明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 17

273.『坊っちゃん』愛と生(4)――『論理哲学論考』を口笛で吹く

 ここで改めてヴィトゲンシュタイン『論理哲学論文』最後の5%部分の拙訳のみ掲げてみる。
 原文は毎回掲げているが次の2冊による。

Ludwig Wittgenstein ‘‘ TRACTATUS  LOGICO – PHILOSOPHICUS ’’

Translated by Charles Kay Ogden ( Dover Publications, INC. , New York 1999 )
Translated by D. F. Pears & B. F. McGuinness ( Routledge & Kegan Paul , London 1974 )

6- 4 命題(論議の内容)の価値というものはすべて同一である。

6- 41 世界の意味は世界の外に在る。世界の中ではすべてのものは、「在るから在る」のであり、世界の中のすべてのことは、「起こるから起こる」のである。そんなものの内に価値が存在するだろうか。――仮に存在したように見えても、そう見えるだけである。世界の「中には」価値はない。
 価値のあるものが存在するとすれば、それは、生起すべきすべてのこと、存在すべきすべてのものの、外側になければならない。なぜなら生起すべきすべてのことも、存在すべきすべてのものも、すべてはアクシデント(偶然)だからである。
 それを覆すもの、偶然ではないと見えるものがあっても構わない。なぜならそれもまた偶然のなせる技であろうから。
 世界の中のものに対して価値を吹き込むもの、それは世界の外側になければならない。

6- 42 それゆえ倫理学の命題(倫理について論議の内容を言葉で定義したもの)もまた、存在し得ない。
 どのように定義したとしても、命題は倫理的に高次のものを何も表現できない。

6- 421 倫理は言葉では説明が出来ない。
 倫理は議論や経験を超越した所に鎮座している。
(その意味で倫理は美に似ている。)

6- 422 「汝……為すべし」という倫理法があったとして、まず頭に浮かぶのは、「ではそうしなければどうなるのか」であろう。しかし倫理が通常の意味での賞罰と無関係であるのは明らかである。従って「どうなるのか」という結果はどうでもよい。--少なくとも議論するような問題ではない。とはいえこの問い自体には尤もな点もある。慥かにある種の倫理的賞罰というものは必要であろう。ただしそれは、当の行為そのものの中にあらねばならない。
(賞が好ましいもので罰が好ましくないものであることもまた、明らかであるが。)

6- 423 人は倫理的であろうとする、あるいはなかろうとする「意志」については、これを語ることはできない。
 そしてその意志が外へ現れたものについては、ただ心理学が関心を持つだけである。

 

6- 43 善なり悪なりの意志の動き・振る舞いが世界を変えるとしても、変えられるのは世界の全体の形であって、1つ1つの事実――言葉によって表される事実ではない。つまりどのような意志も世界を変えることは出来ない。
 言い換えると、意志によって世界は丸ごと別の世界へ変わるものでなければならない。謂わば世界全体が縮んだり伸びたりするのでなければならない。
 幸福な人の世界と不幸な人の世界は、全体の形からしてまったく違う。

6- 431 それはまた、死によって世界は変わらず、世界が存在することを止めるのに似ている。

6- 4311 死は人生の一イベントではない。死は人の経験値に収まり切るようなものではない。
 永遠を終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、現在を生きる者は永遠に生きる。
 我々の視野に境界線がないように、我々の生もまた、縁(ふち)を欠いている

6- 4312 霊魂の不滅、人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の「外」にある。
(ここで解こうとしているのは、自然科学の問題ではないのだから。)

6- 432 世界がどのように見えるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことである。神は世界の中には姿を現したりしない。

6- 4321 事実(ファクト)はただ問題の中だけにある。解き方の中にはない。

6- 44 世界の「在り方」が神秘なのではない。世界が「在ること」が神秘である。

6- 45 スピノザのいう、世界を「直感で見る」ということは、自分の見ているものがそのまま世界のすべてであると感じるということだ。この感じがすなわち神秘である。(見えないものを信じるのだから。)

6- 5 口で言い表わすことが出来ない答え――があるとすれば、それに対する質問もまた、言い表すことができない。
 質問が可能であれば、答えもまた「可能」である。
 つまり「謎は存在しないことになる。

6- 51 問うことの不可能な質問とは何ぞや?――これは論破できない懐疑論なんかではなく、明らかにナンセンスの謂いである。
 というのは問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして何事にせよ「語ることが出来る」ところにしか、答えは成り立たないからである。

6- 52 たとえ可能な限り「すべての」科学の問いが答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手付かずのまま残されるだろう。もちろん、そのとき問いはまったく残っていない。そしてまさにそれが答えなのである。

