明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 4

260.『坊っちゃん』日本で一番有名な小説(4)――東西南北の謎


「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。」

 では冒頭のくだりから、その書出しの1行の内容が具体的に語られている所を見てみよう。持ち前の肝癪(癇癪)や乱暴・そそっかしさのために損失を蒙った実例集である。

 小学校の2階の窓から飛び降りて1週間腰を抜かした。
 親戚に貰った西洋製ナイフで右手親指甲をはすに切り込んだ。
 庭の栗の実を盗みに来た勘太郎を退治た。
 まだ芽の出揃わない茂作の人参畠の上で半日相撲を取って踏みつぶした。
 水田に水が行きわたる仕掛けの古川の田圃の井戸を埋めてしまった。

 は単に自分1人だけの損。なぜこんなことをするのか。結論だけ言えば、自尊心を傷つけられたからである。自尊心を傷つけられたら人間はどんなことでもやってしまう。とは言え坊っちゃんの場合は直截的に過ぎよう。あるいは坊っちゃんは正直過ぎて、人の言うことに100%反応する性分なのかも知れない。(『心』の先生が奥さんに「では殉死でもしたらよかろう」と言われて結果的にそれに従ったように。)自分の利益ということを微塵も考えないので、何か言われたらそのまま実行する。人はこれを無私で心がきれいだと言い、またこんな身勝手は見たことないとも言う。
 は(親が)罰金を払ったと書かれるが、実被害(金額)は、弁償について何も書かれないⅣの方が大きいのではないか。相撲仲間が大工の兼公と肴屋の角とあるから、坊っちゃんはこの後母親が亡くなった翌年中学に入ったことになっており、中学入学を15歳とすると、このときは13、4歳であったとも思われる。(大工も魚屋も当時は決して中学には進学しない。)それともここは彼らの「丁稚奉公」を指すのではなく、彼らの家の職業を表しているだけなのかも知れない。
 それはどちらでもいいが、農作物に被害が及べばもう単なるいたずらでは済まされない。いたずらで済まないから罰金の話になるのだろうが、それだけでは今度は漱石の気が済まない。金之助・兼公・角とくればKKK団であるが、畠を荒らされた茂作は、本来人参葉が茂って作物として収穫出来たはずであるというネーミングである。井戸を埋められた古川も、田に流れ込むべき小川が近くにないので、その代りに旧式に井戸を掘って給水の仕掛けにしているという意味で、古い川と名付けられた。名前で遊ぶのは(江戸っ子の習い性であるが)漱石の慎ましやかな息抜きでもある。『猫』は別物としても、『三四郎』以下すべての作品にそれは、(目立たぬように)受け継がれている。それを一時的にせよ封印したのは『心』であろう。というより『心』ではいっそ登場人物に名前を付けないことにしたのであるが、例外的に付けられた先生の奥さんの名が静という(乃木将軍の奥方と同じ)名前であれば、この主張も怪しくなるようだ。(つまり封印するつもりは全くないということか。)

 問題はである。つまり何も問題でないことが却って変である。たかが栗を拾いに来ただけの相手に、待ち伏せして不意打ちを喰らわせるのであるから、坊っちゃんにも非はなしとしないが、珍しくこのケースだけは相手の勘太郎が悪い。あとで母親が詫びに行っているから、坊っちゃんは家で激しく𠮟られたのであろう。(勘太郎が半分気絶しているので山城屋では大騒ぎになり、それで坊っちゃんの家人にも知れたのであろう。)自分は悪くないのに損をした。その意味ではこの4人目(3人目)のKたる勘太郎事件こそが、書出しの1行を体現した、貴重なエピソードであったと言える。調子に乗るわけではないが、もう少し詳しくその部分の本文を見てみよう。

 ①庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりに聊か許りの菜園があって、真中に栗の木が一本立って居る。是は命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て②落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。③菜園の西側が山城屋と云う質屋の庭続きで、此質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に④四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。其時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つ許り年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中に這入った。⑤邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。仕舞に苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけて置いて、足搦をかけて向うへ斃してやった。⑥山城屋の地面は菜園より六尺がた低い勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの⑦袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。其晩母が山城屋に詫びに行った序でに袷の片袖も取り返して来た。(『坊っちゃん』第1章)

 引用文中の「四つ目垣」「二つ許り年上」の「つ」は、漱石の原稿では促音でもないのに小文字の「っ」である。これは漱石の書き癖というか筆の勢いであろう。あるいは「四ッ」「二ッ」のつもりか。ここは従来の(昭和版の)全集を採るべきであるが、前項でも述べたように、以後このような場合は断りなしに「正しい」新仮名遣いに直しておくこととする。「つ」という発音は出来ても、「目」(よめ)という発音は出来ないからで、こんなことは論じるまでもない。(どうしてもここで普通の「つ」を忌避するのであれば、それはむしろルビに組み込んだ方がすっきりする。)

