明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 28

284.『坊っちゃん』1日1回(6)――土曜日午後の職員会議


第6章 職員会議 (全5回)
(明治38年9月29日金曜~9月30日土曜)

1回 君は学校に騒動を起すつもりで来たんじゃなかろう
(9月29日金曜~9月30日土曜)
(P304-15/野だは大嫌だ。こんな奴は)
赤シャツは弱虫に極まっている~弱虫は(女のように)親切なもの~山嵐には氷水の1銭5厘返しておこう~坊っちゃんは膏っ手~昨日は失敬迷惑でしたろう~これから山嵐と談判するつもり~君そんな無法をしちゃ困る~君大丈夫かい

 他人から恵を受けて、だまって居るのは向うを一と角の人間と見立てて、其人間に対する厚意の所作だ。割前を出せば夫丈の事で済む所を、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊とい御礼と思わなければならない。
 おれは是でも山嵐一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思って然るべきだ。

 坊っちゃんは1銭5厘の氷水について、奢られる者が奢る者に恩恵を施すという、妙に道徳的な論理を開陳する。坊っちゃんは教師に向いている。とても1ヶ月の新米教師には見えない。
 一方ベテラン教師たる赤シャツは翌朝早速坊っちゃんの机まで来て、「昨日は失敬、迷惑でしたろう」と言う。挨拶が丁寧なのは漱石の持ち味である。『草枕』の那美さんは深夜画工の寝る部屋に侵入したことを隠さない。

 昨夕は御迷惑で御座んしたろう。何返も御邪魔をして」(『草枕』第4章)

 画工――那美さん
 坊っちゃん――赤シャツ

 画工は那美さんを持て余している。画工の方が年上かも知れないが、人生のキャリアにおける格が違う。でも那美さんは画工に親しみを感じている。(『三四郎』の美禰子みたいに)姉さんじみていると言ってもいいかも知れない。坊っちゃんに対する赤シャツの態度もこれに似ている。何か策略あり気なところも共通している。坊っちゃんは赤シャツのことを何度も女みたいだと繰り返すが、女で別に悪いことはないだろう。那美さんも美禰子も男性的な女であるし、清も母もまた女である。坊っちゃんは(母のことは明言しないが)清を敬愛している。赤シャツは坊っちゃんの庇護者になりうる存在である。少なくとも漱石はそのように書いてはいるが、坊っちゃんはマドンナの件で決して赤シャツを許そうとしなかった。若い女で世渡りをしくじる。坊っちゃんはそれを(漱石によって)体現させられているようにも読める。

2回 山嵐との大喧嘩
(9月30日土曜)
(P309-1/所へ両隣りの机の所有主も)
おや山嵐の癖にどこ迄も奢る気だな~氷水の代は受け取るが下宿は出て呉れ~下宿料の十円や十五円は懸物を一幅売りゃすぐ浮いてくるって云ってたぜ

 控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりして居る。おれは、別に恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。みんなが驚ろいてるなかに野だ丈は面白そうに笑って居た。おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をする積りかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、大につつしんだ。少しは怖わかったと見える。

 ターナー島の舟の上で坊っちゃんが野だに「皿のような眼」を浴びせ掛けたシーンを、読者は嫌でも思い出す。

3回 職員会議の午後
(9月30日土曜)
(P312-2/午後は先夜おれに対して)
校長とは煮え切らない愚図の異名~山嵐の顔は小日向の養源寺にある韋駄天の絵に似ている~うらなり君の遅刻~狸の挨拶は謝罪から~すべては自分の寡徳の致す所

 おれは校長の言葉を聞いて成程校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云う位なら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒丈に極ってる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治れば夫で沢山だ。人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹れ散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。

 この(人の尻をおれの尻だと)「吹散らかす奴」は、原稿準拠版全集の新しい解釈であろう。従来の全集本文は初出初版以来、「吹散らかす奴」で治まっていた。吹き散らかすで別段問題はない。しかし写真版原稿で見るとはっきり「吹き」ではなく「吹れ」と書かれてある。そこで読者は前に同じ表現があったのを思い出す。

 一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだろう。(第3章3回)

「ふれちらかす」を漢字を変えて2度登場させているが、第3章の「れ」は楷書で、現代ふうの当たり前の「れ」であり、第6章の方は「連」のくずしの、変体仮名ふうのややこしい「れ」である。左上から右下へくねくねと下がり、見ようによっては「き」の字にも見える。
 これを『坊っちゃん』の定番である繰り返し話法とみれば、「吹れ散らかす」であろうし、「おの尻だおの尻だと吹散らかす」で、つい「き」の替わりに2度続いた「れ」を間違って書いてしまったのなら、「吹き散らかす」である。

 職員会議の始まりで山嵐の顔を、「おやじの葬式の時に、小日向の養源寺の座敷にかかっていた懸物は此顔によく似て居る。坊主に聞いて見たら韋駄天と云う怪物だそうだ」と書いているが、写真版原稿を見ると漱石は小日向と書くとき、一旦何かと(おそらく小石川と)迷ったようにも見える。しかし思い直して小日向と決めた。小説の最後にもう一度迷った(書き直した)のは、自分のこのときの決断がどちらに行ったのか失念したのであろう。しかし読む者はそんな迷いは関係ない。坊っちゃんは自信たっぷりに「だから清の墓は小日向の養源寺にある」と言い切っている。この「だから」は、この韋駄天のくだりで自家の墓所として、一度養源寺を紹介していたことによるが、読者がそれを記憶していたか否かに関係なく、読者にある安心感を与える機能も有する(例えば誰かに食事に連れて行ってもらうとして、その人のよく知っている店であればより安心だというような)。この仕掛けはあからさまのものではないが、また効き目の大きいものである。

4回 私は徹頭徹尾反対です。そんな頓珍漢な処分は大嫌いです
(9月30日土曜)
(P315-12/おれはじれったく成ったから)
沈黙の会議室~赤シャツの長談義~野だの阿諛追従~坊っちゃんの発言に一同失笑~流れは教頭派に

 坊っちゃんはせっかちなので目標のはっきりしない会議はじれったい。口下手だが何か発言したい。しゃべるなら人を驚かすような警句を吐きたい。これは『猫』の迷亭と案外近い遺伝子である。迷亭も猿轡を咬まされない限り到底黙らないと書かれる。坊っちゃんは(漱石も)基本的におしゃべりなのである。若い頃押し黙っていることが多かったとすれば、それは何をしゃべったらいいか常に目まぐるしく頭の中で考えていたためで、それを5年も10年も繰り返していると、時として奔流のように迸ることもあるのであろう。(『猫』や『坊っちゃん』『草枕』の執筆のように。)

5回 山嵐吠える
(9月30日土曜)
(P318-8/すると今迄だまって聞いて)
山嵐がおれの言いたいことを全部言ってくれた~宿直中に温泉へ行ったことも追加で指摘された~坊っちゃんの謝罪に一同また失笑~最後に大失言「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」

 山嵐の正論が半分通って、生徒は形だけでも謝罪することになった。赤シャツの御談義は最後まで続く。

「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求める可きものでない。其方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼす様になる。然し人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮せるものではない。其で釣に行くとか、文学書を読むとか、又は新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」

 赤シャツは漱石の言わないことまで言っているが、発言内容は漱石の行動をなぞっている。漱石の偉いところは、最後にその赤シャツに天罰を加えていることであろう。それを清廉潔白と思うか身勝手と取るかは、何度もいうが読み手による。