明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 24

110.『門』一日一回(2)――『門』目次第4章(ドラフト版)


第4章 宗助の過去
明治42年11月2日(火)~11月4日(木)
(宗助・御米・小六・父・佐伯・叔母・安之助・杉原)
1回 佐伯の叔母からの手紙~安之助は神戸へ行っていた。
2回 この夫婦~兄に弟を養育する義務はあるか。
3回 宗助の過去~京都から広島へ~父の死。
4回 宗助の過去~広島から博多まで。
5回 宗助の過去~福岡での苦闘~旅の終わり。
6回 出京。御米のお披露目。「これがあの……」
7回 ぐずぐずの1年~叔父叔母の会話~叔父の急死~また1年。
8回 小六の房州旅行~学資打切事件~小六の怒り。
9回 財産横領事件。
10回 月島の工場~盗まれた骨董品。
11回 そして抱一の屏風が残った。
12回 小六の不安再び~この夫婦再び。
13回 空から降って来た安之助~この夫婦三たび。
14回 御米の提案~御米は楽天家か占い師か。

1回
 漱石には実業=横浜という約束事がある。横浜の次点は神戸である。『門』では横浜は安井と御米の棲家に使われたので、安之助は神戸へ行って自らの実業生活のスタートとした。『それから』も似たような経緯で横浜と神戸が使われる。『三四郎』は話が実業に至らない。この横浜と神戸のような使用規則は、他の作品群でも概ね変わらない。

2回
 小六の学資問題に対する宗助と御米の(心配を装った)無関心。それに対する小六の(尤もな)不安と焦燥。前の章でもさらりと紹介されたが、第4章でこの「芋」は丁寧に掘り返される。

3回
 宗助は義絶されて広島へ落ちて行った。苦難の始まりであるが、安月給としても世間的には、まあ普通の生活であろう。父の死によって、ある程度のまとまった金は手にしている。つまり宗助夫婦の懐はまだ余裕がある。

4回
 名ばかり有名の福岡での苦闘の2年間。家が売れたというが、その入金がないための窮乏生活らしい。つまりふつうの若い人は家などないのであるから、ここでも宗助夫妻は「ふつうの生活」なのである。子供が育たなかったのは気の毒だが、夫婦2人の生活は、親子4人の生活より金銭的には楽であろう。都会人漱石にとっては、化外の地での最下層の生活に思えたかも知れないが。しかし当の漱石は熊本にも長年棲み暮らしたのである。福岡は熊本より都会であろう。しかるにこの書き方を見ると、思うに漱石はどこに住まいしても、とくに土地に対する感興は湧いて来ないのではないか。自分と住居地を相対化して観察することがない。(幼児期を除いて)懐かしむということがない。常に圧倒的に今の自分にのみ関心がある、と言えば誤解する向きもあろうが、要するにそういうことである。これを人は潔癖といい、また自分勝手という。

5回
 広島2年、福岡2年で、宗助は東京へ戻ることになる。まさか官僚を気取ったわけでもあるまいが、腰弁とは思えない処遇である。つまり栄転である。夫婦が旅費や引越費用に苦しんだ形跡もない。新居の敷金を払った後(借家に入居した後)、佐伯から60円貰ったことになっている。宗助と御米は60円で何を買ったのであろうか。小説を読む限りでは何も買っていないと断言できるが、生活費としてなし崩しに遣ったとも思われない。たぶん漱石の書き忘れであろう。4千円(4千5百円)に気を取られて、60円などはどこかへ飛んでしまったのだろう。

6回
 新橋で久しぶりに会った小六は、一高入学直前にもかかわらず、信じ難いことだがちゃんと挨拶出来なかった。同じ章の3回には、子供時代の小六の麦藁帽踏み潰し事件が書かれ、玄関靴脱ぎっ放し事件(2章ノ3回)と併せて、小六の再教育(坂井の書生)への伏線となっている。

7回
 小六の学年書き誤りの回である。叔父が急死したことを書いたがための動揺ではあるまい。宗助は御米に、ちっとは佐伯の家に出掛けてみたら、と言っているが、御米の気持ちを理解しない無神経な謂いであろう。宗助は小六に対してはともかく、御米にこれほど無神経なことを言うのは考えにくい。御米は安井を捨てて宗助に走った女である。宗助は本来こんな無神経な男ではない。言わせた漱石も苦しがって、つい小六の学年を勘違いしたのであろう。

8回
 房州旅行の後、小六は学資のことで嫌な目に遭う。漱石が房州旅行から帰ったとき、家では優しい嫂登世が迎えてくれた。嫂との生活は僅か3年である。房州旅行はその真ん中辺の思い出であるが、漱石は小六には苦い記憶を与えた。込み入った話だが、登世の死を、小六に追体験させたかったのだろうか。

9回
 財産横領事件。始まりは明治38年、家の売却である。その金で建てた神田の家が焼けて、宗助の資産が失われたのが明治39年。明治38年~明治39年の頃、漱石神経症の危機を『猫』で乗り切った。しかし『猫』だけでは漱石の精神は再生されなかったのだろう。叔父による財産横領事件を創り出さざるを得なかった。前著でこの問題は結局兄弟の問題であると述べたが、漱石は自分が世襲財産を獲り損なったことを、忘れることができなかった、とは言える。

10回
 叔母の言い訳。そもそも神田の家が焼けたというのが虚偽だとすれば、安之助の資本金(5千円)の出所は理屈に叶う。骨董品がすべて搾取されたというのも、それが安之助の学資になったとすれば、辻褄が合う。佐伯の叔父は山師である。残された叔母と安之助が、中流家庭の様な生活が送れるはずがない。というのは言い掛かりであろうか。

11回
 宗助の父は岸岱の虎の画の汚れを気にしていた。画ではないが、野上弥生子の回想に似たような逸話が語られる。漱石もまた、(当り前だが)大事なものを汚すことを大変気にして、それを隠そうとしなかった。気取らず、正直なのである。

12回
 第2回に続き、小六の不安と宗助夫婦の無関心が描かれる。無関心なのではない。ただどうしようもないのだ、と宗助は言うであろう。しかし夫婦は縁日で花の鉢植えを買って、1つずつ提げて帰る。漱石は庭造りは嫌いでない。宗助もその片鱗はある。漱石がどう書こうが、宗助は余裕の人である。御米も宗助に倣っている。小六はやり切れまい。

13回
 小六の不満が安之助を介して3たび語られる。しかし夫婦は上の空である。床を並べて寝る二人の夢の上に、高い銀河が涼しく懸った。小六が気の毒になるというよりは、読者はなぜか却って清々しい気持ちになる。暗いはずの話が少しも暗くない。自然に滲み出るユーモアのせいだろうか。そういう文章になるのは漱石の人柄だろうか。

14回
 すべては御米の言うなりに事は運ぶ。「女の言う事は決して聞かない」(『猫』)ように見えて、漱石の男は何一つ自分では決められない。結局は女の言う通りになるのである。それは三四郎から『明暗』の津田まで一貫している。野々宮宗八が美禰子と結婚しなかったのは、美禰子がプロポーズしなかったからである。その理由は(倫理上)当時そんなことをする習慣がなかったからで、『虞美人草』の藤尾は唯一の例外であるが、不自然にも漱石によって抹消されてしまった。御米の指導を受ける宗助は、藤尾に支配される小野さんや千代子に論破される市蔵にも似ているが、何より夫婦であるからには、お延の言いなりになる津田と瓜二つである。
 いずれにせよ、この回で長い「前書き」が終り、物語は発端へ帰る。