明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 4

217.『心』志賀直哉の場合(承前)――神経戦ガチンコ勝負


 折角ここまで書いて来たのだから、オマケとして志賀直哉漱石のことを語った文章を年代順に掲げてみる。

 夏目先生のものには先生の「我(が)」或いは「道念」というようなものが気持よく滲み出している。それが読む者を惹きつける。立派な作家には何かの意味で屹度そういうものがある。然し芸術の上から云えば此「我」も「道念」も必ずしも一番大切なものではない。そして誰よりも先ず作家自身、作品にそれが強く現れる事に厭きて来る。「我」というものが結局小さい感じがして来るからであろう。「則天去私」というのは先生として、又先生の年として最も自然な要求だったと思える。(志賀直哉「『漱石全集』推薦」/昭和3年岩波書店漱石全集」内容見本)

 書くものの内容が媒体に拠らないところが志賀直哉らしい。漱石全集とはいえ、たかだか広告のパンフレットに、漱石の特質が(自分自身の特質と共に)強く表れている。
 このとき志賀直哉45歳。『心』を書いたときの漱石(47歳)に近い。「則天去私」の本質についても、ちっぽけな自分の「我」や「道念」を去って、もっと大きな、神の如き詩の心に衝き順って生きたい、という叫びを、志賀直哉はちゃんと諒解していた。

 夏目漱石は最も愛読した作家で、「猫」でも、「坊っちゃん」でも、「野分」でも、「草枕」でも、みんな繰返して読んだ。人間の行為心情に対する漱石の趣味、或いは好悪と云ってもいいかも知れないが、それに同感した。漱石の初期のものにはユーモアとそういうものとが気持よく溶け合っている。ユーモアだけでなく、そういう一種の道念というようなものが一緒になっている点で、少しも下品にならず、何か鋭いものを持っていた。
 雑誌の出るのを待ち兼ね、むさぼり読んだ。年末に、正月の特別号が出るのを待つ気持は実に楽しかった。今の若い人達が今の雑誌をあれ程に待つかしらと思う。(志賀直哉「愛読書回顧」/『向日葵』――武者小路実篤編輯――昭和22年創刊号)

 漱石の愛読者は多いといっても、『野分』を繰り返し読んだのは志賀直哉だけではなかろうか。鬱々として楽しまない白井道也の、世に容れられないさまが身に染むのだろう。角があると転がるたびに角がすれて痛いという、『猫』の鈴木藤十郎君の指摘に、衷心から同意するのであろう。

 小説を仕事にする気になったのは割合に早く、学習院の高等科の一二年の頃だ。
 尾崎紅葉の「多情多恨」などには随分感心したし、刺激された。これは十四五の時読んで、少しも面白くなく、途中でよしたが、明治三十八年、大学へ入る前の年だから二十三くらいだろうが、この暮に祖父が癌になり、夜その枕元で、読み返し大変感心した。字の使い方など手帳に書抜いたりして、叮嚀に読んだ。然し文学者として影響をうけたといってもいいのは、矢張り夏目さんかも知れない。文章の影響があったとは云えないが、何となく影響された。①夏目さんのものは晩年のものを除いては、総て出た時に読んで、それぞれに面白く感じた。・・・
 ・・・
 夏目さんの影響は前にもいったように、文学の上の影響とは云えないものだ。夏目さんの作に現われている一種のモラールから来るもので、寧ろ実生活の方に影響を受けたと云っていいかもしれない。②夏目さんが大学をやめて朝日へ入るまで、二学期だったか教場で講義を聴いたほか、牛込の漱石山房へ二度行ったくらいのものだった。
 教場で見た感じは悪くなかった。却々(なかなか)の気取り屋だが、不愉快な気取り屋ではなかった。③西片町の家に一度、これは出た科目の終了證をしてもらいに玄関まで行った事がある。それから何年かして、二度牛込の漱石山房へ行ったが、此時の事は何かに書いた事があるから略す。
 個人として会った感じは此方が尊敬していた故もあり、夏目さんの方でも僕に好意を持っていられたから大変気持がよかった。どこにも隙がないという形で、相当神経質な感じはしたが、それが少しも感じが悪くなかった。こっちもある程度神経質だけれど、どういうものか神経質な人に会うと、こっちは急にあべこべな気分になって了う。一緒に神経質になって了ってはいたちごっこになってやり切れないという気がするかららしい。然し、後で誰に聴いたか、若しかしたら津田青楓に聴いたかとも思うが、夏目さんだったか奥さんだったか、僕が話ながら、盛んに咳ばらいをするので却々神経質な人だ、と云っていたということを聞いた。こっちは反対に出来るだけ暢気な気分で話したつもりだったが、自分でそんな気がしただけだったかも知れない。
 それから夏目さんのことで覚えているのは、岩本禎(岩元禎)さんから聴いた事で、その頃は未だ何も発表していない頃だから夏目という名は覚えないが、何でも江戸ッ児で、熊本で教員をしているが、田舎の下駄は履けないといって、浅草の香取屋から、いつも取寄せているという話を聞き、後年若しかしたらそれは夏目さんではないかという気がしたので、行った時、訊いたら、矢張りそうだった。然し、香取屋から取寄せたというのは話が大袈裟になっているという事だった。尤も僕にもこの経験がある。尾ノ道へ行っていた頃、尾ノ道の下駄を履くと、僕は山の中腹に住んでいたのだが、二三度山を上り下りするともう鼻緒がゆるんでしまって、後は引きずって歩くようになる。なるほどこれでは困ると思った事がある。その後、赤城に行っている時にも、やっぱり前橋辺の下駄は鼻緒が弛んで直ぐ履けなくなる。赤城の時は東京から最も安いコール天の鼻緒の奴を取寄せて履いたが、これだと却々弛まない。つまり洒落でも何でもなく、実用上の問題だったのだ。それから僕の「清兵衛と瓢箪」という尾ノ道の言葉で会話を書いた短篇の事から、方言の話になり、④坊っちゃん」の中の方言を松山の人に云わせると、間違ってはいないが、いかにも面白味のない会話だと云われた、という話をされた。(志賀直哉「稲村雑談」昭和23年8月/季刊『作品』第1号)

