明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 3

299.『草枕』降臨する神々(3)――『趣味の遺伝』と『坊っちゃん


 明治38年に書かれた『一夜』と明治39年の金字塔『草枕』に関連して、同じように明治38年(12月)に書かれた『趣味の遺伝』と明治39年の国民的名作『坊っちゃん』の関係が類推される。

 漱石は『趣味の遺伝』の結末を書き損ねて失敗した。

「実は時間が足りなくて書けなかったのです。仕舞をもっと書かんと前の詳細な叙述と比例を失する様に思います」(明治39年1月16日『趣味の遺伝』を褒めた皆川正禧へ宛てた手紙)

「趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もしうまく自然に大尾に至れば名作、然らずんば失敗、ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴」(明治39年3月23日『坊っちゃん』の脱稿を待つ高浜虚子へ宛てた手紙)

 本ブログ坊っちゃん篇でも述べたが、漱石は時間を急いで結末に失敗した『趣味の遺伝』の轍を踏まないため、『坊っちゃん』では慎重に話を結んだ。といって別段末尾を丹念に書き込んだというわけではなく、結末を大胆に省略するのは常に変わらぬ漱石の手法であるらしい。『坊っちゃん』の末尾の10行を、漱石は注意深く平仄を合わせただけである。

 その失敗した『趣味の遺伝』の当該箇所というのは次のようなものである。

 ・・・会見をする度に仲がよくなる。一所に散歩をする、御饌をたべる、丸で御嫁さんの様になった。とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。其時に御嬢さんが何と云ったかと思ったらそれだから私は御寺参をして居りましたと答えたそうだ。何故白菊を御墓へ手向けたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。(『趣味の遺伝』3章末尾近く)

 漱石は明らかに一番肝心な所を書いていない。何で「それだから」なのかということが故意に省かれている。
 河上浩一が本郷郵便局で小野田の令嬢を見染めたとして、令嬢もまた感ずる処があったのだろうか、浩さんの手にしていた郵便物なり紙片が目に入るかどうかして、その住まいと名を知ったのかも知れない、というのが語り手の推理であるが、それでもなお令嬢が白菊の花を供えて墓参りをする事情は詳らかにされない。
 浩さんの戦死は新聞なり地区の広報で分かるだろう。そして河上家も小野田家も紀州藩の縁者であれば、広大でもない小石川のコミュニティの中では、河上家の菩提寺も簡単に分かるのかも知れない。白菊のことも、「(浩さんでなく)自分が」その花を一番好きだから、という意味に取れなくもない。それが「偶然」浩さんの一番好きな花でもあったのだろう。でもそれは話を合理的に読もうとする側の(語り手も含めて)、あくまで勝手な推測に過ぎない。

 令嬢が以前から、自分の祖父の女同胞の悲恋のことを、聞き知っていたのではないことは、確かであろう。聞き知っていても別に構わないわけであるが、兄の小野田工学博士が知らないことを、妹だけが知っているとは考えにくい。いずれにせよ令嬢が先から墓参りをしていたのであれば、河上家サイドで気が付かないわけがないのであるから、そして河上家の知っていることは何であれ語り手の英文学者は分かっているのであるから、とりあえず令嬢は浩さんの戦死を知った上で、寂光院に参り始めたと見るべきである。

 しかし実際問題として、令嬢は郵便局の隙見以外に浩さんを見知る機会はあったのだろうか。それとも浩さんが戦地に赴く前に、令嬢に告白したとでもいうのか。彼らが意を通じ合っていたとすれば、語り手が探偵のように画策して、令嬢と浩さんの母親の間を取り持つという、小説の建付けそのものが崩壊する。それはありえない。だいいち浩さんの日記が虚偽ということになって、作品はぶち壊しである。
 漱石もその点はわきまえて、ちゃんと布石を打っている。

 ・・・すると此両人は同藩の縁故で此屋敷へ平生出入して互に顔位は見合って居るかも知れん。ことによると話をした事があるかも分らん。そうすると余の標榜する趣味の遺伝と云う新説も其論拠が少々薄弱になる。これは両人が只一度本郷の郵便局で出合った事にして置かんと不都合だ。浩さんは徳川家へ出入する話をついにした事がないから大丈夫だろう、ことに日記にああ書いてあるから間違はない筈だ。然し念の為め不用心だから尋ねて置こうと心を定めた。
「さっき浩一の名前を仰ゃった様ですが、浩一は存生中御屋敷へよく上がりましたか」
「いいえ、只名前だけ聞いて居る許りで、――おやじは先刻御話をした通り、わしと終夜激論をした位な間柄じゃが、せがれは五六歳のときに見たぎりで・・・其後は頓と逢うた事がありません」
 そうだろう、そう来なくっては辻褄が合わん。第一余の理論の証明に関係してくる。先ず是なら安心。御蔭様でと挨拶をして帰りかけると、老人はこんな妙な客は生れて始めてだとでも思ったものか、余を送り出して玄関に立ったまま、余が門を出て振り返る迄見送って居た。(同上)

 漱石はくどいくらいに書いている。では浩さんが令嬢の素性を知らなかったのはいいとして、繰り返すが令嬢はどこで河上浩一を見知ったのか。見知っていないとすれば、なぜ墓参りをするに至ったのか。「白菊が一番好き」という言葉の出所はどこか。それは読者の想像に任せるというのでは、漱石がシャーロックホームズ並みの人気を保っている理由が分からなくなる。
 とまあ理屈でいくら押して行っても、『一夜』のときのように、「そんな事は知らないよ」と言われればそれまでである。

 もう1点、どうでもいいようなことであるが、

「妙な事を伺いますが、もと御藩に河上と云うのが御座いましたろう」余は学問はするが応対の辞にはなれて居らん。藩というのが普通だが先方の事だから尊敬して御藩(ごはん)と云って見た。こんな場合に何と云うものか未だに分らない。老人は一寸笑ったようだ。(『趣味の遺伝』3章)

「御藩」は、声に出して言うなら「ごはん」ではなく、「おんはん」「おんぱん」であろう。老人は語り手を笑った。これは『猫』の次のようなくだりを想起させる。

「そう初めから上手にはかけないさ第一室内の想像許りで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然其物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然は是一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。成程こりゃ尤もだ。実に其通りだ」と主人は無暗に感心して居る。金縁の裏には嘲ける様な笑が見えた。(『猫』第1篇、迷亭の駄法螺)

 意地悪とも取れる書き振りは新聞小説以降封印されたが、生来の皮肉屋と永年の教師癖から来るのだろうか、こんなシーンが垣間見られるのも初期作品ならではの愉しさであろう。