなら単なる冗談とも取れようが、本章のような記述を併せ読むと、漱石は明らかに何かを怖がっているかのようである。これではまるで『夢十夜』の世界ではないか。決してサボテンが人体に似ていることから連想されたものではないと思われる。
 漱石は我が子に比較的冷淡だったが、それは則天去私の立場というより、あっというまに自分の背丈が倍にもなりかねない、その子供の「成長」に対して、(科学的・生物学的な)ある種の恐怖を感じていたのではないか。漱石自身も子供時代には大きくなったではないかと言うなかれ。自分では自分の成長する様子は見えないのである。

 少時、晁補之と云う人の記行文を読んで、未だに暗誦して居る句がある。「時に九月天高く露清く、山空しく、月明かに、仰いで星斗を視れば皆光大、たまたま人の上にあるが如し、窓間の竹数十竿、相摩戞して声切々已まず。竹間の梅棕森然として鬼魅の離立笑髩の状の如し。二三子相顧み、魄動いて寝るを得ず。遅明皆去る」と又口の内で繰り返して見て、思わず笑った。此覇王樹も時と場合によれば、余の魄を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。

 画工は若い頃の愛読書(愛誦歌)を思い出すが、これは回想シーンとは言えないだろう。古文を引用しただけである。画工はそのまま木蓮の樹の下に入って月を見上げ、

 木蓮の花許りなる空を瞻(み)

 という秀句を得る。この句に限り句点(マル)が付いている。初出も初版も(原稿準拠の)平成版全集も付いているところをみると、原稿の段階で漱石が句点を付けていたのだろう。しかるに上記岡つつじの話同様、大正3年版の『草枕』以降それが外されている。誰が外したのだろう。今では大方の文庫・他社全集まで、句点がない方が多いようだ(集英社版全集はなぜか初出初版を踏襲して句点付きである)。
 作りかけて断念した絶句だか律詩の代わりに、名画『オーヴェールの教会』、彫刻(サボテンを人の塑像に見立てる)、晁補之の詩文、俳句。あらゆるものを総動員して、画工は怒りの感情を吹き飛ばした。岡つつじなどどうでもいいと言わんばかりに。