 漱石は西片には明治39年12月末から明治40年9月末まで棲んだ。明治40年3月に東大講師を辞め4月には朝日へ入社している。志賀直哉は明治39年9月に東大英文科に入学して、1学期・2学期まで漱石の授業を受けた(②)。単位の認定印を貰いに西片の自宅を訪れたというが(③)、明治40年3月のことであろう。最後まで出席していれば普通わざわざ教師の自宅まで出向くこともないから、他の学生と歩調の合わないところがあったのかも知れない。志賀直哉は明治41年9月には国文科に転じたが、どのみち学業を続ける意志はもうなかったと思われる。

 ところで引用文末尾の松山弁のくだり(④)では、伊予地方に生まれなくてよかったとつくづく思う。どうでもいいような箇所であっても、ツボを外した漱石の文章を読みたいとは誰も思わないだろう。論者は岡山生まれだが小学生時代を名古屋で過ごし、中学高校は金沢にいた。例えばテレビドラマ等でネイティブでない役者が岡山弁・名古屋弁・金沢弁のセリフをしゃべるとして、その役者がネイティブでないことは地元の人間にはすぐ分かる。それはそのドラマの瑕疵ではないかも知れないが、少なくとも視聴する者の興を削ぐことは事実であろう。
 もちろん賢明な漱石は自分の作品で、方言をそのようには扱っていない。「東京弁」丸出しの漱石自身や登場人物の視線で見て、あくまでユーモアとして、その範疇での使用である。それでもその松山弁が面白くないとすれば、それは松山弁を知る者の悲劇に他ならない。もしかしたら虚子が直した箇所が、かえって面白味を減殺してしまっているのかも知れない。

 それから、夏目さんなどは人に対する好意で、純粋な批判は出来ないかも知れないと思っている。この間、『坊っちゃん』を拾いよみしてなかなかうまいものだと思った。前に『道草』を読みかけ、なかなかいいものだと思いつつ中絶したが、近く読み直そうと思っている。・・・(志賀直哉「S君との雑談」/『中央公論』昭和27年7月号)

 漱石の愛読者であった志賀直哉が、戦後になっても『道草』を読み通していなかったとは俄かに信じられないことである。例の朝日の事件の後であるから、引用文の①にもあるように、『道草』『明暗』を新聞や初版本では読まなかったとしても、遅くとも全集が出たときには読んでいたと、ふつうは誰でもそう思うだろう。ビートルズのアルバムをデビュー以来丹念に聴いて来て、最後の2枚( Abbey Road か Let It Be )を何かの事情(受験とか)で発売時にすぐ買わなかったとしても、そのうちの1枚を、(30年以上経って)結局最後まで聴き通していないなどということが考えられるだろうか。( Yellow Submarine  ならそういうこともあるかも知れないが、『道草』は『坑夫』ではない。)
 まあ、むろんそういうことではなく、漱石の自伝ふうの『道草』という作品自体に、志賀直哉を忌避させるものがあったと考えるのが自然である。里子、養子、金銭トラブル、留学、流産、妻への不信、親戚付き合い、・・・『道草』に書かれるすべての事柄の一つ一つが、志賀直哉にとって堪らなく鬱陶しいものに感ぜられたのであろう。
 10年位の活動期間を通じて1ダースほどの主要作品をリリースし、今だに多くの国民に愛される漱石ビートルズであるが、最後の大作『明暗』は、偉大なアルバム Abbey Road に比定できる。その前後に延々と、自分たちのルーツとなった古い楽曲も含めて録音され、メンバーのコンセンサスを得られないまま、一時はお蔵入りになりかけた Let It Be ( Get Back ) は、 Abbey Road の前に立ち上ったプロジェクトという意味で、『道草』に相当するだろう。ビートルズの楽曲だけを求めるファンにとって、 Get Back の(オールドタイマーの)セッションが退屈であるように、自然主義の洗礼を受けてそれを乗り超えていた志賀直哉にとってもまた、『道草』は読み通すことの難しい作物であったと言える。

