明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 31

287.『坊っちゃん』1日1回(9)――先生たちも寄宿舎の生徒に負けていない


第9章 送別会の夜 (全4回)
(明治38年10月16日月曜)

1回 坊っちゃんの下宿で送別会の打合せ
(10月16日月曜)
(P353-12/うらなり君の送別会のあると云う日の朝、学校へ出たら、山嵐が突然、君先達はいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出る様に話して呉と頼んだから、真面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いて見ると、あいつは悪るい奴で、よく偽筆へ贋落款抔を押して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目に違いない。君に懸物や骨董を売りつけて、商売にしようと思ってた所が、君が取り合わないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁し給えと長々しい謝罪をした。)
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(あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵らえて待ってるんだから、余っ程奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれは序でだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いて見た。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、一寸攫んで見ろと云うから、指の先で揉んで見たら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。)

山嵐の謝罪~1銭5厘撤収~仲直り~酒なんか飲む奴は馬鹿だ~山嵐を家に呼ぶ~送別会でうらなりを応援したい~赤シャツの悪行を暴きたい

2回 送別会始まる
(10月16日月曜)
(P357-11/おれは余り感心したから、君その位の腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転する。頗る愉快だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやって見ろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。)
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(此良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であると迄云った。しかも其いい方がいかにも、尤もらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でも屹度だまされるに極ってる。マドンナも大方此手で引掛けたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐って居た山嵐がおれの顔を見て一寸稲光をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。)

送別会は花晨亭の50畳敷~あれは瀬戸物じゃありません伊万里です~山嵐の稲光にべっかんこうで応える

3回 山嵐の送別の言葉
(10月16日月曜)
(P360-12/赤シャツが席に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉しかったので、思わず手をぱちぱちと拍った。すると狸を始め一同が悉くおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うと只今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望して居ります。延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞く所によれば風俗の頗る淳朴な所で、職員生徒悉く上代樸直の気風を帯びて居るそうである。)
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(「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれ玉え。いかさま師をうんと云う程、酔わしてくれ玉え。君逃げちゃいかん」と逃げもせぬ、おれを壁際へ圧し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗って居るのは一つもない。自分の分を奇麗に食い尽して、五六間先へ遠征に出た奴も居る。校長はいつ帰ったか姿が見えない。)

美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡には1人もいない~不貞無節なる御転婆を慚死せしめんことを~うらなりの態度はまるで聖人~宴席は大分乱れてきた

4回 狂乱の十五畳敷
(10月16日月曜)
(P364-13/所へ御座敷はこちら?と芸者が三四人這入って来た。おれも少し驚ろいたが、壁際へ圧し付けられて居るんだから、凝として只見て居た。すると今迄床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢そうに啣えて居た、赤シャツが急に起って、座敷を出にかかった。向から這入って来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞えなかったが、おや今晩は位云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸けて帰ったんだろう。)
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(この吉川を御打擲とは恐れ入った。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見て取って、剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうも是は乱暴だと振りもがく所を横に捩ったら、すとんと倒れた。あとはどうなったか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。)

校長に続いて赤シャツも退席~芸者も混じって大宴会~赤シャツの馴染みの芸者は鈴ちゃん~越中褌の裸踊り~野だをぽかりと殴る~山嵐は野だを払い倒す

 漱石作品最初で最後の宴会。酔漢。芸者。漱石はこのあと『三四郎』で紳士的な懇親会を2つ描いた後、自らの世界から(3人以上による)酒席の描写を放逐した。当然芸者も(『猫』で寒月と擦れ違うという意味不明の描き方はされたが)登場することはない。『行人』の三沢の「あの女」は唯一の例外と目されようが、セリフは与えられず芸者としての書き方はなされていない。それどころか2人とも入院するというありさまである。禁を犯した罪ということだろうか。女の方が症状が重いというのも漱石らしい。

 野だが第1回目として殴られたこの大宴会では、すべての芸者がなぜか関西弁をしゃべる。

「あんた何ぞ唄いなはれ」「おおしんど」「知りまへん」「おきなはれや」「弾いてみまほうか」「よう聞いていなはれや」

 漱石が関西に旅したとき芸者と淡い交流があったのは、漱石ファンのよく知るところであるが、それは後年の話である。もしかしたら松山時代に何かの宴会で接した芸者のことを覚えていたのか。漱石にとって花柳界は外国のようなまったくの別世界であった。自分と異なる言語を操る世界の人間、ということで漱石も自らを赦して描いたのであろう。

 おれはさっきから肝癪が起ってる所だから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりして居たが、おや是はひどい。御撲になったのは情ない。この吉川を御打擲とは恐れ入った。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見て取って剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうも是は乱暴だと振りもがく所を横に捩ったら、すとんと倒れた。あとはどうなったか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。

 この「見て取る」という言い方について、先に述べた萩野の婆さんのセリフでは、虚子は「見て取る」を「睨(ね)らんどる」に修正している。

「然し先生はもう、御嫁が御有りなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」(第7章1回現行本文――赤字は虚子の添削)

 漱石のオリジナル原稿は以下の通りである。

「然し先生はもう、御嫁が御有りるに極っとる。私はちやんと、そう、見て取った
「へえ、活眼だね。どうして、見て取ったんですか」(第7章1回オリジナル原稿――緑字は漱石の原文)

 漱石は第7章で萩野の婆さんに「見て取った」と言わせたがゆえに、この第9章での山嵐の叙述にも「見て取って」を採用したのである。萩野の婆さんと坊っちゃんの会話を直したのなら、本来この部分も一緒に直すべきであった。

 ・・・愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと(にら)んで剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。(第9章4回改訂案)

「見て取る(看て取る)」は漱石のなかなか使わない言葉である。それを『坊っちゃん』で特別に使用するにあたって、漱石は保険をかけていたのではないか。虚子としては婆さんの方言指導のつもりで修正しただけで、山嵐が飛んできたのは方言と関係ないのだから、とやかく言われる筋合いはないのであるが、ここは漱石の方が忘れていたのであろう。

 そしてこの章を以ってマドンナとも訣別である。うらなり送別会の挨拶で、山嵐はマドンナを不貞不節操の輩として(つまり当時の女性に対する最大の罵りの言葉で)切り捨てた。『坊っちゃん』を以ってマドンナ退治の嚆矢とする考え方は広く受け入れられるだろう。このあと金田富子は寒月を去り、那美さんはそもそもその登場からして、退治されたあとの病み上がりのように見える。極めつけは藤尾であろう。藤尾は小説の最後で漱石によって文字通り埋葬されてしまった。『虞美人草』で漱石の「マドンナ退治」は終了したのだろうか。一見そのようにも読める。『三四郎』美禰子から『明暗』お延まで、漱石のマドンナたちは作品世界で思いのままに振る舞って、時には手の付けられないほどである。
 しかしその実漱石は、あからさまでないにせよ、地道にマドンナ退治を継続していたのではないか。漱石作品の歴史はマドンナを退治る歴史ではないか。だがこれはここで扱うには余りにも大きすぎるテーマであろう。