明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 23

236.『先生と私』1日1回(9)――謎の仔犬と少年


第7章 卒業論文・郊外の散歩・先生の約束 (明治45年1月上旬~5月上旬)
    私・先生・造園農家の家族と犬

25回 卒業論文を書かねばならない~先生の読書量は最近減ったという~「本をいくら読んでも偉くない」「知らないということは恥でない」
26回 卒業論文を書き上げる~先生に久しぶりに会う~先生を郊外の散歩に連れ出す
27回 財産の話~父の病状は一進一退~先生は父親の死と相続財産について何か言いたいようである
28回 鋳型に入れたような悪人が存在するわけではない~平生は皆善人である~植木の苗の並ぶ農園にさまよい込む~犬が吠える~斥候長の子供
29回「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」「君の気分だって、私の返事一つですぐ変わるじゃないか」
30回「私は是で大変執念深い男なんだから」「人から受けた屈辱や損害は、十年立っても二十年立っても忘れやしないんだから」「私は死ぬ迄それを忘れる事が出来ないんだから」
31回「隠す必要がないんだから」「今は話せないんだから」「適当の時期が来なくちゃ話さないんだから」

 高等遊民の先生は読書人であるが、最近は以前ほど読まなくなったという。歳とともに脳の働きが活発でなくなったせいであろう。

「まだあるという程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のように極が悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それ程の恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んで見ようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早く云えば老い込んだのです」(『先生と私』25回)

 正直に漱石本人が丸出しになっているが、これは教師をしていたことが前提になっている述懐であろうから、先生に当てはめるのは無理がある。漱石も教師を止めなければ、(小説を書かない分)一生勉強を続けていたと思われる。手抜きが出来ないたちなのである。

 ある鹿児島人を友達にもって、その人の真似をしつつ自然に習い覚えた私は、此芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をして余所を向いて歩いた。(同26回)

 他人の(同時代の)業績を評価したがらないというのは、変人の最も大きな特徴である。世評に無関心ということもあるが、理由の最たるものは、評価の定まらないものに軽々に飛びつかない(慎重・用心深い)ということであろう。
 人が才能なり努力の賜たるパフォーマンスを見せたとき、安易に感心したり褒めたりすることがない。自分にその資格がないから黙っているのだとすれば、それは誠実な性格の証左であろう。負けん気や嫉妬の類いで無視しているのだとすれば、子供っぽい反応と言わざるを得ない。
 いずれにせよ漱石は同時代のあらゆるものに神を見なかった。一葉や『破戒』を誉めたのは、まず例外中の例外に属する事象であった。よほど蟲の居所が「良かった」のか。(尤も心の底から褒めたわけでもなかったが。)


「静かだね。断わらずに這入っても構わないだろうか」
「構わないでしょう」(同26回)

 このあと先生と私は他人の土地へ迷い込むという、『三四郎』で披露されたエピソードをお浚いすることになる。『三四郎』では広田先生の下宿探しを兼ねた散歩のとき、(郊外の)佐竹の下屋敷の内を通って番人にこっぴどく叱られる。
 農園の入口での先生と私の問答は、先に述べた非論理の理屈に近いもので、これまた『三四郎』の汽車のシーンで、三四郎が寝ている客の新聞に手を掛けながら「御明きですか」と聞いたとき、広田先生が「明いているでしょう。御読みなさい」と言ったことへの「御返し」であろうか。
 しかしこの問答とも言えない問答は、(教師のいない所での)生徒同士の、(上司のいない所での)部下同士の会話に似て、相談にも確認にもなっていない。教師歴の長かった漱石はこの問答に何の意味もないことを知っていたはずであるから、読者はそこに何か別の意図が隠されているのではと思わざるを得ない。

「叔父さん、這入って来る時、家に誰もいなかったかい」・・・
「姉さんやおっかさんが勝手の方に居たのに」・・・
「あー。叔父さん、今日わって、断って這入って来ると好かったのに」(以上同28回)

 犬が急に吠え出した後、子供が駆け付ける。なぜこんなシーンが挿入されたのだろうか。

 郊外を散歩しているとよくこんな経験をする。それをそのまま書いただけ。
 田舎者の強欲な一面を強調するために、こんなエピソードを挿入してみた。
 善人があるとき急に悪人になる。人は思わぬ所で(不法侵入という)罪を犯してしまうことがあるという自戒の意味で。
 Cの加害者バージョン。損害を被りそうになると人は急に怒り出す。

 べつに漱石に問い糺すつもりはないが、この子供のセリフには無理があるようだ。友達と水雷艦長遊び(男の子のする鬼ごっこの一種)をしていたらしい子供が、敷地内に先生たちの人影を見つけたからといって、無断で入って来たか否かの区別はつかない筈である。男の子はなぜこんな(無体な)ことを言ったのか。

 漱石の実体験だから格別の理由はない。
 この子供はふだんからこういうやり口で小遣い銭をせしめている。
 家で姉か母に指示されて、それを伝えに来た。
 このときの先生の話の内容が、漱石にとって後ろめたいようなものなので、それをカモフラージュするために、犬と子供を使って、わざと無理な局面を創り出した。

 ちなみに郊外での農園散歩時に先生の語ったことは、

①「是でも元は財産家なんだがなあ」(27回)
②「余計な御世話だけれども、君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰って置くようにしたらどうですか」(28回)
③「少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(28回)
④「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」(29回)
⑤「そら見給え」「君の気分だって、私の返事一つですぐ変わるじゃないか」(29回)
⑥「私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです」(30回)

 剥き出しで語られると、興醒めの内容ではある。とくに⑤は、『彼岸過迄』の市蔵(松本に対する)、『行人』の一郎(Hさんに対する)に続く、第3の後出しじゃんけん事件ではないか。あとはすべて金の絡む話である。
 漱石とて好きで書いている話ではないから、つい分かりにくい場景を設定してしまうのか。
 先生の金についての恨み節はいいとして、その背景の犬と子供については、その配置の理由は本当に分からない。『明暗』でも津田の会社のシーンで登場した尨犬と少年を、読者はつい何かの暗喩ではないかと思ってしまうが、現行の小説を最後まで読んでも、その意味と効果は不明のままである。
 いくら考えても分からないということでは、同じ『三四郎』で菊人形の日の三四郎と美禰子のランデヴーのとき、(千駄木の奥の)田端の小川の辺で休む三四郎たちの前に現れたデヴィル大人と同じである。
 しかしこのあと先生は私にいつか過去を話すことを約束する。筋書きとしては『心』前半のクライマックスシーンであろう。読者はこれで分かりにくい挿話のことは、ひとまず忘れる。

私の過去を訐(あば)いてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響きを以って、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。然し何うもあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには余りに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたは其たった一人になれますか。なって呉れますか。あなたは腹の底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生が云った。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。・・・」(同31回)