 余談はさておき、漱石志賀直哉の交渉について、最後に芥川龍之介の談話とされるものから紹介して締め括りとしたい。それは昭和43年岩波書店葛巻義敏編『芥川龍之介未定稿集』に収録されているものである。

「或時、僕が、志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けないと言った。そして、どうしたらああ云う文章が書けるんでしょうねと先生に言ったら、先生は、文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああ云う風に書けるんだろうとおっしゃった。そうして、俺もああ云うのは書けないと言われた」(大正3、4年芥川龍之介志賀直哉氏の短篇(断片)」の劈頭に付された編者註より)

 私など、はじめて先生の所へ上ってお目にかかった時には、どうにも膝頭が顫えて弱ったものですが、先輩の志賀君が初めて先生を訪ね、例の書斎へ通されましたが、先生は机の側(そば)の座布団に厳然と「さあ、何処からでも遣って来い」と云わぬばかりに構えて、禅坊主が、座禅の時の様に落ち着いているので、流石の志賀君も、何処へ取りつく島もなく、黙然と先生の前に坐って居ました。が、その内少し心細くなって膝頭が顫えかけて来た時に、何処からか一匹の蝿が飛んで来て、先生の鼻の横っちょにとまった、――その時、先生がその蝿を遂う為、手を挙げられたなら、志賀君も助かったのでしょうが、――先生は厳然として、頭を横に強く一つ振って、その蝿を遂ってしまわれたので、志賀君はますます弱ってしまったそうです。(昭和2年5月芥川龍之介談話/夏目先生」より)

 これは改造社が円本宣伝のため行なった文芸講演の一環として、昭和2年5月21日(土)青森市で開かれた講演で、岩波書店漱石全集別巻「漱石言行録」にも載っているものであるが、文章は細部が少し異なっている。「言行録」の方は『東奥日報』に載った講演当時の筆録のようで、引用した「未定稿集」版は、芥川龍之介の死後直ぐに出た8巻本全集の(岩波の)編集部宛に、筆録者自身から投稿されたものであるという。一読しても「未定稿集」版の方がよりオリジナルに近いと思われ、また編者の葛巻義敏の方が芥川龍之介の語り口を熟知しているはずであるから、そちらを引用した。
 ひとつだけ、『東奥日報』版の該当箇所「志賀君と先生」の末尾の一文が、「未定稿集」版には欠けている。

 志賀君が帰った後で先生の奥さんが先生に「あの方は心臓病か何かでしょう」と言ったということです。(漱石全集別巻「言行録」芥川龍之介漱石先生の話/志賀君と先生』末尾)

 亡くなる2ヶ月前の芥川龍之介が、本当にこんなことをしゃべったのかという気もするが、『東奥日報』の記者が話を捏造したとも思えないから、実際にしゃべったのだろう。心臓病の人間が90歳まで生きるだろうかという話はさて置いても、9歳も年上の志賀直哉のことを君付けで呼んでいることも、今の常識からするとヘンであるが、当時の風潮でそんな言い方を誰もがしたのだろうか。まさか業界用語ではないだろう。
 ところでそのときの芥川龍之介は里見弴とペアで北海道から次の講演地新潟へ向かう途中であり、青森は(人気者ゆえの)飛び入り参加だというのである。それで「言行録」の記事は講演としては短いのが腑に落ちるが、もしかしたら里見弴も横にいないので、志賀直哉について、ついいらぬことをしゃべ散らかしたのであろうか。(青森での弁士は秋田雨雀と片岡鉄平という。)
 ちなみにこの青森市の講演を、弘前高校に入ったばかりの19歳の津島修治が聴きに行ったという話があるが、もし行っていれば少なくとも友人には話しているはずだから(隠す理由がない)、弘前時代・青森中学時代の友人同級生の思い出話に1つくらいは出て来てもおかしくない。もちろん行かなかった証拠もないわけだが、たぶん夕食前には終わってしまうであろう講演会に、芥川龍之介が飛び入りで壇上に上がるからといって、何の情報も持たない半ドン授業後の弘高生が駆け付けられるものでもあるまい。まあ、もし聴いたとしても、太宰治漱石には(通俗小説を書く大家ということで)学ぶものがなかったのだから、少しも面白くなかったであろう。