明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 3

259.『坊っちゃん』日本で一番有名な小説(3)――書出しの1行にすべてがある


坊っちゃん』の有名な書出し、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。」については前著(『明暗』に向かって)でも少し述べたことがあるが、改めて次の2項目にまとめられよう。

 無鉄砲(乱暴・粗雑・向こう見ず・左利き・つむじ曲がり・状況判断が出来ない・廻りの空気が読めない・奇矯で常識外れ)な自分の性向は、親の遺伝のせいである。つまり親の責任であって自分のせいではない。自分は決して悪くない。

 自分の過去を思い起こしてみて、まず始めに来るものは損得の感情である。人生を損得勘定で見ている。喜怒哀楽や学問思想国家宗教愛情、あらゆるものを差し置いて、損得の記憶が一番勝っている。そしてここが肝心だが、本来利得を追求したい自分が現実に損ばかりしているのは、親の遺伝による自分の性格が災いしているためである。つまり自分の人生がうまく行かないのは、親の責任であって自分のせいではない。自分は決して悪くない。悪くないのに人生が苦痛である。(せめて世襲財産でもあればその苦しみから解放されるが、世襲財産がないのは親のせいであって自分のせいではない。)

 この考え方はあまりにも自分(だけ)を大事にしすぎているように見えて、実はその反対である。自分は中身のない、ただの糞袋であるという(伝統的な江戸庶民の)発想に基づくものである。自分の能力らしきもの、性格らしきものも、すべて親たち(祖先・人類の歴史・生物の歴史)から受け継いでいる諸々、その一部がたまたま暴れ出ているに過ぎない。モロモロのタマタマが束の間この世で息をしているのが人間である。息をしているだけならまだしも、時に暴れる馬鹿も出て来る。
 どれだけ暴れようと死ねば即座に収支決算が出て(出なくても)、それでおしまいである。出荷される家畜のように、あるいはせいぜい競走馬のように、いくら稼いでいくら遣っていくら残ったか。たいていのヒトは墓標くらいしか残らない。それもたかだか数百年である。
 この一種の諦念の上に打ち建てられたのが偉大な漱石文学である。責任を取りたがらない、と人は言うが(漱石自身も言っているが)、責任などという概念はこの巨きな諦念に比べれば区々たる発想である。1匹の競走馬の人生があるとして、いったいそれが誰の責任だというのか。

 ということで一部重複するかも知れないが、前著(『明暗』に向かって)から少しだけ引用する。

 中年になって小説を書き始めた漱石には、贅沢にも処女作が二つある。『猫』(第1篇)と『坊っちゃん』である。『猫』は小説とは言えないかも知れないが、とにかく漱石が始めて描いたまとまった創作物であることは間違いないし、『坊っちゃん』はこれは漱石が始めて書いた小説らしい小説である。(『猫』と『坊っちゃん』の前に書かれたいくつかの掌篇は、作品というよりは試し書きであろう。)

 有名な『坊っちゃん』の書出し「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。」をくだくだしく言い換えると次のようになる。

「自分の無鉄砲という(社会に適応しづらい)性格は、もともと親からの遺伝のせいで、自分の責任ではない。自分も本来世間並みに得をしたい、金儲けもしたいのだが、その性格のためだろうか、いつもうまく行かないで損ばかりしている」

 ここで早くも全漱石作品を覆う二大基調が登場する。

自分は悪くない。(自分の責任ではない。)
いつも損ばかりして金が無い。

 も少し敷衍すると、
自分が正しいか、間違っていないかということに最大関心が行くので、それ以外は二の次である。
自分の過去に対する評価が常に損得勘定から離れない。自分の人生が(子供のやる人生ゲームのように)常にお金(損得)に直結している。
 
 も書出しの「親譲り」の語が示すように、その遠因は確かに(山の手の江戸っ子という)漱石の血脈に関係がある。しかし直接にはやはり漱石個人の特質に由来するものであろう。