6- 521 生の問題の解決を、人はこの問題の消滅によって始めて気付く。
(長い懐疑の末ようやく生の意味が明瞭になった人が、それでなお生の意味がどこにあったか語ることが出来なかった、その理由がまさにここにあるのではないか。)

6- 522 だがもちろん言葉で言い表せないものは存在する。それは「自らを顕わす」。それが神秘である。

6- 53 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題――つまり哲学と無関係の命題――これ以外は何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとする人がいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘してやる。これこそ本来の哲学の正しい方法にほかならない。このやり方は人を満足させないだろう。――その人は哲学を解説されている気がしないだろう。――しかしこれが唯一厳密に正しい方法なのである。

6- 54 私の命題(論議の内容)は次のように解明されるであろう。私を理解する人は、私の命題から這い出て、それらの上に立ち、乗り越え、最後にナンセンスであると気付く。(梯子を登り切った者は梯子を投げ棄てねばならない、ということだ。)
 人はこれらの議論を乗り越えねばならない――そのとき世界は正しく見えてくるだろう。

 語り得ぬものについては、人は沈黙していなければならない。

 この最後の「沈黙するしかない」という有名なフレーズは、彼の信奉者によって、「それは口笛で吹くことも出来ない」と、おかしな念押しがなされた。ヴィトゲンシュタインは口笛が得意だったが、そういうことと関係なく、妙に気にかかる「余計な一言」ではあった。さしずめ論者のこの訳文などは、偉大な『論考』の一部を口笛で吹いてみたようなものと言えようか。
 口笛で思い出したが、トニオクレーゲルがいつも口笛を吹くのは、やはり言いたいことが心にわだかまって、それを言葉にすることが出来ないので、そういう(尖ったような)口をして見せるのだろう。ヴィトゲンシュタインが大戦のとき塹壕で、背嚢の中に『トニオクレーゲル』を忍ばせていたと空想することは許されるだろうが、死と隣り合わせの沈黙(あるいは騒音)の中から(口笛にせよ)娑婆の世界へ吐き出されたものを、ヴィトゲンシュタインは書き留めておいたのであろう。

 最後にもうひとつだけ、先に『論考』- 4311 から特に「死は人生の一イベントではない。人は死を経験すべく生きるものではない。」を取り上げたが、同じく- 4311 の、最後の文を改めて掲げてみたい。

 我々の視野に境界線がないように、我々の生もまた、縁(ふち)を欠いている

US版 Our life is endless in the way that our visual field is without limit.
UK版 Our life has no end in just the way in which our visual field has no limits.

 ここもまた先の項同様、出版されている既訳を紹介しよう。

①我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終りを欠いている。(奥雅博/大修館書店1975年版)

②視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。(野矢茂樹岩波文庫2003年版)

私たちの生は、私たちの視野に境界がないのとまったく同様に、終わりがない。(丘沢静也/光文社文庫2014年版)

 当然ながら正しく訳されているとしか言いようがないが、ふつう「生に終わりがない」という言い方で人が感じるものといえば、哲学ではなくて宗教ではないか。あるいは人生訓に近いものではないか。
 人は必ず死ぬ。その生に終わりがないとすれば、人は皆不死を享受する、とは流石に誰も思うまいが、それについての何らかの人生の処方箋のような言い回しではないかと、つい思ってしまう。
 そうではなくヴィトゲンシュタインはここでは、我々の生にははっきり言い表せないけれども、何か足りないものが存在しているのではないか、と問いかけているように思われれる。
 我々の生には何かが欠けている。
 生まれてそして(生を与えられたがゆえに)死んでいくなら(イワシやサンマのように)、生は完結したものである。不可思議でも何でもない。自然科学で片付いて(宇宙が消滅しようがしまいが)謎は残らない。しかるに人間はなぜ、宇宙の誕生と死を超えてまで、悩まなければならないのか。
「吾輩」には名前が無かった。あの斑猫(黒猫ではない)の生には欠けるものがあったのである。坊っちゃんの生にも同じことが言える。自分のせいではないのに、生まれ落ちたとたん、完全な生とは程遠い生を歩み始めた。(『草枕』はその愚痴を綴った旅日記であろう。)

 我々の生もまた、縁(ふち)を欠いている。我々の生は果てがない。

 漱石の(いつまでも視力のよい)澄んだ瞳は、この世の様々なものをはっきりと見た。しかるにその視野の境界は、自分では見えないのである。それと同じことが自分の「生」にも起きていると、このウィーン生まれのずば抜けた才能を有つ哲学者は言うのである。彼がそのことに神を持ち出さなくても、日本の漱石は納得しないだろうか。