明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 22

235.『先生と私』1日1回(8)――郷里にて


第6章 両親と私 (明治44年12月中旬~明治45年1月初旬)
    私・先生・先生の奥さん・私の両親

21回 冬休み前の帰省~父の病気は先生の奥さんの母親と同じ腎臓病~先生から旅費を用立ててもらって夜行列車で東京を発つ
22回 兄は遠い九州~妹は他国へ嫁いだ~父は空元気を出しているかのよう~先生に手紙を書いたら思いがけず返信があった
23回 退屈しのぎの将棋~父と先生を較べて先生の存在感のあまりの大きさに驚く~1週間を過ぎてもう東京へ戻りたくなった
24回 正月が明けて先生の宅を再訪~「こりゃ何の御菓子」~人はあっという間に死ぬ~不自然な暴力で死ぬこともある

 三四郎のときもそうだったが、冬休みの帰省の前に、特別の仕送りがなかったことが気にかかる。12月分は11月末に仕送りがある。1月分は年末までに送金しなければならないが、本人がクリスマス前に帰省するのであれば、早めに送る必要がある。私は先生に用立てて貰って、つまり両親の半信半疑のうちに帰省してしまった。そしてこれまた両親の期待を裏切って、正月明け早々上京した。何でも人の言う通りでなく、人の言う反対を行く。私は漱石度合いの薄い人間であるが、それでも無意識のうちに、私の中の漱石なるものが染み出しているかのようである。
 仕送りが実際にどのように費消されるかについて無関心なのは、漱石が東京の人であったこと、仕送りを受けた経験のなかったこと、定期的な父親からの資金援助がなかったことに拠るものであろう。寄宿舎や下宿生活は漱石も(いやというほど)経験しているし、地方の友人も多かったのだから、事情はある程度は分かっていたはずだが、漱石は小説ではその(散文的な)世界へ踏み込むことをしなかった。細かく書き始めるといろいろ鬱陶しいことが持ち上るからであろう。

 私は其晩の汽車で東京を立った。(『先生と私』21回末尾)

 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。是は万一の事がある場合でなければ、容易に父母の顔を見る自由の利かない男であった。妹は他国へ嫁いだ。・・・(同22回)

 私が夜行列車で東京を発つということは、翌朝到着するくらいの距離であれば、朝出発すればいいわけである。無理に狭くて硬い座席で一夜窮屈な思いをする必要はない。この場合は翌日夕方までに郷里へ到着するということであろう。朝でないにしても、深夜に実家の扉を叩くわけにも行かない。
 朝出発するとその日のうちには着かない。どうしても途中で1泊せざるを得ない。三四郎の九州ならそれも已むを得まいが、私の郷里は兄が「遠い九州にいた」と書かれるくらいだから、中国以西ではありえない。先に考察したように、宿泊を前提とするほどの距離でもないということである。私の郷里が秋田岩手でなければ、北陸長野から岐阜三重和歌山へかけての本州中部に位置する県であると断じた所以である。そして最終的に東北を除外したのは、直接には先生の避暑地を那須塩原の辺りと推定したことによるが、さらに言えば、父親が明治大帝や乃木将軍を心底崇め奉っていることも、根拠は薄弱ながら理由の一つに挙げられよう。私の家は地方の地主農家であるらしいから、(夏目家と同じく)官軍も賊軍もないであろうが、東北人であれば長州人の乃木に対して、
「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐ御後から」(『両親と私』16回)などと(譫言でも)言わないのではないか。必ず言わないとは断定出来ないが。
 決め手はやはり、兄の赴任地九州があまりにも遠方になるがゆえである。兄は訃報でないのに駆け付けて、生きている父の許で10日も20日も暮らしている。
 ちなみに漱石は五高教授時代に、試験期間中を理由に父親の葬儀に参列しなかった。どのような事情があるにせよ、明治の世に一人前の社会人が父親の葬儀に出ないというのは、いくら末っ子であっても許されることではあるまい。世間の都合より個人の都合が優先するというのは、漱石ならではの論理であるが、世間はこれを変り者と見る。牛込の姉と兄がことさらな苦情を述べなかったのは、金銭面も含めて兄貴面(姉貴面)出来ない事情があったからに過ぎないだろう。

 とにかく帰省した私は先生に、父の容態報告を兼ねて帰省旅費を借りた御礼の手紙を出した。ところが思いがけずすぐ返信の手紙が届いた。特別の用件を含まない内容だったので私は驚いた。そのとき先生は何か強迫観念のようなものに取り憑かれていたのだろうか。それとも少しでも金に関係する手紙とあれば、気になって返事を書かざるを得ないのであろうか。まさか返事を出さないと踏み倒されると思ったわけでもあるまい。

 先生の返事が来た時、私は一寸驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚ろかされた。先生はただ親切づくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。尤も是は私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事を一寸と断って置きたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰っていない。其第一通は今いう此簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大変長いものである。(『先生と私』22回)

 ところが前述したように、『心』がまだ短篇であったときには、こんなことが書かれている。

 ・・・私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。(同9回)

 おそらく漱石は『心』が長篇小説になると決まって、以前(短篇として)書いた部分は無視することにしたのであろう。今でも持っているという絵端書は、読者への詫び状の前にかき消されてしまった。
 ところで引用した上記22回のくだりは、漱石にしては書き方が冗長である。とくに書き出しの傍線を附した部分、「驚ろかされた」の繰り返しは、べつに変ではないものの、ちょっと大袈裟すぎるようにも感ぜられる。何か意図あってのものだろうか。おそらく小説最後の遺書なる手紙に結び付けようとしたのかも知れないが、くだくだしく書いた結果が(手紙を始めて貰ったという)虚偽の事実に繋がるとしたなら、読者としても驚ろかざるを得ない。
 それはともかく、長篇小説になると決まると、スケジュールもまた動き出す。私の卒業と郊外のピクニック。最後の帰省。駆け付ける兄たち。死にたまう父。
 その中に遠慮なく出没する作者の漱石。その本音をさらけ出すような先生の述懐。それは回を追うごとに募るようである。