明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 2

258.『坊っちゃん』日本で一番有名な小説(2)――何の用だろう


 2007年10月集英社から『直筆で読む「坊っちゃん」』という漱石の直筆原稿の写真版が出版されて、一般の愛読者にとっての『坊っちゃん』に関する本文の問題は一応終結した。しかし過去に上梓されたすべての『坊っちゃん』の版をいったん忘れて、直筆原稿(写真)版に極力寄り添うにしても、残された問題は小さくない。

①原稿における漱石の誤記を正すか否か。
②その前に当該箇所を漱石の誤記と認定するか否か。
③虚子が原稿に手を入れた箇所の認定とその扱い。
漱石が初出(ホトトギス)に(誤植を訂正する以外に)手を入れた箇所を活かすか否か。
⑤その前に、そもそもそんな箇所が存在するのかという問題。
⑥初版(鶉籠)における本文の異同に、活かすべき箇所があるか否か。
漱石が初版(鶉籠)に(誤植を訂正する以外に)手を入れたがっていた箇所があるか否か。

 本ブログは漱石にとって「正しい本文」をめざすものでもあるが、一方書誌学的に作品ごとの本文の校異をどこまでも極めることを目的としない。つまり漱石が「どちらでもいい」と返答するような問題については、これを取り上げない。
 ということで『坊っちゃん』本文の引用は従来通り、原則として岩波書店の原稿準拠と称する漱石全集(第2巻1994年1月刊・2002年5月刊)、定本漱石全集(第2巻2017年1月刊)に拠る。ただし例によって新仮名遣いに直し、ルビは漱石の場合読者用でなく校正者植字工用であるから極力省くこととした。引用文中の省略箇所は(あれば)・・・で示す。
 前にも延べたが、漱石は基本的に読者がどのように読むかに関心がない。自分が「正しく」書いているか否かが唯一最大の関心事である。(これはある意味では科学者の態度に似ていると言っていいかも知れない。科学者は自分の書いた数式が正しいか否かが全てであって、その数式なり数式の考え方が汎く大衆に理解される、一般常識にかなっているかなどということには、ふつう関心を持たないだろう。)
 であれば漱石ファンを悩ます校正・校異の諸問題も、その観点からのみ検証すればいいわけである。つまり漱石が「どちらも誤りではない」と言うであろう事例に対しては、とくにあげつらう必要はないのである。

 早速であるが小説のタイトルは、本ブログでは『坊っちゃん』(促音拗音を2つとも小さく書く)とする。
 漱石の書いた通りなら『坊ん』(「つ」は小さく、「や」は大きく書く)で決まりであるが、旧カナのルールでは『坊つちやん』『坊ちやん』が普通であり、新カナでは『坊ん』『坊ちん』である。これにルビの有無、(ルビや促音拗音撥音の)平仮名片仮名問題まで加えると、優に10通りを超えるタイトル候補が現われることになる。漱石がそのうちの1つをチョイスしてくれるなら、黙ってそれに従えばよい。しかし(黄泉の国の)漱石の答は明らかに「どっちでもいい」であろう。
 しつこいようだが、漱石は『猫』でも「坊や」「坊やちゃん」「坊ば」と書いているが、その場合のルビは「ぼ」でなく「ぼう」である。「坊ちゃん」と書いてあればルビは「ぼつ」または「ぼツ」であろう。ただし「坊(ぼう)ちゃん」という言い方もあり得なくはない。例えば夏目坊一という人がいたとすれば、その人は「坊(ぼう)ちゃん」でもあろう。僧侶なら「お坊(ぼう)さん」である。「坊(ぼ)ちゃん」というのは流石にないだろうが、「坊(ぼん)」「坊(ぼん)さん」という言い方もあり、その場合は「坊(ぼン)」というルビも可能である。別の意味で、「坊(ぼく)ちゃん」という表現も、文芸作品であれば通用するかも知れない。
漱石が書いたまま」を絶対視するという意味で「坊ちやん」を通そうとするのであれば、「赤シヤツ」は「赤シやツ」であろう。拗音を小さく書くルールを採用すれば、「赤シツ」は「赤シツ」であろう。(清へ出した手紙には片仮名を封じて「赤しやつ」と書いている。)
 つまり何が言いたいかというと、校異の議論はかように出口のない隘路に辿り着くだけだということである(たいていの専門家が途中で匙を投げたように)。
 漱石活版印刷文化を否定するものではなかったから、誤植は気になったであろうが、そのほかの印刷にまつわる些細なことには関心を向けなかった。天才は細部に関心がない。本人に興味がないことを問い合わせても答えてはくれまい。

坊っちゃん』の本文確定で言うべき点があるとすれば、とりあえずは大事な所は2箇所だけである。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。(『坊っちゃん』第1章)

