明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 5

261.『坊っちゃん』日本で一番有名な小説(5)――日本で一番有名な下女


 質屋の倅勘太郎のおかげで余計なことまで書いてしまったが、本来一番始めに来ておかしくない家族の紹介が、そんな与太話の後塵を拝することになった。漱石にとって家族というものの位置付けがよく分かるのが、『坊っちゃん』という「処女作」である。
 だが家族が登場すると、同じ与太話でもだんだん笑えなくなる。

 父は「貴様は駄目だ」しか言わない。母も兄ばかり贔屓にしてちっとも可愛がってくれない。兄とは10日に一遍くらいの割りで喧嘩。
 母が死ぬ二三日前台所で宙返りをして、へっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。
 兄におっかさんの早く死んだのはお前のせいだと言われ、兄の横っ面を張って大変叱られた。
 将棋を指したとき兄の態度に腹が立ったので手の中にあった飛車をぶつけた。兄の眉間が割れて少々血が出た。
 誰からも相手にされない自分を、清という下女だけは異様に可愛がってくれた。

 坊っちゃんの数ある蛮行の中でも最悪の行為であろう。至近距離から相手の顔面に(小さな硬い)物をぶつけるのは危険である。目に当たったら大変なことになるところであった。親爺が勘当を言い出したのも無理はない。大事な跡取り息子の顔に傷を付けたのである。そのせいか小説では坊っちゃんのいたずらはこれで打ち止めとなった。爾後ぶつけるのはせいぜい鶏卵くらいにしておくことになったのは、坊っちゃんの偉大なる成長である。子供がそのまま大きくなったかに見えて、その実ちゃんと学習させている。漱石も考えているのである。しかしそれは後の話で、坊っちゃんの回想は次の一句で締め括られた。前の項でも述べたが、これほど漱石の本音の出た箇所は珍しい。

 ・・・只おやじが小使を呉れないには閉口した。(『坊っちゃん』第1章)

 母と坊っちゃんの小遣いがなくなって代わりに登場したのが清である。清という名前は婆さんの下女の世襲名である。若い下女は御三である。漱石は多くの下女と接して来ただろうが、清のエピソードは創作であろう。後架へ蝦蟇口を落としたことはあったかも知れないが。

 ・・・①是はずっと後の事であるが金を三円許り借してくれた事さえある。何も借せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来て御小遣がなくて御困りでしょう、御使いなさいと云って呉れたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りて置いた。②実は大変嬉しかった。其三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落して仕舞った。・・・(『坊っちゃん』第1章)

 ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。然し一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬ迄心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、壱銭五厘 返して置こう。おれは清から三円借りている。其三円は③五年経った今日迄まだ帰さない返せないんじゃない。帰さないんだ。清は今に帰すだろう抔と、苟めにもおれの懐中をあてにしては居ない。おれも今に帰そう抔と他人がましい義理立てはしない積だ。・・・(『坊っちゃん』第6章)

 清に3円借りたのはフィクションとしても、①で言うこの3円借金事件はいつのことか。坊っちゃんの松山中学校赴任は、履歴書に「23年4ヶ月」と書いているから、23歳のことである(第5章)。その秋に萩野の婆さんに自分の年齢を24と言っているが、これは「取って24」という意味であろう。とにかく23歳の年に「5年経った今日」と言っているから(③)、坊っちゃんが3円借りたのは18歳、中学4年の時である。現代でいえば高校生である。寄席に行くにしろ友人と遊ぶにしろ、小遣いがないのはさぞ辛かったことだろう。②で「実は大変嬉しかった」と素直に書いたのも、設定はフィクションでも、心情は上記「おやじが小使を呉れないには閉口した」ともう1つ、父が亡くなって兄が家屋敷を処分したときの、「此方は大分金になった様だが、詳しい事は一向知らぬ」と並んで、漱石の本音が最大限に剥き出しになっていると言っていいだろう。こんなことが平気で書かれるのも処女作ならではのことである。