 とりあえず問題点は②の記述か。栗はそのままでは食えない。起き抜けに拾って、家で茹でて貰って、学校で食うのか。坊っちゃんの家は坊っちゃんにそんなに親切か。学校へ持って行ってストーブで焼いて食うのか。都会の小学校でそんなことが許されるのか。そもそも坊っちゃんはそんなこまめな人間か。
 それはまあいいとして、真の問題点は坊っちゃんの家の庭と山城屋の庭の配置であろう。坊っちゃんの家の庭を東へ20歩行くと、栗の木の立っている大きくもない菜園である。菜園は南が高く上がっている(①)。日当たりが心配であるが、この南の土地が高くなったところに四つ目垣がある。勘太郎はこの垣根を壊して6尺下の自分の庭へ落下して失神した(⑥)。では③の記述をどう解釈したらいいのか。菜園の「西側」が山城屋の庭続きなら、肝心の菜園の南側はどうなっているのだろうか。山城屋の庭が西側だけでなく南側にも張り出して、菜園と向かい合うような構造になっているとしか思えない。しかし④によると勘太郎は、高低差のきつい四つ目垣ルートでしか坊っちゃんの菜園に入らないのである。菜園の西側はどこへ行ったのか。そもそも東へ20歩行き尽くした処に菜園があるのなら、その菜園の西側は坊っちゃんの家の庭と見てよいが、勘太郎は、栗を盗みに来るくせに、坊っちゃんの家の庭、菜園の西側を横切るのだけは遠慮して、自分の敷地から直接菜園へ攀じ登ったというのであろうか。
 であればこの③の「菜園の西側は山城屋と云う質屋の庭続きで」という記述は、「菜園の南側」の方がふさわしいのではないか。あるいは単に「菜園は山城屋と云う質屋の庭続きで」と書けば済むところではないか。漱石は「東へ二十歩」「南上がり」と書いて、さらに「南」の続くのを嫌がってつい「西側」と書いてしまった。「北」が残るが、漱石はどう処理するつもりだったのか。

 それともこのくだりは菜園の図面の話なんかより、⑤から⑦への小さん風ユーモアが主眼であったか。建築科志望の時期があったというのが信じられないくらい、漱石の(小説における)空間認識は大雑把であるが、この場面は山城屋や勘太郎はフィクションだとしても、庭続きの南上がりになった菜園というのは漱石の子供の頃の実見であったろうから、漱石の頭の中にある光景が正しく書かれてあること自体は疑いがない。何かひとつ、漱石は書き落としているのだろうか。それは漱石が(この小説に)書きたくないことだったかも知れず、書くと漱石の禁忌に触れるので書けなかったのかも知れない。そのために読者を混乱させる方位の記述になってしまったのかも知れない。
 晩年のエッセイ『硝子戸の中』にこんな記述がある。

 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、其実小さな宿場としか思われない位、小供の時の私には、寂れ切って且淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。
 それでも土蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などは其一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。尤も此方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞ其所に仕舞ってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。其代り娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だか丸で解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声が其所から能く聞こえるのである。春の日の午過などに、私はよく恍惚とした魂を、麗かな光に包みながら、御北さんの御浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠たせて、佇立んでいた事がある。其御蔭で私はとうとう「旅の衣は篠懸の」などという文句を何時の間にか覚えてしまった。(『硝子戸の中』19冒頭)

 こんなところに「御北さん」が登場して、東西南北が出来上がったとは流石に言わないが、妙に坊っちゃんの子供時代のエピソードを補完するような、坊っちゃんの子供時代の記憶を暗示(隠蔽)するような印象を受ける文章である。『坊っちゃん』と『硝子戸の中』(『永日小品』でも)を直に結びつけるものはないが、漱石の文章であるからには、エッセイの文章の一部を切り取って『坊っちゃん』の文章に割り込ませても、何の違和感もない。多少あったとしても、それはまた別のテイストを醸し出すのである。(『草枕』にもこの引用した回想文に近い記述がそのままある。)
 例えばこの引用文末尾の長唄の唄い出しから、『猫』の義経蝦夷から満洲へというくだりや、『坊っちゃん』の清和源氏の血筋という法螺話(多田の満仲は「ただの饅頭」のありふれた洒落である)に、いきなり話が移って不自然でない。漱石はどのような文章を書いても常に漱石である。そしてそこには漱石自身の身体から滲み出して来るような、何がしかの滑稽味、巧まざるユーモアが附着するのである。その土台に大きな悲しみの記憶が埋め込まれているのだとすれば、それは真似しようにも出来ない相談であろうが。