明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 31

327.『草枕』目次(18)第12章――蜜柑山の秘密


第12章 白鞘の短刀の行方 (全6回)

1回 芸術家の条件
(P143-8/基督は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚の如きは、正しく此資格を有して居ると思う。)
芸術家の条件~1枚の画もかかない画家~空気と対象物と色彩の関係~日本固有の空気と色を出すには~山へ行って画を描こうと思う

 再び画工の芸術論。芸術家は心の底がすっぽり抜けていなければならぬ。川の流れのようにすべてが流れ去って何物も滞留しないのが芸術家である。してみるとこの場合の芸術家というのはマエストロというよりは詩人のことだろう。では前章の、「色々なことが気になって仕方ない」という那美さんと漱石の病気には、詩人を目指せば寛解するという、無理筋な処方箋が出されるのか。慥かに漱石は『猫』を書くことで危機を乗り切ったかに見える。しかし『行人』の長野一郎は書くべき何物も持たなかったし、それは那美さんも同じである。彼らの救いはどこにあるのか。漱石本人はそれでいいかも知れないが、漱石の人物は果たして救済されるか。
 これはキリスト本人とキリストの訓えの関係に似て、『聖書』がいつまでも読み続けられるのと同じ理由で、漱石も読み続けられるのであろう。

 絵画論についてはさすがに漱石も通り一遍のことしか言えない。日本の景色を描くには日本の絵の具が要る。日本の空気を表現するためには日本の色彩を使わなければいけない。これは芸術論というよりは、明治の日本に対する文明批評であろう。西洋のやり方を真似て済むなら、日本という国は始めから必要ないのである。

2回 那美さんは家の中で常住芝居をしている
(P146-2/襖をあけて、椽側へ出ると、向う二階の障子に身を倚たして、那美さんが立って居る。顋を襟のなかへ埋めて、横顔丈しか見えぬ。余が挨拶を仕様と思う途端に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風の如く動かした。閃くは稲妻か、二折れ三折れ胸のあたりを、するりと走るや否や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸五分の白鞘がある。)
向こう2階に那美さんが立つ~那美さんの左手には白鞘が~無意識の常住芝居~藤村子厳頭の吟~美しいものは正しい

 那美さん登場の10回目。音声なしの映像のみ。九寸五分(白鞘の短刀)という(『虞美人草』ですっかり有名になった)新しい小道具も登場する。これは那美さんのものではなくて隠居老人の所有物であった。

 ここで漱石は何を思ったか、那古井の宿が2度目であることをほじくり返している。蜜柑畠を見たからだという。

 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道つづきの、爪上りになる。鶯が所々で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹の上で妙な節の唄をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃の音がする。何だと聞いたら、猟師が鴨をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。

 松山の萩野の家の庭には蜜柑の木が1本成っていた。坊っちゃんは完熟したら食べるつもりでいたが、直前に東京へ舞い戻ってしまった。愛媛も熊本も蜜柑の産地である。(蜜柑といえば和歌山も有名。前述したように和歌山は『心』の書生の私の帰省地として比定可能であるが、土産として蜜柑は目立ち過ぎるのか、故意に干し椎茸のような無難なものに変えられたとすれば、追及は難しい。『明暗』の湯河原も蜜柑は名物であろうが、果たしてそれが書かれる予定であったかは誰にも分からない。)
 那古井の村にも広い蜜柑山がある。しかし漱石作品で実際に蜜柑を食べたのは本郷の下宿の三四郎だけである。ミカン1つ取ってもその成就には、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』の3作を要している。それでミカンの出番はおしまいである。漱石の作品の季節は秋から冬にかけてのことが多い。しかし以後蜜柑が食されることはなかった。『明暗』で果物籠が登場して、久しぶりに期待は昂まったが、清子はナイフで林檎を剥いた。よし子は三四郎に(手で簡単に剥ける)ミカンを剝いてやっている。親切なのはどちらであろうか。
 それはともかく画工は職業柄草花や樹木に詳しい。漱石田圃の稲穂が白米の前身であることすら知らなかったのだから(三島由紀夫は松の木を知らなかった)、春に刈り込まれた蜜柑山を見ても本来は何も分からなかったであろう。それとも前にこの土地を訪れたのが12月だったと書いているので、そのときの記憶が残っていたのか。画工は景色をそんなふうに書く人間か。上記引用文の下線部分は、漱石としては珍しくも『草枕』で3度目の念押しになる。読者は坊っちゃんの真似をして、ついこんなセリフを吐きたくなる。

 おや漱石の癖にどこまでも拘る気だな。
 おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。(出典『坊っちゃん』第6章)

 ずいぶん久しい以前に来たことがあると書くが(1章及び3章)、この12章の文章の感じでは、やはり大人になってから自分の趣味と意志で旅行したときのことであるようだ。指を折って数えるが面倒だと言っているので、仮に8年前、画工25歳のときとすると、那美さんは17、8歳。両親とともに京都か東京の修業時代であろうか。代々続く志保田の家は誰が預かっていたのだろう。このときの温泉宿は志保田の所有物ではなかったのだろうか。もとから志保田と関係があるのなら(那美さんの父親のものであるなら)、宿の経営は誰が代行していたのだろう。そうではなく老人が隠居後に「買い取った」のだとすれば、今次の戦争で客足が遠のいたということとの整合性が取れなくなりはしなか。それらのことと那美さんが兄と仲が悪いこと、去年亡くなったという那美さんの母親が少しおかしいことが、何か関係するのか。

3回 海の見える野原で写生ならぬ漢詩に浸る
(P149-14/三丁程上ると、向うに白壁の一構が見える。蜜柑のなかの住居だなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻をした娘が上ってくる。腰巻が次第に尽きて、下から茶色の脛が出る。脛が出切ったら、藁草履になって、其藁草履が段々動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を負ている。)
海は足下に光る~木瓜の花の下に寝ころぶ~木瓜の花に生まれ変わりたい~子供の頃木瓜の木で筆立てを作ったことがある~木瓜の詩完成

 小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く枝振を作って、筆架に作って見た事がある。それへ二銭五厘の水筆を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見するのを机へ載せて楽んだ。其日は木瓜の筆架ばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚めるや否や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎え葉は枯れて、白い穂丈が元の如く光って居る。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審の念に堪えなかった。今思うと其時分の方が余程出世間的である。

 ささやかな思い出であるが、画工4回目の回想。では直後の事件は何になるか。90文字に及ぶ漢詩の完成か。いやそうではあるまい。文人画工が漢詩を作っても事件にはならない。漱石漢詩を作っても読者は驚ろかない。最後の事件は那美さんの夫の登場であった。

 ああ出来た、出来た。是で出来た。寝ながら木瓜を観て、世の中を忘れて居る感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出れば夫で結構である、と唸りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払が聞えた。こいつは驚いた。(本章末尾)

 わざわざ「驚いた」と書くくらいだから、本当に驚いたわけでもないのだろう。城下に離縁になった亭主がいることを画工はとうに知らされている。ここは「出門多所思」という漢詩が成ったことの歓びの方が、少しだけ大きかったようである。

 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)