 これは前述したが、「ホトトギス」でいきなり原稿を誤読(誤植)されてしまったのだから始末が悪い。初出も初版も「何用だろうと思って」となっているのだから、読者は疑問の呈しようがない。広く出版され読まれた昭和の菊判全集でもこの「誤り」は踏襲された。これが糺されたのは前記1994年1月、原稿準拠と称する所謂平成版の漱石全集(第2巻)からである。しかしこの段階でも漱石の書いた原稿を見る機会のない一般読者の多くは、決して目から鱗がという状況には至らなかったはずである。なぜなら百年近く「何か用だろう」で通されてきた言い回しを、何の言い訳(注釈・岩波書店の謂う注解)もなく黙って本文だけ「何の用だろう」に直されていては、これは気付く方が難しいというものであろう。巻末の校異表には載っているといっても、そんなところまで目を通す読者が何人いるというのか。だいいち読者は1994年版の編集者の方を信用しようにも、その材料がまったく与えられていないのである。ここは注解頁に(他のどうでもいいような例でさえやっているように)自筆原稿の写真版を添付して、100年(実際には90年)の過ちを訂正謝罪すべきではなかったか。『坊っちゃん』が世に出て、ほとんどすべての日本人に読まれていると思うが、延人数にして2億人、いったいどのくらいの人が「何か用だろう」とインプットされたまま死んでいったのか。またこのことについての訂正は、今我が国で生きている1億人以上の国民に対して、どのくらい有効になされるのか、あるいはなされないのか。

 変体カナで「可」のくずしとして「か」を書くときは、横棒「ー」の下に「の」の字である。この横棒を漱石はつつましやかに書くから、横棒を見過ごすと、つい「か」を「の」と読み違えることがある。しかし「か」を「の」と読み違えることはあっても、ふつう「の」を「か」と間違えることはない。ゴミでもついているのかと思って集英社の写真版をよく見ても、「の」としか読めない。(文章の意味を辿ってしまった)植字工の先入観のなせる技であろうか。1人の職人の誤った先入観念が2億人の誤読を生んだ。
「何か用だろう」と思って出掛けるのと、「何の用だろう」と思って出掛けるのでは、坊っちゃんの立場は180度異なる。坊っちゃんは乱暴者ではあるが、坊っちゃんの性格に投げやりなところはない。坊っちゃんは(漱石同様)真摯な性格である。まっすぐな性分で融通が利かない。「何か用だろう」と思ったのなら、坊っちゃんは校長の存在には重きを置いていないことになる。校長の言うことなどどうでもいいのである。事実は逆で、坊っちゃんは赴任先の中学の校長(狸)には、「到底あなたの仰ゃる通りにゃ出来ません、此辞令は返します」と生真面目に答えている。人の言うことがどうでもよくないから、色んな場面で人と衝突するのである。
 坊っちゃんは至極まっとうに、「何の用だろう」と訝りながら、卒業したばかりの物理学校の、自分と親しくもなく利害関係もない校長を、普通に訪ねたのである。

 ここで誰もが疑問に思うことは、ではなぜ漱石ホトトギスの誤植を糺さなかったのかという問題である。2億人の誤解ということでいえば、その最大の責任者は漱石であるとも言える。なぜ漱石はそれが気にならないのか。
 漱石の理屈では誤解は、誤解する人が悪いのである。本ブログ(心篇24)でも述べたように、漱石には自作を読み返す趣味はなかった。自分の作品は自分の子供のようなもので、気に入らないからといって取り換えるわけにも手直しするわけにもいかない。「私生児みたいなもの」とも漱石は言っている。つまり可愛いけど人様に見せるのは恥ずかしい気持ちがある。自作を大勢の人が読んでくれるのは嬉しくもあり、また恥ずかしくもある。自分の欠陥を頼まれもせぬのに世間に晒していることに、漱石は気が引けているのである。そこにテニヲハの間違いがあったとしても、漱石としてはもうそんなことにこだわるよりは、次のステップを目指した方がましである。人生は短い、ということであろう。

「何か用だろう」――世間知らずで常識外れの坊っちゃんには、それもあり得るかも知れない。社会的地位や名誉にそっぽを向くのが坊っちゃんである。漱石はそう思って放置したのだろうか。しかし漱石が地位や名誉をめざして半生(社会的生活)を送って来たこともまた事実である。もしかすると漱石が雑誌も初版本も細かくは読み返さず、「何か用だろう」についてまったく気付いていなかった可能性もある。――以って瞑すべしと言うべきか。高橋義孝ではないが校正恐るべしと言うべきか。

「もう御別れになるかも知れません。存分御機嫌よう」(『坊っちゃん』第1章)

 有名な清のこのセリフは、反対に漱石の書き間違いであろう。初出も初版も(昭和の全集も)誰かが気付いたのか「随分御機嫌よう」である。国文に「存分ご機嫌よう」などという言い方はない。この箇所については、後世の人に無用の誤解を与える本文になってしまっている。

 ここでも問題はひとつである。(漱石以外に)誰が正誤の判定を下すべきか、という問題である。誰も結論が下せない(責任が取れない)というのであれば、この問題は問題とするに及ばない。あるいはそうするに堪えられない。
 の「存分」については『野分』の記述にも関連して触れたことがあるので、と併せて本ブログ心篇24も参照いただきたい。

漱石「最後の挨拶」心篇 24 - 明石吟平の漱石ブログ

237.『先生と私』1日1回(10)――永訣