 ところで論者(筆者のこと)が子供の頃読んだ少年少女向き『坊っちゃん』には当然挿し絵が付いていて、そこには清が井戸端で棒切れの先のがま口を洗っている処が描かれていた。それを見ている坊っちゃんは、記憶の限りでは白っぽい浴衣を着ていたが、どう見ても10歳(当時の論者の年齢くらい)以上には見えなかった。
 昭和39年中央公論社が創業80周年記念と銘打って『日本の文学』全80巻の刊行を開始したが、その中の(第12巻夏目漱石(一)の)『坊っちゃん』の挿画は、昭和29年版近藤浩一路『画譜坊ちゃん』からの転載であるという。大人向きの漫画であるが、描かれた時代を反映して、人物の姿形は福岡時代のサザエさんを彷彿させる。(長谷川町子の方が1世代以上も年下であるが。)
 それはともかく、その挿画にも井戸でがま口を洗っているシーンが登場し、同じように清と共に画かれている坊っちゃんは、黒っぽい着物を着ているが、やはり子供である。10歳かせいぜい12、3歳。もっと上だと言われればそうかとも思うが、どんなに頑張っても15歳以上には見えない。

 もちろん画家の責任ではない。『坊っちゃん』第1章・第5章・第6章の記述を読めば、このときの主人公が18歳であることは慥かであるが、それは画家の領分ではない。当該箇所を読んだ感じで、このときの坊っちゃんがまだ子供であるとは、(誤りにせよ)自然に読めてしまうのである。
 坊っちゃんは23歳のとき松山で日露戦捷祝賀に遭遇しているから、このとき明治38年。翌39年に東京で(リアルタイムに)半生を語ったことになっているのが、この小説の立て付けである。
 であれば坊っちゃんは明治16年生まれ、九紫火星の未である。10歳になっているとすれば明治25年。坊っちゃんが社会人となった後でも(明治38年)、氷水1銭5厘なのであるから、そもそもこのとき、子供に1円札3枚は相応しくないのではないか、と言っても始まるまい。
 実際にも漱石は(3円入っていたかはともかく)、子供の頃にがま口を後架に落としていたらしいのであるから、どの画家も1人の読者として、正しく感じていたとは言える。

 これは『明暗』新聞連載時の、津田が洋服姿で通勤しているように描かれた挿画と同じ話である。小説の記述でははっきり羽織袴を着けていたと書かれるが、これは漱石が痔疾の治療に通ったときの服装がそうであったから、小説でもそれをそのまま書いたに過ぎまい。勤め人の津田は当時の常識でもまず洋服を来て通勤電車に乗っていたはずであるから、そして漱石もすでに『虞美人草』以来、和服で通勤する者など書いた試しがないのであるから、画家も読者も、『明暗』を読んだ印象として、当時からそれを「正しく」感じ取っていたに過ぎない。

 もうひとつ、校異を云々しないと先にも述べたが、引用文で太字と下線で強調した部分は、現代の感覚で校正すれば、あっさり別の表現に改められよう。(統一が図られよう。)

 小使・小遣。借す・貸す。壱銭・一銭。帰す・返す。

 しかしこの引用文の書き振りが、漱石の書いた通りである。であればこれを別なものに変える必要性がどこにあろうか。

「・・・今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤しゃつ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今に色々な事を書いてやる。左様(さよ)なら」(『坊っちゃん』第2章)

 この清への手紙の「赤しゃつ」も、平成版の漱石全集(岩波の)が出なければ、一般の読者は分からなかったところである。坊っちゃんは清への手紙にカタカナを使っていない。(片仮名は帝国文学と赤シャツの得意技であると言っている。)この坊っちゃん漱石)の気遣いに、繰り返すが2億人の日本人が気付かないままに了った。

 もちろん国民の都合に無関係の漱石は、苦情は言うまい。しかしもともと漱石のレベルには何人もはるかに及ばないのである。字句を勝手に訂正したからといって、漱石はいちいち理由を述べて周囲の者や校正者を、自分と同じレベルに引き揚げてくれるような閑人ではない。
 それもまたひとつの考え方である、と漱石の方からもあっさり放置されるまでである。
 従って我々は漱石の書いた通りに従っておけば、それが最善の手法となるのである。
 ただ、漱石がうっかり書き間違えた(かも知れない)ところは、そこは一応聞いてみるのが礼儀というものであろう。