 については世間一般にはあまり深くは理解されない特質なので、(小論では小出しに指摘してきたつもりだが、)『坊っちゃん』では主人公の「正義感」あるいは「江戸っ子気質」「意地っ張り」と誤解されることが多い。しかし坊っちゃんの正邪の感覚が世間一般のそれと大きくズレているのは、正義感の強すぎるせいではない。意地を張り過ぎているせいでもない。正義感という(文芸的に)陳腐化したモラルとは関係ない、クソ真面目という珍しくもない類型とも関係のない、もっとユニークな個人的なものである。漱石個人の根源的な性格に根差したものである。
 読者は坊っちゃんの奇矯な言動にカタルシスを覚えるため気付かないが、そして漱石も『坊っちゃん』のような筆致を以後封印してしまったので分かりにくくなってしまったが、坊っちゃんの言動はに述べるような漱石の特徴を体現している。坊っちゃんは自分が間違っているのでなければ、他のことには関心がない。そして『坊っちゃん』以降の作品の主人公も、多くはこの行動基準に従って生きているのである。

 について言えば、ストレートな話ではあるが少々分かりにくいようだ。坊っちゃんはお金に恬淡と思われているが、その小説は常にお金の話題に充ちている。たかだか24×24字詰原稿紙で150枚の『坊っちゃん』に、金の話・金銭のやり取りの話・物の値段の話がちょうど100ヶ所ある。1枚半に1回、全集本でも文庫本でも1頁半に1回、金のことが出てくる。坊っちゃんはそれほどお金に執着しているのか。
 これについては『草枕』冒頭の章句の援けを借りたくなる。あまりにも有名なその書き出しに続くのは、「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」であるが、ふつうは人の世が住みにくいと人のいない所へ行きたくなるものだが、漱石は違う。安い所へ行きたくなるという。家賃が安いと自分が損をしている感覚が減殺されるというのであろうか。金がかからないと心が平和になるのだろうか。金の話はそれ自体難しいものではないはずであるが、漱石が書くとそこにはまた別の世界が広がっているようである。

 金の話の出たついでに言っておくが、『坊っちゃん』の最初の章の真ん中辺に、
「只おやじが小使を呉れないには閉口した。」
 という一文がある。この目立たない箇所に書かれたつぶやきは、恐らく漱石の全文章の中で最も深刻・切実な一言であろう。これほどの本音が語られている箇所を他に知らない。漱石は原稿用紙の前ではいわゆる赤裸々な自己告白をしなかった作家であるが、ここでは生身の夏目金之助が剥き出しになっている。
 養家のトラブルのため塩原籍のまま実家に引き取られた金之助は、実父に仕方ないから飯だけは食わせてやるがあとは知らないという意味のことを言われた。まるで野良犬を、親戚(それも妾腹の)を居候に置くみたいな扱いをされたのである。家にいて赤の他人のように扱われる。坊っちゃんは憐れみを拒否するから漱石は金の無い話に置き換えているが、つい本音が顔を覗かせるのも処女作ならではであろう。漱石がその悲しみをいつまでも覚えているのは仕方ないとして、しかし金之助の学資(衣食住の入費)は実際どこから出たのであろうか。
 漱石が後年、金のことばかり書くようになったのは、この書生時代の人に言われない「野良犬事件」がトラウマになっていたと言える。(後年野良犬ならぬ捨て猫を主人公にした小説があれだけすらすら書けたのも、そして2度と書かれなかったのも、遠因は同じところにあるように思われる。)
 それは後にもっと露骨な、そしてよく分からないモチーフ「叔父による財産簒奪」につながるのだが、それが漱石神経症によるものだとすれば、それもまた不幸な幼少時代にその原因を見なければならない。しかしそれはまた別の研究テーマであろう。

(以上、「第49項.処女作にすべてがあるというけれど」より)